太田述正コラム#8115(2015.12.26)
<皆さんとディスカッション(続x2853)/対露百年戦争勝利を記念して>

<太田>(ツイッターより)

 「…中国メディア…「人に対する礼儀正しさには、人どうしの利害関係が存在しうる。一方で動物に対する社会の態度は、よりその文明レベルを映し出す」としたうえで、日本社会が動物に対し安心して暮らせるほどに温情を注いでいると説明。そんな日本が「ひどい国であるはずがない」と論じた。…」
http://news.infoseek.co.jp/article/searchina_1597986/
 そうだよなー。
 よく見てるねー。
 クリスマスにほっこりさせてくれた習ちゃん。
 しかし、この分じゃ、来年、歴史認識でも日本を非難しなくなりかねない、なーんて心配をしちゃったりして。
 こんなんも。↓
http://news.searchina.net/id/1597157

<supply2525>(同上)

 習ちゃんは、日本に独立してほしいの?
 早く米国を追い出したいの?
 んで、アジアにおける大中華帝国みたいなもんをつくりたいの?

<太田>(同上)

 日本を精神的中軸とする大東亜共栄圏をつくろうとしているのさ。

<dlF0dsx.>(「たった一人の反乱(避難所)」より)

 長谷川さんの感想文<(コラム#8111)>を書いたものです。
 おかげさまで思い出しました。

 「一般の日本人は、一部エリートであるお上の意向に逆らえず、戦いたくもない戦争にかり出された」というのが確か、流通しているストーリーでしたね。
 実際は、一般人までみんな、イケイケどんどんだったにも関わらず。
 敗戦は理不尽でした。正義が負けるという。
 日本の行おうとしていた正義を援護するべきだったアメリカに、味方に後ろから打たれるような形で負かされた。
 「じゃあお前が一人でやれ」と日本はすっかり拗ねて、アメリカをおだてて世界の警察官役を押し付けた。
 そしてその後もなにかとしゃしゃり出るアメリカは、世界中から安全保障のタダ乗りをされるようになった。
 それでアメリカもついに荷が重くなりすぎて、斜陽。そもそも正義もへったくれもない国だしね。シッチャカメッチャカな警察官。
 トランプが大統領になったら、世界はどうなっていくのかな?
 ともかく日本はいつまでも拗ねてられないんだね。

<dWppofcg>(同上)

>ともかく日本はいつまでも拗ねてられないんだね。

 その通りなんだろうけど、吉田ドクトリンって想像以上に根深いよ。
 想像絶するよ。
 特に戦中・戦後直後の悲惨な時期を経験した人達の拗ねっぷりは尋常じゃない。
 吉田ドクトリン↓の話したら、吉田ドクトリン的な考え方の何が悪いのか本気で解らない、どころかを否定すると怒り出す人もいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3
 アレだけ手酷い目に会ってまだ学習出来ないの?人の為より自分達の為だけに頑張った方が賢いってまだ解らないのってなモンで。
 人間主義の<下>、命がけで頑張った結果が戦犯国と言う犯罪者の烙印。
 に目を掛けた朝鮮なんざ日本を目の敵にして延々嫌がらせをしてくる始末。
 そりゃもうやっとれんわってなるよね。

⇒毛沢東は分かってたわけだし、それ以降の中共指導層も分かってで、その認識を広範な中共人民も抱きつつあるんだから、諸君、心を強くもってちょーだい。(太田)

<4K8sKzYI>(同上)

 自称戦中派のほとんどは当時世の中を知らない子供だったことと親世代への反抗心と負け犬根性を認めたくない気持ちがタッグを組んで徹底的に歪んでる感じ。
 そこへ持ってきて占領軍のパージの後でのさばった戦前戦中に冷や飯食わされた連中が、媚米史観で自己正当化できて一石二鳥だってセコセコ歴史修正に励んだおかげでこのザマだよ。

<lA7wT.Y2>(同上)

 トランプvsヒラリー、日本にとっていいのはどっち?

<太田>

 そりゃ、無条件でトランプがいいさ。

<太田>

 それでは、その他の記事の紹介です。

 まだ新年じゃないけど、めでたいである。↓

 「井山名人、日本の連敗止める 囲碁日中決戦・・・」
http://www.asahi.com/articles/ASHDT41LNHDTUCVL004.html?iref=comtop_list_cul_n02

 日本の、女性だけが働いている寿司店を紹介した記事だ。↓

 A raw deal: the female chefs challenging sushi sexism in Japan・・・
 <「反対」派の主張も載っているが、この伝でいくと、寿司のみならず、そもそも、女性は調理人には不適だっちゅうことになっちゃうが・・。(太田)↓>
 Kazuyoshi Ono, the son of Jiro Ono, whose three-Michelin star restaurant Sukiyabashi Jiro・・・has claimed that women make inferior sushi chefs because their menstrual cycle affects their sense of taste. Others believe that women’s higher core body temperature adversely affects fresh ingredients, or that their use of cosmetics interferes with their sense of smell.・・・ 
http://www.theguardian.com/world/2015/dec/25/a-raw-deal-the-female-chefs-challenging-sushi-sexism-in-japan

