太田述正コラム#7910(2015.9.14)
<ポルトガル帝国>(2015.12.30公開)

1 始めに

 表記について、ロジャー・クローリー(Roger Crowley)の、なかなか興味深い、『征服者達--いかにしてポルトガルはインド洋を掌握し最初全球的帝国を鍛造したか(Conquerors: How Portugal Seized the Indian Ocean and Forged the First Global Empire)』の書評
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/110c4a4c-5565-11e5-9846-de406ccb37f2.html?siteedition=intl#axzz3lU2iOzz4
(9月12日アクセス)を読んで、しばらく時間を置いて、複数の書評群をもとにこの本を紹介しようと決めていたところ、原時点ではこの書評しか出ていないことが分かったので、前倒しして取り上げることにし、ディスカッションに入れ込むより有料読者向けコラムに仕立てる方を選んだ、という次第です。
 なお、クローリー(1951年〜)は、ケンブリッジ大卒で地中海沿岸地域史に関する著作多数、というイギリス人です。
http://www.rogercrowley.co.uk/roger.htm

2 ポルトガル帝国

 「・・・インド洋は、最初にバルトロメウ・ディアス(Bartolemeu Dias)<(注1)>によって到達された。

 (注1)英語表記バーソロミュー・ディアズ (Bartholomew Diaz。1450?〜1500年)。「1486年10月10日、ポルトガル国王ジョアン2世は、アジアに至る交易路確立のためのアフリカ周回航海の遠征隊長に、ディアスを任命した。この航海の主要な目的には、エチオピア方面にあると言われるキリスト教徒の王(プレステ・ジョアンとして知られる)の国を探し、ポルトガルとの友好関係を樹立する事も含まれていた。・・・
 1487年8月、リスボンを出港・・・アフリカ南端のアガラス岬、南岸のグレート・フィッシュ川を巡り、このまま行けばインドまで到達する事がはっきりした段階で引き返した。これは乗組員の不満を抑えきれなくなったための妥協の結果と言われている。・・・1488年5月、帰路に喜望峰を発見する。・・・1488年12月、リスボンに帰港・・・
 ディアスの功績として「喜望峰発見」はあまりに一般的である。が、彼の本当の功績は<欧州>人として初めてアフリカ南端に到達し、その後のインド到達への道筋を確実に標した事にある。・・・ディアスは当初、その苦難の航程から「喜望峰」ではなく「嵐の岬」(Cabo das Tormentas) として報告していた。だが、東方への道を開くという成果に喜んだジョアン2世が「喜望峰」(Cabo da Boa Esperanca) として名前を変えさせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%82%A6%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%B9

 彼は、喜望峰を回航した最初の欧州人となった。
 しかし、10年後に、<ヴァスコ・>ダ・ガマ(<Vasco> da Gama)<(注2)>は、喜望峰を回るには、危険な(treacherous)アフリカ西海岸を小刻みに南下する必要なくして南大西洋に繰り出すことによって船団は流行の西寄り航路をとればよいことを発見することによって、新しい諸領域の鍵を開けた

 (注2)1460?〜1524年。1497年7月にリスボン出発し、翌年5月にインドのカリカット(後出)に到着し、9月に帰着した。1502〜1503年に二度目のインド行きを行ったが、その間に、「マムルーク朝スルターン所有の・・・船を捕え、財宝を奪った上に火をかけて、抵抗する婦女子50人を含む300人を死に追いやった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%9E
 ちなみに、当時のカリカットは、12世紀ころから18世紀まで続いたヒンドゥー王朝の首都だった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Zamorin_of_Calicut

