太田述正コラム#8028(2015.11.12)
<小林敏明『廣松渉--近代の超克』を読む(その9)>(2016.2.27公開)

⇒以下は、小林の脱線気味の箇所なのですが、色々考えさせられる部分があったので、取り上げました。(太田)

 「・・・<京都学派や廣松とはまた一味違って、>日本浪漫派<(注18)>・・・<は、>近代というものを資本主義社会の現実からもっとも離れた心情の世界においてとらえ、それのアンチ・テーゼを彼らの夢想する「日本的古代」のなかに「純化」してみせた・・・。

 (注18)「1930年代後半に、保田與重郎らを中心とする、近代批判と古代賛歌を支柱として、「日本の伝統への回帰」を提唱した文学思想。およびその機関誌(1935年3月創刊、1938年3月終刊)名。また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家たちをさす。・・・
 同時代背景により、文学思想を超えて、右傾的側面が青年層に絶大な影響を与えた。機関誌は、保田與重郎が主宰。このほか、神保光太郎、亀井勝一郎、中島栄次郎、中谷孝雄、緒方隆士が創刊メンバー。太宰治、檀一雄らも同人として加わる。周辺人脈には、伊東静雄、蓮田善明、中原中也、三島由紀夫など。彼ら掲載同人および周辺人脈は、必ずしも保田らと意見や態度が一致していた訳ではない。プロレタリア文学運動の壊滅による文学界の暗い空気を一掃。またはその代替思潮の受け皿となった事実がある。・・・
 三島由紀夫は、30代後半に記した自伝回想記「私の遍歴時代」で、清水文雄や蓮田善明の主宰した雑誌『文藝文化』に関して、「戦争中のこちたき指導者理論や国家総力戦の功利的な目的意識から、あえかな日本の古典美を守る城砦であった」と記している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%AA%E6%9B%BC%E6%B4%BE

 <いわば、>彼らは近代を矮小化した。
 しかしその矮小化によって近代はたやすく手に入る対象物となった。・・・
 戦後においても<この姿勢を貫い>たのは竹内好と橋川文三、そして・・・三島由紀夫・・・だ・・・。・・・
 ところで、こうした日本浪漫派<を想起するにつけ、>私にとって興味深いのは、ドイツ・ロマンティクの果たした歴史的役割を鮮やかに分析してみせたプレスナー<(注19)>の次のような言葉である。

 (注19)ヘルムート・プレスナー(Helmuth Plessner。1892〜1985年)は、「ドイツ・・・出身のユダヤ系哲学者・社会学者である。哲学的人間学の黎明期を代表する理論家・・・ハイデルベルク大学で・・・動物学を専攻。・・・哲学に転向し、ゲッティンゲン大学で・・・フッサールに師事。その後、カント研究に傾倒し、エアランゲン大学において学位を取得する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%83%BC 

 文明の進歩のとどまるところを知らぬ勢いを前にしたとき、ヒューマニズムの視点からさらに進んで、反近代を標榜する攻撃的な視点が生まれてくる。その視点は近代というものを過去の時代や人間や出来事の保っていた偉大と卓越の高い位置から市民プロレタリアのうごめく労働世界の無意味へ向かっての頽落と見るのである。金銭崇拝、産業崇拝の風潮に反撥を覚える人々、生活全体の機械化、民主化、大衆化に反撥を覚える一切の人々は、反近代の旗印のもとに同盟する。経済革命が人間から尊厳、自由、人情を奪っていくのではないかという懸念、人類が終末に向かっているのではないかという意識は、ゴビノー<(注20)>やショーペンハウアー<(ショーペンハウエル)(コラム#471、1149、4485、4886、6044、7564)>、ワーグナー<(コラム#2183、4345、4471、4485、4499、4513、4757、4857、4926、5125、5227、5228、5891、6087、6143、6502、7303、7597、8017)>、ニーチェ<(コラム#471、496、1149、1485、3457、3517、3636、3678、3684、3710、3997、4481、4864、6046、6070、6477、6570、7110、7142、7148、7536、7540、7548、7555、7564、7569、7583、7597、7730、7887)>、ヤーコブ・ブルクハルト<(ヤコブ・ブルックハルト)(コラム#3457、4844)>、さらには英雄主義的なゲオルゲ派<(注21)>に見られる歴史下降のイメージ、死を憧憬する考え、死への憧憬を克服しようとする考えを結び合わせていくのである。・・・<(引用終わり)>

