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太田述正コラム#8012(2015.11.4)
<小林敏明『廣松渉--近代の超克』を読む(その2)>(2016.2.19公開)

 「哲学者廣松にとって決定的に問題と見えたもの、それは・・・若きマルクスのディスクルスを支えている基本概念である。<マルクスは、>『経哲草稿』<(注3)>の<中で、>・・・およそ次のようなことを述べている。

 (注3)「マルクスは・・・エンゲルスの『国民経済学批判大綱・・・』に強い感銘を受けた。エンゲルスはこの中でイギリス産業に触れた経験から私有財産制やそれを正当化するアダム・スミス、リカード、セイなどの国民経済学(古典派経済学)を批判した。
 これに感化されたマルクスは経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになった。アダム・スミス、リカード、セイ、ジェームズ・ミル等の国民経済学者の本、またサン=シモン、フーリエ、プルードン等の社会主義者の本を読み漁った。この時の勉強のノートや草稿の一部をソ連のマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が1932年に編纂して出版したのが『経済学・哲学草稿』である。その中でマルクスは「国民経済学者は・・・労働者を人間としては認めず、労働する機能としか見ていない」点を指摘する。<そして、>・・・「生産的労働を行って、人間の類的本質を達成することが人間の本来的あり方」「しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」と述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9

 すなわち、まず主体としての人間なるものがあり、それが労働という行為を通して自分の体質を対象(客体)へと外化する。しかしこの結果生まれた対象(労働生産物ないし商品)であるにすぎないものが、逆によそよそしいものとして、その生産の主体(主人)である人間を拘束し、そこに「疎外Entfremdung」という事態が生じてしまうということである。
 明らかに、このような議論が成立するためには、基本的に「人間」「主体」「対象」「対象化」といった概念が前提されていなければならない。
 つまり前章でみた近代的パラダイムの一角をなす主体・客体の二元論図式がここに働いているのである。
 だとすれば、これはいったいマルクス主義が克服したといわれるヘーゲル<(コラム#6302、6447、6457、6459、6461、6501、6725、6867、6991、7148、7152、7154、7262、7272、7274、7296、7338、7343、7650、7773。余りに多いので2013年後半以降のものに限定した(太田)。)>の理論装置とどう違うのかというのが、廣松の抱いた根本的な疑問であった。
 ひとはそこから導き出されてくる批判的帰趨の政治的効力に目を奪われているけれども、疎外論を支えているのは近代的ブルジョア・イデオロギー以外の何ものでもないではないかという、いわば哲学者の面目をかけた批判である。 
 廣松の目には、だから『経哲草稿』のマルクスはまだ充分でなかった。むしろマルクス自身がエンゲルスなどの助けを借りながら、自己批判的にそうした発想法そのものを超えていくところにこそ思想上の決定的なターニング・ポイントがあるとするのが、廣松解釈学の眼目である。

⇒延々と、第三者の考えの紹介、及び、小林の考えか廣松の考えか定かでない叙述、が饒舌に続いた後、ようやく、このように、マルクスという第三者の考えながら、廣松の考えの核心を説明するための不可欠な前提の叙述が始まるのですが、この叙述、分かりにくいと思いませんか?
 私なら、次のような叙述になるでしょう。
 「ヘーゲルや初期のマルクスらの19世紀前半のドイツの思想家達は、集団主義の欧州社会に生きていたところ、個人主義のイギリス社会を先進的なものとして仰ぎ見、少なくとも観念の上で、イギリスに追いつこうとした。
 しかし、ヘーゲルや初期のマルクスらは、方法論的個人主義に基づいて政治学や経済学を構築したところの、イギリスやスコットランドの思想家達の著作群が描く社会を、現実のイギリス社会であると誤解していたのだ。
 現実のイギリスは、個人主義社会ではなく人間主義的社会だったというのに・・。」(太田) 

 廣松によれば、その決定的な転換はこの草稿の翌年に書かれる「フォイエルバッハ<(注4)(コラム#496、5276、6293)>に関するテーゼ」と『ドイツ・イデオロギー』にあるという。

 (注4)ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach。1804〜72年)、「ドイツの哲学者。青年ヘーゲル派の代表的な存在である。・・・ヘーゲルの哲学から出発し、のちに決別。唯物論的な立場から、特に当時のキリスト教に対して激しい批判を行った。また現世的な幸福を説くその思想は、・・・マルクスや・・・エンゲルスらに多大な影響を与えた。」ハイデルベルク大卒(神学)、同大博士(哲学)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F

 その転換のメルクマールとなる有名なフォイエルバッハ批判テーゼの一節を挙げておこう。

 フォイエルバッハは、宗教的本質を人間的本質に解消する。しかし、人間的本質は個々の個体に内在する抽象体ではない。その現実においては、それは社会的諸関係の総体である。

 ・・・廣松によれば、ここでは「人間」はもはや、初めからアプリオリに「主体」として存在するものとしてはとらえられていない。そうした想定は近代的思考が生み出した「抽象体」であるにすぎない。
 そのことは表現はちがってもフォイエルバッハが言う「人間的本質」とか「類的存在」といった概念にも当てはまる。問題は「主体」とか「類」を立ててしまう前に、このフォイエルバッハ・テーゼが唱えるように、まず「社会的諸関係」としての「人間」をとらえ、そこから全体の論を立て直すという関係論的思考の作業である。
 廣松はこうした転換に、それまであまり知られていなかったモーゼス・ヘス<(注5)>という第三者が関与したことを強調して、当時の硬直化したマルクス研究に波紋を投げかけたりもしたが、要はこの発想上の転換、言い換えればパラダイム・チェンジのキーワードとなった「社会的諸関係」をベースとした理論内容の再構築という作業である。

 (注5)Moses Hess(1812〜75年)。「ドイツのユダヤ系社会主義者、哲学者。・・・マルクス、・・・エンゲルス、・・・ラッサールとともに、ドイツにおける社会主義の祖とされている。テオドール・ヘルツルに影響を与えた政治的シオニズムの創設者でもある。」ボン大学中退。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%B9

 廣松が・・・「関係の第一次性」という一般的表現をあらゆる場面において使い始めるのも、こうしたマルクスの新解釈と重なり合っているのは言うまでもない。」(76〜78)

⇒廣松は、中期以降のマルクスは、集団主義と個人主義を、いわば弁証法的に止揚して、人間主義思想家となった、という新解釈を打ち出した、というわけです。
 マルクス主義が人間主義思想である、というのは私が、これまで気付かなかった視点です。
 この視点からすれば、日本大好き人間の毛沢東が、毛なりに、日本人のそれと近似した人間主義思想であると直感したからこそ、マルクス主義に惹かれた、と想像を逞しくすることも可能になりそうですね。(太田)

(続く)

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