 ディアスとダ・ガマのパトロンはマヌエル1世(1469〜1521年)<(注3)>だった。
 この君主は、自分が聖なる目的を持っていると信じた。

 (注3)1469〜1551年。ポルトガル王:1495〜1521年。「傍流の六男として生まれながら、偶然が重なって平和裡に王位につき、さらにその治世においてインド航路の開設等の吉事に恵まれてポルトガル王国の黄金期を築いたことから、幸運王と称される。先王ジョアン2世の推し進めた中央集権化政策を継承し、海外交易による莫大な利益を背景に、ポルトガルの絶対王政を確立した。・・・
 即位した年にキリスト騎士団長となり、主に海外にある騎士団領を王領に併合し、王室財産を拡大した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB1%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E7%8E%8B)
 「騎士団の起源は1118年頃に創設されたテンプル騎士団に遡る。フランス王によって迫害されたテンプル騎士団は1312年、最終的に教皇の命により解散させられた。しかし、ヨーロッパ全土における迫害にもかかわらず無罪が証明されたポルトガル騎士団のため、1317年、ポルトガル王ディニス1世はキリスト騎士団を創設した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3

 この国王は、香辛料貿易を輸入元と直結することによって、ヴェネツィアとエジプトのマムルーク朝という二つの諸敵の富を切り取ってしまう、という単なる経済的諸動機だけではなく、ずっと広範であるところの、イデオロギー的綱領によっても駆動されていた。
 マヌエルにとっては、インド洋は十字軍の領域であり、そこにおいて、彼は、異教徒たちを改宗させ、キリストの名の下に東部帝国を樹立し、伝説的なキリスト教徒たるアフリカ王のプレスター・ジョン(Prester John)の軍隊に加わり、共にエルサレムを再獲得する狙いで、アラビア半島の両側からイスラム世界を挟み撃ちにする意図を持っていた。
 この使命感に、ダ・ガマの諸発見を活用(exploit)し続けたところの、彼と彼の男達も感染していた。
 彼らがアフリカ沿岸を北上し、インド洋に分け入った狙いは、友人達を勝ち取るためではなく、神が与えた彼らの諸権利を主張することだった。
 彼らの「元からの(default)諸戦略は、疑い深さ、攻撃的な人質奪取、半ば抜いた刀、そして、キリスト教とイスラム教の単純な二者択一、だった」、とクローリーは言う。
 ダ・ガマと彼の後継者達、すなわち、ペドロ・カブラル(Pedro Cabral)<(注4)>、フランシスコ・デ・アルメイダ(Francisco de Almeida)<(注5)>、アフォンソ・デ・アルブケルケ(Afonso de Albuquerque)<(注6)>といった男達は、より優れた火砲によって押し付けられたところの、模範的な暴力はレアルポリティーク(realpolitik)の重要な道具だった。
 彼らは、意のままにできたわけではない。

 (注4)1467/68〜1520年。「マヌエル1世に顧問官として仕えたキリスト騎士団の一員で、彼が隊長として率いた第2回インド遠征隊は1500年4月22日、ブラジルに「漂着」した。」更にマダガスカル島を発見し、カリカットに至っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AB
 (注5)1450〜1510年。「軍人としてイスラム教徒と戦い、1505年にマヌエル1世によりインド総督(副王)に特別昇格された。アフリカ東岸、モザンビーク、インド南西岸コチンなどの築城をおこなった。マラッカに使節を派遣して、香料の集荷と通商路の防衛に努めた。1508年、マムルーク朝(エジプト)との戦いで息子ロレンソを殺され、同年着任した後任のインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケを投獄して、イスラームとの復讐戦をおこなった。1509年2月ディウ沖でのディーウ沖海戦において、グジャラート・スルターン朝、マムルーク朝、オスマン帝国の連合艦隊を全滅させ、アルブケルケに地位を譲った。1510年、ポルトガルへの帰途途中、喜望峰の西に位置する給水地サルダーニャにて現地民との争いにより戦死、同地に埋葬された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%80
 (注6)1453〜1515年。「1506年インド総督として16隻の艦隊を率いてリスボンを出発した。・・・1510年・・・11月に・・・ゴアを恒久占領した。これ以後、ゴアは・・・インド総督あるいは副王の駐在地となる。1511年にはマレー半島における香料貿易の中継地として繁栄していたマラッカ王国の占領に成功し、マラッカに1年滞在してポルトガルの東南アジアにおける拠点とする。・・・1515年12月16日海上で病死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%96%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%82%B1