 (注20)ジョゼフ・アルテュール・ド・ゴビノー伯爵(Joseph Arthur Comte de Gobineau。1816〜1882年)はフランスの貴族主義者、小説家、文人。・・・白人至上主義を提唱し、アーリア人を支配人種と位置づけたことで知られる。・・・
 ゴビノーの思想はヒトラーとナチズムに多大な影響を与えたものの、ゴビノー自身は取り立てて反ユダヤ的ではなかった。それどころかゴビノーはユダヤ人を優越人種の一部分たる知的人民と見なし、むしろ産業や文明の推進者と目してすらいた。したがってナチはゴビノーの理論を借用する際、彼の著作の少なからぬ部分を改竄しなければならなかった。これは、親ユダヤ的なニーチェの著作をナチが利用した時のやり方と軌を一にしている。
 ゴビノーによれば、帝国というものは発展するにつれて異人種との混血を招き、故にその帝国の創り手たる「優越人種」は絶滅の危機に瀕することとなるという。一種の退化論である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC
 (注21)「1890年代初めドイツにおいてゲオルゲの周囲に集まった詩人,芸術家,学者のサークル。ゲオルゲはやがて彼らの精神的指導者とみなされ,92年新感覚の精神的芸術を目指す雑誌《芸術草紙Blatter fur die Kunst》を創刊,ゲオルゲ派の基礎が固まる(1919まで刊行)。参加者はホフマンスタール,ジェラルディPaul Gerardy,F.グンドルフ,L.クラーゲス等。派は閉鎖的エリート集団であったが,内部は当時の文学芸術思想に開かれ,独創と討論のるつぼであった。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%B2%E6%B4%BE-1163015
 シュテファン・アントン・ゲオルゲ(Stefan Anton George。1868〜1933年)は、「ドイツの詩人。ドイツ詩における象徴主義を代表する人物である。・・・ベルリン大学で学<ぶ。>・・・弟子の一人に後にアドルフ・ヒトラー暗殺計画の首謀者となったクラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%B2

 この理論の前景とも言うべき風潮的心情のメカニズムは、かなりのところまで戦前戦中の日本の状況にも当てはまるであろう。
 こういう風潮の中では近代は「金銭崇拝」とか「機械化」「大衆化」という標語だけで充分となる。

⇒これは、表見的な類似に過ぎない、と言うべきでしょう。
 プレスナーが記したのは、ドイツを始めとする、欧州における、反近代、つまりは、反(誤解・曲解的)イギリス化、の心情の叙述であるのに対し、日本の近代の超克派や廣松が記したのは、農業時代の到来に伴って非人間主義化してしまった諸社会中最も強力になった欧米諸社会が、人間主義の日本社会等に対して行いつつあったところの、政治的・軍事的、或いは、思想的・文化的、な侵略ないし汚染からの日本等の解放を希求する日本人の心情の叙述だからです。
 換言すれば、当人達が主観的にどう思っていたかはともかくとして、客観的には、プレスナーは、欧州に存在する、プロト欧州文明(農業時代たる封建時代)の時代に回帰したいという心情を叙述したのに対し、近代の超克派や廣松は、狩猟採集時代(原始共産主義時代)の文化の中核である人間主義が、僥倖にも維持されてきた日本の世界史的役割を叙述したのであって、両者は似て非なるものなのです。(太田)
 
