太田述正コラム#7936(2015.9.27)
<科学の発明(その3)>(2016.1.12公開)

  イ 発見

 「・・・「発見(discovery)」という言葉をとってみよう。
 クリストファー・コロンブスが1492年にアメリカ大陸を発見した時、彼は自分がやったことを描写する言葉を持っていなかった、とウートンは主張する。
 それに最も近似するラテン語の諸動詞は、コロンブスが使用したところの、インヴェニオ(invenio=見つけ出す(find out))、ヨハンネス・ストラダヌス(Johannes Stradanus)<(注11)>が彫版術(engraving)についての本のタイトル中で新しい諸発見を描写するものとして使ったところの、レペリオ(reperio=獲得する(obtain))、及び、ガリレオが彼の木星の諸衛星の諸目撃(sightings)を報告するのに用いたところの、エクスプロロ(exploro=探索(explore))だった。

 (注11)Giovanni Stradano=Jan Van der Straet(1523〜1605年)。フランダース生まれの16世紀フィレンツェで主として活動したマニエリスム(Mannerism)の芸術家。
https://en.wikipedia.org/wiki/Stradanus
 マニエリスムとは、「ルネサンス後期の美術で、イタリアを中心にして見られる傾向を指す言葉である。美術史の区分としては、盛期ルネサンスとバロックの合間にあたる。・・・
 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロら盛期ルネサンスの巨匠たちは古典的様式を完成させた。・・・1520年頃から中部イタリアでは<これら>の巨匠たちの様式の模倣が目的である芸術が出現し・・・た。その結果盛期ルネサンス様式の造形言語の知的再解釈が行われ、盛期ルネサンス様式は極端な強調、歪曲が行われるようになった。一方で古典主義には入れられなかった不合理な諸原理を表現する傾向も表れるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0

⇒ドイツ系ポーランド人だったコペルニクス(1473〜1543年)・・「ポーランド<の>・・・クラクフ大学・・・卒業<後、>・・・イタリアのボローニャ大学やパドヴァ大学で法律(ローマ法)について学び博士号を取得<するとともに天文学を学んだ>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9
・・やこのストラダヌス、そして、後出のヴェスプッチ、らが良い例ですが、少なくとも16世紀末くらいまで、欧州は一つであった、という感を深くします。
 それなのに、いまだに欧州に統一国家が成立していません。
 本シリーズのテーマとズレるのでこれくらいにしておきますが、欧州での統一国家成立を妨害し続けたイギリスの、結果論ではあれ、罪深さを思わずにはおられません。(太田)

 「発見」という用語を導入したのは、最初の全球的帝国たる大国のポルトガルであり、それは、探検家のアメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)<(注12)>が書いたとされる手紙が1504年に出版されると、欧州全域へと広がった。

 (注12)1454〜1512年。「イタリアの探検家にして地理学者。フィレンツェ生まれ。」現在の南米への、それぞれ、スペイン、ポルトガルが主宰した、少なくとも2回に及ぶ航海を行い、「1499年から1502年にかけての南米探検で彼は南緯50度まで沿岸を下った。南米大陸がアジア最南端(マレー半島、北緯1度)とアフリカ最南端(南緯34度)の経度をはるかに南へ越えて続くため、それが既知の大陸のどれにも属さない「新大陸」であることに気づ<き、>・・・1503年頃に論文『新世界』を発表する。・・・当時は北米と南米が繋がっていることは判明していないので、彼の『新世界』は南米大陸についてのみ論じている。・・・1507年、南ドイツの地理学者マルティーン・ヴァルトゼーミュラーがアメリゴの『新世界』を収録した『世界誌入門』(Cosmographiae Introductio)を出版した。その付録の世界地図にアメリゴのラテン語名アメリクス・ウェスプキウス (Americus Vespucius) の女性形からこの新大陸にアメリカという名前が付いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%83%E3%83%81

 この言葉は、英語の中では、1563年まで登場しなかった。
 発見という概念は世界を変貌させた、とウートンは言う。
 それまでは、哲学者達は、文明の最大の諸業績は、古代のギリシャとローマという過去にあったのであり、それらは、人類の探求(inquiry)の最も実りある諸物(subjects)であった、と信じてきた。
 今や、西側世界のものの考え方におけるこの後ろ向きの衝動は、「経験」に対する新たな強調によって置き換えられた。
 ウートンは、「発見への道程としての経験は、アメリカ大陸の発見より前には殆んど認識されることがなかった」、と言う。・・・

  ウ 事実

 「イギリスにおいては、「事実(fact)」という言葉は犯罪<事実>を意味(refer to)していた。
 だから「事後従犯(accessory after the fact=犯罪事実発生後の従犯)」という我々の成句がある。
 1778年にゴットホルト・レッシング(Gotthold Lessing)<(注13)>が、ドイツ語では、事実を指す言葉であるTatsacheは、「まだ若々しい」と書くことができたのは非常に奇妙に見える。

 (注13)1729〜81年。「ドイツの詩人、劇作家、思想家、批評家。ドイツ啓蒙思想の代表的な人物・・・ライプツィヒ大学で、医学と神学[、哲学、文献学]を学<び、>」[ヴィッテンベルク大学で修士号を取得した。]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0
https://en.wikipedia.org/wiki/Gotthold_Ephraim_Lessing ([]内)

⇒レッシングの生きた18世紀には、欧州一体感が薄れていたことが、(彼のキャリアがドイツ語圏内だけで完結しているところから、)窺われるように私は思われます。(太田)

 「事実」を指す諸言葉は、既に一世紀にわたって、仏、英、伊語ではありふれたものだったのだから・・。
 ウートンは、しばしば何世紀にもわたって、広範に受け入れられてきた、ばかげた「諸事実」の正体暴露に係る魅惑的な情報も提供する。
 例えば、ニンニクに触れると磁力が無効化されるという観念<(注14)>は、それを否定する疑いようのない多くの実験的諸結果にもかかわらず、不思議なほど死滅するまで長い時間がかかった。

 (注14)前出のギルバートが『磁石論』の中でそれが迷信であると指摘している。
http://wdc.kugi.kyoto-u.ac.jp/stern-j/demagadd_j.htm
 この迷信のために、1000年ころに支那で発明されアラビアを通じて欧州に伝わったところの、方位磁針を狂わせるとして、欧米では、かつて、船にニンニクを積むことが許されなかった。
http://wdc.kugi.kyoto-u.ac.jp/stern-j/upto1600_j.htm

 現在同様、当時も、みんなが証拠を見る必要があるとは感じなかったのだ。・・・」(B)

(続く)