 ロシアの「再」軍備状況が、豊富な地図入りで説明されている記事だ。↓

 Russia Rearms for a New Era・・・
http://www.nytimes.com/interactive/2015/12/24/world/asia/russia-arming.html?ref=world&_r=0

 ナチス時代のクリスマスの様子を紹介した記事だ。↓

 <北欧神話による説明がなされた「クリスマス」だった。↓>
 ・・・One of the most striking features of private celebration in the Nazi period was the redefinition of Christmas as a neo-pagan, Nordic celebration. Rather than focus on the holiday’s religious origins, the Nazi version celebrated the supposed heritage of the Aryan race, the label Nazis gave to “racially acceptable” members of the German racial state.
 <ゲルマン人によって行われていた冬至儀式が由来、と説明。↓>
 According to Nazi intellectuals, cherished holiday traditions drew on winter solstice rituals practiced by “Germanic” tribes before the arrival of Christianity. Lighting candles on the Christmas tree, for example, recalled pagan desires for the “return of light” after the shortest day of the year.・・・
https://www.washingtonpost.com/posteverything/wp/2015/12/24/how-the-nazis-co-opted-christmas/
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 一人題名のない音楽会です。
 ENNIO MORRICONE特集を2回にわたってお送りします。
 今回は、その1回目です。
 曲に脚注を一切つけなかったのは、時間が全くなかったから、ということにしておきましょう。

指揮:ENNIO MORRICONE オケ:CONCERTO ARENA di VERONA
1-Cinema Paradiso
2-Once upon a time in America
3-The legend of 1900
4-The good, the bad and the ugly
5- Once upon a time in the West
6- A fistful of dynamite
7-The good, the bad and the ugly (2)
8-La luz prodigiosa
9-Battle of Algeri
10-Sacco e Vanzetti
11-Indagine su un cittadino al di sopra di ogni sospetto
12-Sostiene Pereira
13-La classe operaia va in paradiso
14-Casualities of war
15-Queimada - Abolisson
16-Il deserto dei Tartari
17-Richard III
18-Il deserto dei Tartari (2)
19-The mission
https://www.youtube.com/watch?v=S5Ahe_1KZcg
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   --対露百年戦争勝利を記念して(2015.12.26東京オフ会「講演」原稿)--

 (仙台オフ会以来の2か月間、「公」「私」とも多忙を極めたため、いつものオフ会原稿とは違って、今回の原稿は、基本的に書き下し文ではなく、抜き刷り資料集(主として日本語ウィキペディア)的なものになってしまっていること、また、盛り込まれている私の一連の見解は、まだ、十分検証していない仮説が少なくないこと、を予めお断りしておきます。)

1 序:起点と終点等

 日露百年戦争は、1874年2月〜1991年12月の118年弱間続き、日本の勝利に終わりました。
 この世界史的偉業を寿ぐのは、日本で初めての試みであり、皆さんは、この歴史的瞬間に立ち会われているわけです。

 寿ぐだけでなく、この機会に、この戦争を振り返ってみることにしたいと思います。
 皆さんは、明治維新が起こった理由についての教科書的見解に本当に納得しておられるでしょうか。
 明治維新については分かっている気になっている人でも、戦前における日本と支那との関係史は複雑怪奇だと思われていないでしょうか。
 あるいはまた、征韓論や士族反乱、とりわけ西南戦争について、もやもやした気持ちをお持ちの方は少なくないのではないでしょうか。
 倒幕、維新を成し遂げた中心人物であった西郷隆盛が、急に耄碌したように見えることや、維新政府の俊秀のエリートであった江藤新平が、特権を剥奪された武士達の憤懣が噴出したとされるところの、士族反乱の皮切りとなる乱を率いたこと、等に、「何でや?」と首をひねったことがあるのではないか、ということです。
 何をかくそう、全て、つい最近までの私自身がそうでした。
 しかし、今回、対露百年戦争という巨大補助線を引くことによって、私は、初めて、これらの疑問が相当程度氷解したように感じています。
 そのあたりのことを本日はお話しします。

 最初に、この百年戦争の、おおまかな流れの概観です。
 熱戦についての説明は不要でしょうが、銘記すべきは、冷戦の時期においても、日露が直接戦火を交えないというだけで、内戦を含む代理戦争的なものが、その間も、継続的ないし間歇的に生起していたことです。

