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太田述正コラム#7952(2015.10.5)
<中共が目指しているもの(その6)>(2016.1.20公開)

 (ちなみに、楊は、学者、小説家で、ブログ作者でもあり、米大西洋評議会のシニア・フェローを務めたこともあって、博士号を豪州シドニーの技術大学(University of Technology)で取得し、現在、豪州国籍も保有しています。(上掲))

 「中共が海外の資本と技術を甚だ必要とした時、日本は、支那本土に投資した最初の数少ない先進諸国中の一つとなった。
 その日本は、他の欧米諸国よりも、中共の初期の改革開放期にはるかに大きな貢献を行った。
 トウ小平が生きている間は、中日関係は比較的円滑だった。
 中米関係はどうか?
 毛沢東と周恩来は、彼らの存命中に中米関係<確立>への戸を開けようとした。
 しかし、名目的な指導者であった華国鋒(Hua Guofeng)はもちろんのこと、長老政治家達の誰一人として、「米帝国主義者達」と親交を結ぼうとはしなかった。
 しかし、フランスで2年間学んだトウ小平は、権力を掌握してから2年経たないうちに、米国と外交的諸紐帯を確立することを決めた。・・・
 実のところ、ポスト・トウ期の中共における、政治体制の改革、思想の自由化、そして経済においてさえ、トウの南巡(southern tour)の際に表明された諸思想、及び、トウの市場経済についての観念、が、依然、基本的に踏襲されてきている(be stuck on)のだ。
 20年超にわたって、中共は、より大きな、理論ないし実践における諸突破(breakthrough)を行ってはいない、というのが真実なのだ。
 (もっとも、最近<・・本論考の日付は2014年11月(太田)・・>における、「法治(rule of law)」の本来の意味での(truely)実施に向けての努力(drive)は、一つの突破の始まりであると見なし得るかもしれない。)」
http://thediplomat.com/2014/11/why-china-still-needs-deng-xiaoping/
(9月28日アクセス)

 私が、かねてより指摘してきたところの、トウ小平路線・・今回のシリーズで、それが実は毛路線であったことを新たに指摘した・・を爾後の中共当局は忠実に実践してきた、或いは、中共当局にとって日本は憧憬の対象であるのに対し米国はあらゆる意味で最大の仇敵である、が裏付けられていますね。

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[日本を「独立」させる必要性]

 トウの遺訓に従い、将来、日本と(事実上の)同盟関係を結ぶためには、日本に集団的自衛権を全面解禁させ、米国から「独立」させる必要がある。

 それを仕掛けるのは、中共が米国に経済力、ひいては軍事への資源投入能力、において、米国に伍していける目途が立った時期、であったのではないかと推察されるが、日本政府が2012年9月に尖閣諸島中の魚釣島等を国有化した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6
ことに無理筋のイチャモンをつける形で、同年11月に中国共産党総書記/同中央軍事委員会主席に就任予定で既に実権を掌握していた習近平が、予定より若干前倒しした形で、日本「独立」政策を発動した、と私は見ている。
 (ちなみに、中共は2014年に米国の経済力を購買力平価で上回り
http://www.recordchina.co.jp/a95990.html
それ以降も、米国との間の経済成長ギャップを維持してきており、2030年までにはGDPベースでも米国を追い抜くことが確実視されているところだ。
http://www.mri.co.jp/news/press/uploadfiles/pr20150528pec02.pdf )
 
 また、日本を米国から「独立」させることで、自衛隊と共同訓練を頻繁に行ったり、中共軍将校を自衛隊に派遣して隊付をさせたりすることが可能となり、中共軍の錬度の向上を図ることができる。
 中共軍は、漢人文明に内在する軍事軽視の負の伝統から、(国内でのゲリラ戦や国内の敵相手の諜報的正規戦ではないところの、外国軍との正規戦に係る)教義の貧困と錬度の低さに悩まされて来た。

 そんな中共軍が、朝鮮戦争の時に、米軍と互角に近く渡り合えたのは、人海戦術によるとはいえ、制空権を完全に米軍側に奪われなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%B0%91%E8%BB%8D%E7%A9%BA%E8%BB%8D
からだが、その中共空軍を事実上創建したのは、先の大戦の終戦後に捕虜になった林弥一郎陸軍少佐以下約300名の日本軍人達であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E6%B0%91%E8%A7%A3%E6%94%BE%E8%BB%8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%BC%A5%E4%B8%80%E9%83%8E
彼らが日本軍が満州に残した日本軍機を用い、訓練や航空機整備を行った(・・空軍が正式に創設されたのは、1949年11月・・)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E6%B0%91%E8%A7%A3%E6%94%BE%E8%BB%8D#.E7.A9.BA.E8.BB.8D
ものであることを、中共当局は決して忘れていないだろう。 
 また、蒋介石が、国共内戦に敗れて台湾に逐電した時、自軍の再建の指導を米軍ではなく、長年にわたって干戈を交えてきた相手である旧日本軍の元将校達・・白団・・に求めた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%9B%A3
ことも、中共当局は羨望の思いで見守っていた、と想像される。

 そこへもってきて、トウ小平は、彼が1979年に行わせた中越戦争で、中共軍側が事実上敗北した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%B6%8A%E6%88%A6%E4%BA%89
ことで、心底危機意識を抱いたのではなかろうか。
 彼が、1984年に、復讐戦として再びしかけた中越国境紛争では一応勝利を収めた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%B6%8A%E5%9B%BD%E5%A2%83%E7%B4%9B%E4%BA%89
ものの、トウの焦燥感は殆んど薄れることはなく、トウの後継者達もまた、この思いを引きずっている、という可能性が大だ、と私は見ている次第だ。

(続く)

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