 むしろそれを具体相にまで立ち入って詮索したならば、日本浪漫派の唱えたような純化された「反近代」はかえって動揺したことであろう。
 むしろ「すめろぎ」であれ「まほろば」であれ、近代に対置して太古の彼方に投影され憧憬された彼らの理想は、具体的規定性から逃れられれば逃れられるほど、その心情への訴えを強くしえたのである。
 自ら奈良を故郷とする安田輿重郎<(注22)>はむろんのこと、亀井勝一郎<(注23)>や小林秀雄<(注24)(コラム#435、1070Q&A、1644、2998)>、それに和辻哲郎<(113、114、222、346、923Q&A、1004、1035、1122、1157、1212、1504、2530、2888、2998、3287、3368、3460、3580、3626、3666、2927、4051、4448、4593、4619、4739、5287、5361、5954、5976、5989、6034、6200、6301、6313、6397、6399、6520、6745、6798、6842、6898、7233、7268、7269、7650。本シリーズ内は省略)>までが歩調を合わせた大和回帰がそのような文脈と無関係であったはずはない。・・・」(162〜165)

 (注22)1910〜81年。「旧制大阪高校から東<大>・・・美学科美術史学科卒業。・・・高校時代にはマルクス主義にも触れ、蔵原惟人や中条百合子の作品を評価していた。・・・亀井勝一郎らとともに『日本浪曼派』創刊同人として活躍。・・・ヘルダーリンやシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾倒して、近代文明批判と日本古典主義を展開。・・・
 明治維新以降の神道の国教化(国家神道)に疑問を呈し、上古の神道とは異なるのではと評した。キリスト教のような布教する宗教ではなく、あくまで自然に根ざした人間の本源的な宗教であり、信仰の強制=皇民化に反対していた。大東亜共栄圏の侵略の方便に神道が使われることに、祭政一致の観点から嫌悪を示していた。
 <また、>・・・近代性の克復により、アジアの根源的精神性の目覚めを期待して<おり、>・・・戦争という手段は、峻拒され<べきもの、>と考えていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%94%B0%E8%88%87%E9%87%8D%E9%83%8E 
 (注23)1907〜66年。「旧制山形高等学校(現・山形大学)経て、1926年・・・に東京帝国大学文学部美学科に入学するが、1927年・・・には「新人会」会員となりマルクス・レーニンに傾倒し、翌1928年・・・には退学。同年4月・・・には治安維持法違反の疑いにより札幌で逮捕され、市ヶ谷刑務所と豊多摩刑務所に投獄され、1930年・・・10月・・・に転向上申書を提出し・・・保釈される。その後、・・・懲役2年(執行猶予3年)の判決を受けた。
 この間、1932年・・・にはプロレタリア作家同盟に属すが、翌年には解散。以後、同人雑誌『現実』(1934年)、『日本浪曼派』(1935年)を創刊し、評論を発表する。・・・
 1938年<頃から>・・・大和路紀行を行い、古代・中世の日本仏教との出会いにより開眼、聖徳太子、親鸞の教義を信仰し、その人間原理に根ざした宗教論、美術論、文明・歴史論、文学論の著作の多くを連載出版した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E5%8B%9D%E4%B8%80%E9%83%8E
 (注24)1902〜83年。東京帝大仏文科卒。「対米開戦翌年には小林は編集者として長く関係して来た「文學界」において盟友河上徹太郎の司会の元で「近代の超克」座談にオブザーバー的に参加している。・・・1946年・・・1月・・・雑誌「近代文学」の座談会<で、「>・・・僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。
大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。
 必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。
 どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。
僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか<」、と発言した。>・・・
 。「事変に黙って処する」というのは小林の事変当初から強調した表現だった。また、吉本は小林の「マルクスの悟達」に至るまでの文章を挙げてマルクスを一番良く理解していたのは小林だったと評価している。・・・
 1978年・・・『本居宣長』により日本文学大賞受賞。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%A7%80%E9%9B%84_(%E6%89%B9%E8%A9%95%E5%AE%B6)

⇒日本浪曼派の安田輿重郎と亀井勝一郎のマルクス主義から「日本の伝統」主義への転向、晩年の本居宣長研究で知られる小林秀雄のマルクス理解の深さ、について、マルクスが人間主義者であって、日本が人間主義社会であるとするならば、それぞれ、転向でも何でもない、また、当然である、と見るべきだ、と私は思うに至っています。
 こうなると、日本におけるマルクス主義の祖たる幸徳秋水、堺利彦、山川均、荒畑寒村らに、俄然、興味が湧いてくるというものであり、いずれ、彼らを取り上げたいですね。(太田)

(続く)