 起点:佐賀の乱(第一次士族反乱。1874年2月16日開始):第一次冷戦の開始
 経緯:台湾出兵(1874年)
    第二次士族反乱(1876〜77年)
    日清戦争(1894年8月1日〜95年)
    日露戦争(第一次日露戦争)(1904〜05年):第一次熱戦
    日露協商:第二次冷戦
    シベリア出兵(第二次日露戦争)(1918〜22年):第二次熱戦
    第二次冷戦
    張鼓峰事件(1938年)/ノモンハン事件(1939年)(第三次日露戦争):第三次     熱戦
    支那を巡る日露のせめぎあい:第三次冷戦
    日ソ戦(1945年)(第四次日露戦争):第四次熱戦
    第四次冷戦(1945〜91年):冷戦(東西冷戦は1945〜89年)
 終点:ソ連崩壊(1989〜91年12月25日):第四次冷戦の終焉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%B4%A9%E5%A3%8A

 起点が佐賀の乱である点に、早くも目を剥かれた方もおられるでしょうが、とにかく、最後まで聞いてください。

2 前史

 (1)露の東漸--

 17世紀に、ロシア(赤蝦夷)が、突然、日本の北方に出現します。

 「1639年にイヴァン・モスクヴィチンがオホーツク海に達し、1643年にセミョーン・シェルコヴニコフ(・・・Semyon Shelkovnikov)がオホーツクに町を建設した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%8F%B2
 「ネルチンスク条約・・・は、1689年に康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代(摂政ソフィア・アレクセーエヴナ)のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた、両国の境界線などについて定めた条約。・・・満洲(現・中国東北部)での国境を黒竜江・外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定めるというものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9D%A1%E7%B4%84
 「18世紀にはロシアと日本も、ほぼ隣国の関係となり、日本近海、とくに蝦夷地周辺に『赤蝦夷』と呼ばれていたロシア勢力が出現するに及んで江戸幕府の北方開拓を刺激することにもなった。・・・
 1778年、ロシアの勅書を携えたイワン・アンチーピンの船が蝦夷地を訪れて直に通商を求めたが、翌1779年に松前藩はそれを拒否した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%8F%B2 前掲

 (2)横井小楠コンセンサスの形成

  ア 横井小楠コンセンサスの萌芽。

 ロシアを初めて潜在的脅威と見たところの、工藤平助、本多利明、田沼意次、林子平らが、やがて横井小楠コンセンサスへと至る動きの先覚者達でした。

 工藤平助(1734〜1801年)は、仙台藩江戸詰の藩医であり、「18世紀後期にはロシア帝国の南下が進み、ロシア軍の捕虜となった経験をもつハンガリーのモーリツ・ベニョヴスキー伯爵が在日オランダ人にあてた書簡のなかで、ロシアには侵略の意図があると記したことをきっかけとして北方問題への関心が高まっていた。・・・
 なお、ベニョヴスキー伯爵は世界を駆ける国際的な犯罪者であり、爵位も自称で殺人・詐欺・反政府活動・脱獄の前科がある。さらには書簡も偽書でありクリル諸島に要塞を築いているという根も葉もない荒唐無稽な内容であった。・・・
 天明元年(1781年)4月、平助は『赤蝦夷風説考』下巻を、天明3年(1783年)には同上巻を含めてすべて完成させた。「赤蝦夷」とは当時のロシアを指す呼称であり、ロシアの南下を警告し、開港交易と蝦夷地経営を説いた著作であった。・・・
 天明4年(1784年)には、平助は江戸幕府勘定奉行松本秀持に対して『赤蝦夷風説考』の内容を詳しく説明し、松本はこれをもとに蝦夷地調査の伺書を幕府に提出した。これがときの権力者老中田沼意次の目にとまり、そのため、天明5年には、第一次蝦夷地調査隊が派遣され、随行員として最上徳内らも加わっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E5%B9%B3%E5%8A%A9

 本多利明(1743〜1821年)は、数学者だったが、「急進的な欧化主義者であり、蝦夷地の開発や海外領土の獲得、幕府主導の交易、開国論、重商主義などを説く。・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%98%8E
 
 田沼意次(1719〜88年)は、「蝦夷地開発<を企図し、>・・・蝦夷地調査団に、まず、・・・本多利明を招聘しようとしたが、辞退されてしまう。代わりに本多から推薦されたのが最上徳内であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1

 林子平(1738〜93年)は、「ロシアの南下政策に危機感を抱き、海防の充実を唱えるために・・・『海国兵談』・・・記し・・・天明7年(1787年)に自ら版木を作成して第1巻を刊行し、寛政3年(1791年)に全巻刊行を終え・・・近代的な火力を備えた海軍の充実化と全国的な沿岸砲台の建設<を唱えた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%9B%BD%E5%85%B5%E8%AB%87
 「『海国兵談』の序を書いたのは、・・・工藤平助であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%AD%90%E5%B9%B3

