太田述正コラム#7934(2015.9.26)
<中共が目指しているもの(その1)>(2016.1.11公開)

1 始めに

 コラム#7931で予告したところの、ピルズベリー発言
A:http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/238739/091600053/
B:http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/238739/091800056/?n_cid=nbpnbo_mlt
に係るシリーズを、表記の観点から書くことにしました。

2 ピルズベリー発言と私のコメント

 「・・・中国共産党には、中華人民共和国を設立した時<(1949年)>から「再び世界の覇権国としての地位を奪還する」という目標があり、その実現のために100年に及ぶ戦略を実行している・・・
 2010年に中国で出版された『中国の夢』という本を書いた人民解放軍の大佐、劉明福(Liu Mingfu)<がそのことを指摘しています。>・・・
 毛沢東<が>「アメリカを超えたい」と発言していた事実は<確かに>あります。彼が最初にそう言ったのは1955年に開かれたある極秘の会議において、とされています。その時に毛沢東は 「実現するには75年くらいかかるだろう」と言ったそうです。単純計算すれば、2030年に中国は米国に追いつく、ということになります。・・・

⇒毛沢東が、中共を国力世界一の国にしたい、と考えていた可能性は大いにあると思いますが、達成目標時期を2049年としたのか2030年としたのかを含め、定かな典拠はない、と見ました。(太田)

 中国では1969年5月、4人のトップクラスの将官が集まり、夏にかけて20回以上会合を重ねました。彼らは、そこで中国が進むべき道について議論し、それを戦略としてまとめ、毛沢東にメモを提出しています。・・・
 国力をつけるために資金と技術、科学、そして政治的な支援をその時代の覇権国(今の時代では米国)から取り付けることが重要だ。ただし、それを実行するには細心の注意深さが求められる。間違っても覇権国を敵に回してはいけない。敵に回せば、覇権国は台頭しようとする新興国を必ず抑えつけにくるに違いないからだ――と<記されていました>。・・・

⇒「文革派の勢いが強かった1969年当時では毛沢東でさえ党内強硬派に配慮せざるを得なかった」ことから、対ソ抑止の観点から米国への接近を既に決めていた毛沢東
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A8%AA%E5%95%8F
が、独断で決めたわけではない、という体裁をつくるために、かかる「諮問」を行ったということに過ぎない、と私は見ています。
 但し、後で述べますが、米国への接近は、日本との国交回復、という、より重要で、かつ、より長期的な意味のある目的を達成するための手段でもあった、すなわち、そちらの方こそが主眼であった、と私は考えるに至っている(コラム#7905)わけです。(太田)

 は・・・、中国がソ連の経済モデルをまねたのは誤りで、中国はその代償を払っていると見ていました。・・・」(A)

⇒トウ小平以降の中共の指導層は、全てトウの定めた既定路線を踏襲してきているだけだ、というのがかねてよりの私の主張です(コラム#省略)が、ここで更に指摘したいのは、トウ自身、毛が最晩年に到達した路線を踏襲しただけではないのか、ということです。
 トウが毛後の中共の最高指導者となったことの道筋を付けたのは毛自身です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3
し、スターリン主義、というか、共産主義との決別もまた、悔悟の念を抱いた毛からトウが直接言い聞かされてあった可能性が高い、とさえ、私は想像しています。
 前にも指摘したことですが、トウがついに毛に対する公的崇拝を止めさせなかったことの意味を、我々はよくよく思い巡らせなければならないのです。(太田)
 
 「・・・<トウ>小平は、米国から強力な支援を取り付けることに最も成功した共産党指導者と言えます。・・・1983年、当時の世界銀行トップから「どうすれば中国が経済的に米国に追いつけるか」を助言してもらう約束を取り付けたのもでした。・・・」(A)
 「・・・1972年2月のリチャード・ニクソン大統領による訪中後、75年のジェラルド・フォード大統領の訪中、77年のジミー・カーター大統領の訪中などを経て、78年12月、中国はついに米国との国交正常化にこぎ着けます。そして、この国交正常化とほぼ同時期に最高指導者に上り詰めた小平は、82年、83年と様々な改革に着手したものの、改革のスピードが十分でないことに危機感を強めていたようです。そこで彼が目をつけたのが世銀でした。・・・
 1983年、当時、世銀の総裁だった米国人のA・W・クラウセンは中国を訪れ、小平に会いました。先ほどの世銀の資料に書いてありますが、この時、小平は「私たちは米国を超えたい。どうしたら実現できるか教えてほしい」「私たちを助けていただけますか」と発言しています。これに対し、クラウセンは「世銀のエコノミストチームが、20年先を見据えて中国の経済について研究し、どうすれば中国が米国に追いつけるか助言しましょう」と密かに約束しました。

⇒既に1979年から日本が中共に無償資金協力を含むODAを開始していました
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/data/chiiki/china.html
が、資金は多々益々弁ずであり、世銀も利用するにしくはないということで、米国の支配下にある世銀に、(後で述べるように、既に日本化戦略を採用していたにもかかわらず、)無知・無辜を装って経済発展のための戦略作りを依頼する形でその目的を達成したということでしょう。(太田)

 その時、世銀のスタッフは、「低い経済水準から先進国に追いつき、追い越した国が過去に一カ国だけある。その国は、国民一人当たりの所得が毎年 5.5%成長した。だから中国も毎年5.5%成長する必要がある。でなければ、1000年経っても先進国に追いつくことはできない」と指摘しました。
 中国側は「その国はどこですか」と聞いた。・・・米国でもドイツでもなく、日本です<という回答を聞いた>中国は日本がどう経済成長を達成していったのかについても大いに研究しました。

⇒ここで紹介されている中共側の反応は、日本人でちょっと気の利いた人物ならば、真っ赤な嘘だとすぐ気が付くはずです。
 中共側が、そのような恍けた反応をあえてして、まんまと世銀/米国を騙くらかしたことは明白でしょう。(太田)

 一方、世銀は中国に対して、複数のレポートでこんなことを指摘しています。
 「世銀は、基本的に自由市場経済重視の原則で動いている。しかし、中国の経済を民間企業や市場に任せていたのでは、最高のスピードで経済成長を達成することはできない。中国が先進国に追いつくには、5.5%よりももっと高い伸び率で毎年、経済成長することが必要だ。実は、それだけ早く成長する方法があるかもしれない・・・。
 世銀は、中国の各産業分野においてトップクラスの企業を国有のまま育成すればいいと助言しました。それらの企業に対して優先的に補助金を与え、低利で融資を行い、海外から投資させればいい、と。
 また、1985年から20年の間に輸出の構成を変え、特にハイテク製品分野の育成に力を入れること、外国から過剰な借金をしないこと、外国による 直接投資は先進技術と経営近代化の手法だけに限ること、貿易会社の関与を段階的に減らして、国有企業が独自に外国と貿易するようにすること、といった提言も出しました。・・・」(B)

⇒こんなことは、日本型経済体制の下での日本の高度経済成長を中共が真似しようとすれば、日本型経済体制に中共の実態に即したいかなる修正を施すかを含め、誰でも思い付きそうなことなのであって、こんな提言をうやうやしく受け取った中共側は、さぞかし笑いをかみ殺していたことでしょうね。(太田)

(続く)