 同地域の主権者達、及び、彼らの長きにわたって確立されてきたところの、イスラム教徒たる貿易相手方達は反撃してきた。
 そして、これらの諸対決についてのクローリーの型にはまった諸説明は、血腥いものだ。
 同地域の人々は、フィダルゴ(fidalgo)達・・ポルトガルの戦士貴族達・・の激しい行動規範(fierce honour code)に慣れていおらず、クローリーは、凄惨な暴虐さと同時に傑出した勇気の無数の諸事例を物語っている。
 例えば、カリカット(Calicut)<(注7)>での戦いにおいては、アルブケルケは腕と喉に諸矢を受け、胸には弾丸を受け、それでも何とか生き延びた。

 (注7)「インド西南部、<現在の>ケーララ州のアラビア海に面する港湾都市。・・・旅行家イブン・バットゥータも立ち寄っている。1407年には、明朝の鄭和がカリカット(古裏)に寄航している。・・・インド綿織物の輸出港として知られ、キャラコの語源ともなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%88

 その後数週間の間に、彼はゴア(Goa)<(注8)>を攻撃する計画を立て、その地で、6,000人のイスラム教徒達を諸モスクへと追い立て、それらに火を放った。

 (注8)ゴアはインド西海岸中部のマンドウィー河の河口にある島に位置し、天然の良港を有する。16世紀初めにはイスラーム王朝のビジャープル王国の重要都市であった。・・・16世紀から20世紀半ばまでポルトガル領インドの一部であり、ポルトガルのアジアにおける拠点であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%A2%E5%B7%9E

 「閣下、それはまことに結構な功業(deed)でございました」、と彼はマヌエルに宛てて書いた。
 恐るべき(terrible)海の獅子、インド総督のアルブケルケ・・マヌエルに奉仕すべく疲れを知らず、報いられることもなく働きつつインド洋で9年間を過ごした男・・は、クローリーのこの本の梃の支点だ。
 彼が痛みを覚えたことと言えば、負傷しただけでなく、難破し、投獄され、毒を盛られ、攻囲され、ときているのだが、それでもなお、ゴアをインドへのポルトガルの鍵として確立し、マレー沿岸のマラッカ(Malacca)に到達し、紅海へ奥深く航行した。
 最後のは、イスラム世界を震撼させたところの、厚かましい行為だった。
 アルブケルケと彼の同輩者達によって樹立された貿易独占は、実に、17世紀まで続いた。
 この諸効果は、一層長く続いた。
 すなわち、この3人の男達なかりせば、クローリーの物語(tale)が示すように、オランダの黄金時代はなかったであろうし、<後に日が沈むことがないとされるに至ったところの、>大英帝国の上に日が昇ることすらなかったであろう。」

3 終わりに

 スペイン帝国もそうですが、ポルトガル帝国の形成もまた、富とキリスト教圏の拡大を車の両輪として行われたことがご納得いただけたことと思います。
 そして、その過程においては、彼らは、あらゆる残虐行為を厭わなかったわけです。
 これは、その百年ほど前の1405〜19年に、同じくインド洋を対象に行われたところの、明の鄭和の遠征が、宗教ないしイデオロギーを掲げることなく、経済的には持ち出しの朝貢貿易を追求しつつ、比較的平和裏に行われた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%92%8C
こととは、極めて対照的です。
 このキリスト教文明たるプロト欧州文明、及び、その後継文明たる欧州文明は、野蛮の文明であり、欧州の世界制覇は、その野蛮を全世界にまき散らした、と我々は受け止めるべきでしょう。
 (モンゴルも野蛮の文明でしたが、その文明を被支配民の内面にまで押し付けようとはしませんでしたし、イスラムも野蛮の文明でしたが、その文明を少なくとも、キリスト教徒やユダヤ教徒の内面にまで押し付けようとはしなかった点で、どちらも、プロト欧州文明や欧州文明よりは野蛮の程度が低い、と言えるでしょう。)
 そして、それを始めたのがポルトガルであった、ということです。