  イ 海岸防御御用掛(海防掛)設置

 「寛政4年(1792年)に設置され、当初は常設ではなかったが、弘化2年(1845年)からは常設となった。・・・
 寛政4年(1792年)にロシアのアダム・ラクスマンが通商を求めて来航したことにより、海防の重要性が認識され、老中松平定信が海防掛に任じられたのが最初である。天保13年(1842年)には、信濃松代藩主真田幸貫(松平定信の次男)も老中・海防掛を務め、松代藩士である佐久間象山が世に知られるきっかけとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%B2%B8%E9%98%B2%E7%A6%A6%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%8E%9B

  ウ 日露軍事紛争

 やがて、ロシアの脅威が早くも現実化したかのような事件が起きます。

 文化露寇(フヴォストフ事件)(1806〜07年)「江戸時代後期の1804年、ロシア皇帝アレクサンドル1世から派遣されたニコライ・レザノフにより行われた通商要求行動の後にロシア側から行われた軍事行動である。それに先だってロシアはエカチェリーナ2世治下の1792年、アダム・ラクスマンを根室に派遣し、日本との通商を要求したが、江戸幕府はシベリア総督の信書を受理せず、通商要求に対しては長崎への廻航を指示、ラクスマンには長崎への入港許可証(信牌)を交付した。
 文化元年(1804年)、これを受けて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し、半年にわたって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないという意見を持つに至り、また、日本への報復を計画し、樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させた。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフは、文化3年(1806年)には樺太の松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。幕府は新設された松前奉行を司令官に、津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田藩(秋田藩)から約3,000名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護にあたった。こうした中、文化4年(1807年)には斜里に駐留していた津軽藩士70名が厳寒の越冬中に病死する事件が起こっている(津軽藩士殉難事件)。しかし、これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍に撤退を命令した。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩の警護藩士も撤収を開始した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E9%9C%B2%E5%AF%87
 斜里は、知床半島のオホーツク側。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%9C%E9%87%8C%E7%94%BA

  エ 露の南下

 更に、ロシアの潜在的脅威が、北からだけでなく、西からも迫るようになります。
 このことが、日本において、支那(清)に対するはがゆい気持ち、不信感を生み出します。

 アイグン条約(1858年):「太平天国の乱やアロー戦争(第二次アヘン戦争)による清国内の混乱に乗じたロシア帝国東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが、停泊中のロシア軍艦から銃砲を乱射して、調印しなければ武力をもって黒竜江左岸の満洲人を追い払うと脅迫し、清国全権・奕山・・・に認めさせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%B3%E6%9D%A1%E7%B4%84
 北京条約(1860年):「ロシアは、まず清が認めていない1858年のアイグン条約の・・・効力を清に確認させた。これでアムール川左岸の領有権を確保する。さらに吉林将軍管轄区の一部である、図們江(以下「豆満江」)、ハンカ湖〜ウスリー川以東アムール川以南の地域(東韃靼)が割譲された。アイグン条約では清とロシアの共同管理地となった地域であったが、この条約によってロシア領と確定された(第一条)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E6%9D%A1%E7%B4%84

  オ 明治維新の思想

   a 佐久間象山(1811〜64年):対外政策の基本の提示

 『海防八策』(1842年(天保13年))

一、 諸国海岸要害の所、厳重に砲台を築き、平常大砲を備え置き、緩急の事に応じ候様仕度候事。
二、 阿蘭陀交易に銅を差し遣わされ候事暫く御停止に相成、右の銅を以て、西洋製に倣い数百千門の大砲を鋳立、諸方に御分配之有度候事。
三、 西洋製に倣い、堅固の大船を造り、江戸御廻米に難破船これなき樣仕度候事。
四、 海運御取締の義、御人選を以て仰付られ、異国人と通商は勿論、海上万端の奸猾、厳敷御糾し御座あり度候事。
五、 洋製に倣い、船艦を造り、専ら水軍の駈引習わせ申度候事。
六、 辺鄙の津々浦々に至り候迄、学校を興し、教化を盛んに仕、愚夫・愚婦迄も忠孝・節義を弁え候様仕度候事。
七、 御賞罰弥(いよいよ)明らかに、御恩威益々顕われ、民心愈々固結仕候様仕度候事。
八、 貢士の法を起し申度候事。
http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-328.html
 「幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は・・・西洋兵学の素養を身につけることに成功し・・・西洋の学問そのものに<も>大きな関心を寄せるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1

