太田述正コラム#7918(2015.9.18)
<現代の怪物キッシンジャー(その2)>(2016.1.3公開)

 (2)キッシンジャーの足跡

 ・青年キッシンジャー

 「・・・ヘンリー・キッシンジャーが、「権力は」歴史の「意思表明(manifestation)であるだけでなく、唯一の(exclusive)の狙い(aim)である」、と主張したところの、400頁近い学部卒業論文(thesis)<(注4)>を書いたのは26歳の時だった。・・・」(E)

 (注4)『歴史の意味(スペングラー、トインビー、カントについての諸考察)(The Meaning of History (Reflections on Spengler, Toynbee and Kant)』(1950年)
http://www.thecrimson.com/article/1976/11/15/lies-my-father-told-me-pbabpplicant/
 この380頁の論文に当惑した大学当局は、爾後、卒業論文については、頁数の上限をその約3分の1までとした。
http://www.biography.com/people/henry-kissinger-9366016#early-life

 「・・・キッシンジャーの初期の学術的諸出版物<(注5)>は、今や古くなってしまったところの、実存主義的語彙だらけだ。

 (注5)キッシンジャーが政治に直接関与するようになったのは1960年なので、それより前の2つの著作である、『回復された世界平和(A World Restored: Metternich, Castlereagh and the Problems of Peace, 1812–22)』(1957年)と『核兵器と外交政策(Nuclear Weapons and Foreign Policy)』(1957年)を指していると思われる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Kissinger
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC

 それらを読むと、今でも陰気で不吉な趣がある。
 それでも、グランディンは、それらはキッシンジャーの知的進化について重要な諸手がかりを提供している、と信じている。
 この初期の諸著作の中で、キッシンジャーは、自己実現(self-actualization)の観念、すなわち、人間の偉大性は彼自身の諸欲望に沿うように現実を捻じ曲げる能力と関係している、という観念、を<抱懐することを>自らに許した(privileged)。
 国政術(statecraft)に適用すれば、これは、東南アジアにおける戦争において痛切なまでにはっきりしたように、その行動が決意を伝えるためだけに行われたとしても、いや、それが、人間に及ぼす諸帰結を割り引いたところの、行動を行う能力があることを伝えるためであった場合ですら、公務員達をして、<能動的に>行動を行わしめるように仕向ける(predispose)。・・・」(B)

 ・ニクソン大統領候補補佐

 「・・・この類の考え方は、キッシンジャーが公式に公的生活に入る前からキッシンジャーに影響を与えていた。
 1968年に始まったパリ平和諸会議(Paris peace talks)<(注6)>を掘り崩そうとしたところの、時の共和党大統領候補のリチャード・ニクソンを助けた、彼の形成的役割を考慮せよ。

 (注6)1968年5月10日に始まり、1973年1月23日のパリ協定(ベトナム和平協定=Paris Peace Accords)調印に至るまで、断続的に続いたところの、米・南ベトナムと北ベトナム・ベトコンとの平和会議。
https://en.wikipedia.org/wiki/Paris_Peace_Accords
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E5%8D%94%E5%AE%9A_(%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E5%92%8C%E5%B9%B3)

 キッシンジャーは、ニクソン選対に対して、リンドン・B・ジョンソン政権と南北ベトナム両政府との間の切迫する取引に関する秘密情報を流した。(注7)

 (注7)キッシンジャーは、当時、米国務省、米軍備管理軍縮庁、ランド(RAND)、[米陸軍省の資金でジョンズホプキンス大が運営していた]オペレーションズリサーチ事務所(Operations Research Office)、等、の顧問もしていた
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Kissinger 前掲
https://en.wikipedia.org/wiki/Operations_Research_Office ([]内)
ので、ベトナム戦争ないしパリ会議関係の情報に接することができた、と思われる。

 ニクソンは、南ベトナム政府に対し、自分ならもっと良い取引ができると伝え、同政府の同諸会議からの退席をもたらした。
 ニクソン当選後、数か月のうちに、キッシンジャーは、次期政権の国家安全保障担当補佐官のポストという報償を与えられた。
 (ニクソンとキッシンジャーの諸行動は、この戦争を7年も続かせることとなった上、非公人たる市民達が自身で外交を行うことを禁ずる米国の諸法に直接抵触するものだった。)・・・」(B)

 ・カンボディア爆撃

 「・・・キッシンジャーが、個人的に監督し、周到に諸地図を熟読して爆撃機群のための諸標的を同定したところの、1970年のカンボディアに対する秘密の違法な空爆を見てみよう。
 キッシンジャーにとっては、米国の物凄い(awesome)力を自由に用いる意志を知らせる(signal)ことによって、同国の凶暴性と高靱性(ferocity and toughness)を伝達(convey)することは、それ自体が重要な目的だった。
 この空爆にいかなる現実の戦略上ないしは評判上の価値があろうと、人的諸死傷は法外な(unconscionable)ものだった。
 1969年から73年にかけての、このカンボディア戦役は、推定100,000人の非戦闘員達を殺害した。・・・」(B)

 「・・・第二次世界大戦の間にドイツと日本に投下された爆弾の合計量よりも多い量の爆弾が、カンボディアとその隣国のラオスにそれぞれ投下された。<(注8)>・・・」(C)

 (注8)これは、メニュー作戦(Operation Menu)と呼ばれたところの、1969年3月18日から1970年5月26日までの、米戦略空軍による、カンボディア/ラオスの東部の北ベトナム/ベトコンの兵站を諸標的にした空爆だったが、目的を達成することに失敗した。
 それだけでなく、クメール・ルージュの台頭、ひいては大虐殺、をもたらした、との説が有力。
https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Menu

(続く)