   b 吉田松陰(1830〜59年):対外政策の具体化

 『幽囚録』(1854年執筆、1868年(慶應4年)発行)
http://www.winbell-7.com/roman/mokuroku/win-1/syoin/win0020001.html
の中で、「日が昇らなければ沈み、月が満ちなければ欠け、国が繁栄しなければ衰廃する。よって、国を善良に保つのに、むなしくも廃れた地を失うことは有り得て、廃れてない地を増やすこともある。今、急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐにぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時のようにし、北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、少しずつ進取の勢いを示すべきだ。その後、住民を愛し、徳の高い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持すると宣言するべきだ。そうでなくじっとしていて、異民族集団が争って集まっている中で、うまく足を上げて手を揺らすことはなかったけれども、国の廃れないことは其の機と共にある。」
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B9%BD%E5%9B%9A%E9%8C%B2
と主張した。
 「「幽囚録」は、兵学の師匠である佐久間象山が閲覧して添削批評を加えた書でもある。まさしく、・・・師弟共戦の結果報告でもある。」
http://www.winbell-7.com/roman/mokuroku/win-1/syoin/win0020001.html
 「叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となる・・・アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
 「嘉永5年(1852年)、・・・出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩<する形で>東北遊学<を行った。>・・・秋田では相馬大作事件の現場を訪ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
 相馬大作事件:「1820年(文政3年)に・・・盛岡藩主・南部利敬(従四位下)が39歳の若さで死亡(弘前藩への積年の恨みで悶死したと伝わる)。利敬の養子・南部利用が14歳で藩主となるが、若さゆえにいまだ無位無官であった。同じ頃、弘前藩主・津軽寧親は、ロシアの南下に対応するために幕府から北方警備を命じられ、従四位下に叙任された(従来は従五位下)。また、高直し(藩石高の再検討)により、弘前藩は表高10万石となり、盛岡藩8万石を超えた。盛岡藩としては、主家の家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が、上の地位となったことに納得できなかった。・・・
 文政4年4月23日(1821年5月24日)に、南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った<が、>・・・暗殺未遂<に終わった>。・・・
 吉田松陰は北方視察の際に暗殺未遂現場を訪れ、・・・長歌を詠じて秀之進を称えた。・・・相馬大作・・・は、「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。単なる忠義立てではなく、真意は<対露>国防が急であることから、両家の和親について自覚を促すことにあったらしい」・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%A4%A7%E4%BD%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 「幕末の不思議なことに、・・・一才しか年齢の違わない<横井小楠(下出)と佐久間象山の>二人がどういうわけか逢っていない。・・・因みに、吉田松陰はこの両者と逢っている。」
http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-328.html

   c 横井小楠(1809〜69年):対外政策の思想の構築

 『国是三論』(1860〜1861年執筆)
 これに盛り込まれたところの、(私が言うところの)人間主義的な(やはり私が言うところの)対露抑止を主眼とする横井小楠コンセンサスについては、コラム#6579、6581を含め、太田コラムで、これまで何度となく取り上げてきているので、改めての説明は省きます。

 なお、ロシアが、単なる潜在的脅威であって学ぶべき対象では全くないことが、この著作が出た直後に確認されています。

 「1865年に・・・はじめて・・・6名の・・・幕府派遣の遣露留学生が送り込まれた・・・<が、>この留学生派遣は効果をあげなかった。その第一の理由は留学生がロシアの後進性に失望したとされている。さらに学生の風紀の乱れを嘆じている」
http://www.tufs.ac.jp/common/archives/TUFShistory-russian-all.pdf

  カ 明治維新

 もはや、くだくだしい説明の要はないでしょう。
 横井小楠コンセンサスを実行するため、より端的に言えば、対露抑止を実行するためにこそ、明治維新は断行されたのです。

2 日露第一次冷戦

 (1)第一次士族反乱=佐賀の乱(1874年)

 補助線:征韓論=対露即時冷戦派=プロト皇道派 v. 反征韓論=対露冷戦先延派=プロト統制派

 佐賀藩が、藩をあげて反露であり、かつて同藩士であった江藤新平や島義勇らがその急先鋒であったからこそ、江藤が征韓論を唱え、また、佐賀が、対露即時冷戦派の先駆けとなった佐賀の乱、すなわち、第一次士族反乱の拠点となったのです。↓

 「江藤新平<が>・・・明治4年(1871年)3月に岩倉具視に提出した意見書には<はがゆく信用できない(太田)>清をロシアとともに攻めて占領し、機会を見つけてロシアを駆逐し、都をそこに移すといった内容のことが書かれている。・・・<明治六年政変(1873年)で下野した後、>明治7年(1874年)・・・2月11日、江藤は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い2月12日、佐賀征韓党首領として擁立された。そして、政治的主張の全く異なる<・・私はそうは思わない(太田)・・>この征韓党と憂国党が共同して反乱を計画<し、決行>する。・・・
 敗走<後、>・・・江藤は・・・逃亡し、3月1日に鹿児島鰻温泉・・・に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが<、恐らくは時期尚早との考えから(太田)断られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
 島義勇(1822〜74年):「安政3年〜4年(1856年〜1857年)に藩主・<鍋島>直正の命で、箱館奉行堀利煕の近習となり、蝦夷地と樺太を探検調査し、『入北記』という記録を残した。慶応4年(1868年)3月、佐賀藩の海軍軍監、ついで東上し下野鎮圧軍大総督軍監となり、新政府の東北征討に従う。
 明治2年(1869年)6月6日、新政府において藩主・直正が蝦夷開拓督務になると、蝦夷地に通じているということで蝦夷開拓御用掛に任命され、同年7月22日、開拓使判官に就任。10月12日、銭函(現・北海道小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、札幌を本府と決め、建設に着手する。ほぼ無人の原野であった札幌に「五州第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描き、京都や故郷の佐賀などを念頭に置いて、碁盤の目のような整然とした町並みを目指し工事が進められる。しかし、厳冬酷寒の雪国での都市建設は多額の費用と労力と困難を要し、鍋島直正の後任である開拓長官・東久世通禧とも衝突したため、明治3年(1870年)1月19日、志半ばで解任された。
 同年3月・・・に帰京すると、・・・大学少監・・・侍従を<経て>、・・・1872年3月・・・に秋田県の初代権令(知事)となり、同年6月・・・に退官し<てい>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%BE%A9%E5%8B%87

 (参考)樺太・千島交換条約(1875年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E3%83%BB%E5%8D%83%E5%B3%B6%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%9D%A1%E7%B4%84

 (2)台湾出兵(1874年)

 補助線:薩摩人同士が成立させたところの、征韓論派(中央政府外)と反征韓論派(中央政府内)の一時的提携

 台湾出兵は、征韓論派にとってはロシアより先に台湾に足がかりをつくる(南からの潜在的脅威の予防的除去)ため、反征韓論派にとっては征韓論派の主張に理解を示しつつも主として復仇のため、だったのです。↓

 「宮古島島民遭難事件<が起きると、>明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年(明治5年)琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。・・・
 当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5
 大山綱良(1825〜77年)は、「明治6年(1873年)に征韓論争から発展した政変で西郷らが新政府を辞職して鹿児島へ帰郷すると、私学校設立などを援助し西郷を助けた。その後、大山が県令を務める鹿児島県は新政府に租税を納めず、その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈した。明治10年(1877年)に鹿児島で西郷らが挙兵した西南戦争では官金を西郷軍に提供し、西郷軍の敗北後、その罪を問われて逮捕され東京へ送還、のち長崎で斬首された、」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%B6%B1%E8%89%AF
 樺山資紀(1837〜1922年)は、「明治5年(1872年)より南清に出張、台湾出兵に従軍。西南戦争では熊本鎮台司令長官・谷干城少将の下、同鎮台参謀長として熊本城を死守する。その後警視総監兼陸軍少将に昇進するが、海軍へ転じ<た。>・・・海軍大臣(第4・5代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%B1%B1%E8%B3%87%E7%B4%80

 ちなみに、薩摩武士には、代々、高度の国際政治軍事感覚が受け継がれてきていました。

 「島津氏<は、>・・・相馬氏、相良氏、宗氏と並び、鎌倉時代以来、明治まで、同一の国を治め続けた世界でも稀有な領主である。・・・
 江戸時代初期に琉球に侵攻して奄美群島を領有し、琉球王国を支配下に置いた。・・・
 徳川綱吉養女・竹姫が島津継豊の後妻として嫁いで以降は、寔子(11代将軍・家斉正室)、敬子(篤姫)(13代将軍・家定正室)と将軍家と婚姻を通じ、縁戚関係をも深めること度々であった。武家でありながら、将軍家御台所を2人出したことは異例である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F
 比較:朝鮮出兵。

 (3)第二次士族反乱(1876〜77年)

 補助線:征韓論と反征韓論の再激突

 「明治六年政変で下野した西郷は1874年(明治7年)、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設した。・・・外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れており、外征<、ひいては対露抑止(太田)>を行うための強固な軍隊を創造することを目指していた。・・・一方、近代化を進める中央政府は1876年(明治9年)3月8日に廃刀令、同年8月6日に金禄公債証書発行条例を発布した。この2つは帯刀・俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。これが契機となり、同年10月24日に熊本県で「神風連の乱」、27日に福岡県で「秋月の乱」、28日に山口県で「萩の乱」が起こった。鰻温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、11月、桂久武に対し書簡を出した。この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の外に「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれていた。ただ、書簡中では若殿輩(わかとのばら)が逸(はや)らないようにこの鰻温泉を動かないとも記しているので、この「立つと決する」は内乱よりは当時西郷が最も心配していた対ロシアのための防御・外征を意味していた可能性が高い。その一方で1871年(明治4年)に中央政府に復帰して下野するまでの2年間、上京当初抱いていた士族を中心とする「強兵」重視路線が、四民平等・廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允・大隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられた事に対する不満や反発が西郷の心中に全く無かったとも考えられない。とはいえ、西郷の真意は今以て憶測の域内にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89

 (4)日清戦争(1894〜95年)

 補助線:征韓論と反征韓論の対立の止揚

 「戦争目的としての朝鮮独立は、「清の勢力圏からの切放しと親日化」あるいは「事実上の保護国化」と考えられている。それらを図った背景として、ロシアと朝鮮の接近や前者の南下政策等があった(日本の安全保障上、対馬などと近接する朝鮮半島に、ロシアやイギリスなど西洋列強を軍事進出させないことが重要であった)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89

 (5)露の更なる南下

 ところが、日清戦争を契機に、ロシアは更に南下してくるのです。
 しかも、この南下を清(支那)が手助けしたことから、日本の爾後の対支政策は、支那、とりわけ、その親露勢力に対する強い牽制を基調とするものになるのです。

 「三国干渉は、1895年(明治28年)4月23日にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が日本に対して行った勧告である。日本と清の間で結ばれた下関条約に基づき日本に割譲された遼東半島を清に返還することを求める内容だった。・・・
 ロシアは極東進出のために不凍港が必要であり、南下政策を取り満州における権益拡大をはかっていた。ロシアは遼東半島を日本に奪われることで南満州の海への出口を失うことを恐れ、日本の満州進出阻止を目論んだ。・・・
 1895年、<ロシアは、>東アジアにおける第2の不凍港となる旅順租借地を獲得。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%B9%B2%E6%B8%89

 「ロシアを強気にさせていたのは1901年に開通したシベリア鉄道と露清密約であり、ロシアは日本に対して外交的な無条件降伏を迫っていた。日本がロシアに屈すれば、その次に来るのは長城線を越えたコサック騎兵達が、北京・天津を一蹴し、<英国>が握る上海まで一挙に南下して来る、という展開<が予想されたことから、英国と日本の利害が完全に一致し、日英同盟締結に至った>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0
 露清密約(1896年6月3日):「日本がロシアと清のいずれかへ侵攻した場合に互いの防衛のため参戦するという相互防御同盟<条約であると>同時に、清に対しロシアの満州における権益を大幅に認めさせるという不平等条約<でも>あった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%B8%85%E5%AF%86%E7%B4%84
 日英同盟(1902年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F

3 日露戦争(1904〜5年)=第1次日露熱戦

 この戦争については、改めて説明する必要はありますまい。

4 第1次日露デタント(1906〜1916年)

  日露協約(1907、1910、1912、1916)
   1次:「日本の南満州、ロシアの北満州での利益範囲を協定した。また、ロシアの      外蒙古、日本の朝鮮(大韓帝国)での特殊権益も互いに認めた。」
   2次:「<米国>の南満州鉄道中立案(ノックス提案)の拒否を協定し、両国の満      州権益の確保を確認した。」
   3次:「辛亥革命に対応するため、内蒙古の西部をロシアが、東部を日本がそれぞ      れ利益を分割することを協約した。」
   4次:「第一次世界大戦における日露の関係強化と第三国の<支那>支配阻止、極      東における両国の特殊権益の擁護を相互に再確認した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%8D%94%E7%B4%84

5 シベリア出兵=第2次日露戦争(1917〜1922年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5
 日本に関しては、露が赤露に変貌することを阻止しようとしたもの。

 「1917年にロシア帝国で起きた2度の革命・・・「二月革命」、「十月革命」は・・・現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」、「十一月革命」となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%9D%A9%E5%91%BD

 これについても、更なる説明は省略します。

6 支那を巡る日露のせめぎあい:日露第2次冷戦 

 補助線1:支那「親日反露/赤露」派支援、支那「反日親露/赤露」派抑止

 1911年の辛亥革命の後、日本政府は、「親日反露/赤露」の北京政府への支援政策を続けることになります。 

 ○北京政府

 「北京政府とは、1912年から1928年まで北京に存在した中華民国政府。北洋軍閥政府ともいう」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E6%94%BF%E5%BA%9C

 「二十一か条の要求とワシントン体制
 1911年、<支那>大陸では三民主義を唱える孫文らによる辛亥革命が起こり、宣統帝が退位し、翌年の1912年には中華民国の臨時政府が南京で成立した。中華民国暦が採用されることになり、中華民国憲法発布に伴って宣統帝を総理として支えた袁世凱が孫文から大総統の地位を与えられると、首都が北京に移り、結局帝政が復活することになる。その頃になると上海・広州・天津・漢口などの都市が発展し、東亜同文会が東亜同文書院などを開設するなどした。「近代文明」を受容する目的で多くの<支那>人が日本へ留学するようになると、孫文と<大甘の(太田)>宮崎滔天、頭山満・魯迅と<やはり大甘の(太田)>藤野厳九郎の交流などが生まれた。しかし、帰国した魯迅の影響を受けた胡適らによってブルジョワ文学革命が起こり、パトリオティズムが高揚しつつあった。
 1915年、大隈内閣は山東半島におけるドイツ帝国の利権を継承することなどを盛り込んだ二十一か条の要求を袁世凱に提示した。この要求と引き換えに袁世凱は日本による中華帝国の承認を求めたとされている。これを契機として、反袁勢力が立ち上がり、1902年に結ばれた日英同盟を理由に連合国側に立ってドイツ帝国に宣戦布告していた日本を排撃する傾向が次第に生まれていく。そこで中華民国は連合国側に立って第一次世界大戦に参戦し、日本の影響力の排除を試みようとした。しかし、1919年に行われたパリ講和会議で決まったヴェルサイユ条約は日本の山東省のおける利権の継承を認めたため、北京の大学生らが条約調印反対運動を起こした。それが全国に波及して五・四運動といわれる反帝国主義運動に発展した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%8F%B2

 「西原借款<は、>・・・寺内正毅内閣が北京の段祺瑞内閣と結んだ2億4000万円の借款のうち,特に寺内首相の私的代表西原亀三を通じて提供した借款1億4500万円をさす。 17年1月の第1次交通銀行借款から 18年9月の参戦借款にいたるまで,名目はさまざまであったが,実質的にはことごとく<北京>政府の強化に用いられた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E5%8E%9F%E5%80%9F%E6%AC%BE-109528
 西原亀三(1873〜1954年)は、「寺内内閣による北京政府(段祺瑞)援助政策に参画した。
 1918年(大正7年)、朝鮮銀行総裁・大蔵大臣の勝田主計と計り、興業銀行、朝鮮銀行、台湾銀行からそれぞれ資金を調達し、総額1億4500万円という莫大な西原借款を提供する。この借款は主に段祺瑞政権の政治資金として使われ、成果を得るどころか、結局は回収できなかったため、帝国議会の轟々たる非難を浴びた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8E%9F%E4%BA%80%E4%B8%89

 他方で、日本政府は、「反日親露/赤露」の孫文/蒋介石の中国国民党政府に対しては牽制を行い続けたのです。
 ところが、その中国国民党政府が、赤露の使嗾の下、支那の「統一」を形の上で果たします。

 ●中国国民党政府

 「孫文亡き後の国民党は広東に国民政府を組織する。この中で・・・急速に台頭してきた蒋介石が中心となり、1926年7月1日、国民政府は「北伐宣言」を発表、北伐が開始された(第1次北伐)。北伐軍は、全国統<一>を望む輿論を背景に北京政府や各地軍閥を圧倒、翌1927年には南京、上海を占領した。
 しかし、中国国民党内部で中国共産党が勢力を拡大したこともあり、4月12日蒋介石は、党内の中国共産党員の粛清を行った(上海クーデター)。その後、上海クーデターから中国国民党の武漢と南京分立(寧漢分裂)、武漢国民政府の中国共産党と決別及び南京国民政府との合流、広州張黄事変に至るまでの間は中国国民党内の混乱によって北伐は一時停滞をみせた。

⇒蒋介石による国民党内容共分子の粛清は、思想的なものというよりは、党内権力の完全掌握を目的とするものであった、と見るべきでしょう。(太田)

 蒋介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、1928年4月8日に北伐を再開した(第2次北伐)。この北伐はソ連のヴァシーリー・ブリュヘルの下で計画された。日本(首相田中義一)は、中国にある既得権益及び治安の維持のため、居留民の保護の名目で山東省に軍を派遣した(山東出兵。この時、済南に入った北伐軍との間で武力衝突が発生した(済南事件)。その後、国民革命軍は日本との衝突を避けつつ閻錫山、馮玉祥らの軍閥を傘下に加え進撃した。そして、6月4日奉天派の首領である張作霖が北京を撤退した後、6月15日に北京を占領した(その後、張作霖爆殺事件が起こった)。父のあとを継いだ張学良が12月29日に降伏したこと(易幟)をもって、北伐は完了し一応の国民党による全国統治を果たしたのであった。
 しかしこの「北伐」完成は、地方の軍閥勢力を残存させたままでの極めて妥協的な「中国統一」であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BC%90

⇒蒋介石の北伐は、赤露の慫慂に基づくものであった、という認識を我々は持つべきでしょう。(太田)

 「1933年5月、・・・元ドイツ参謀のハンス・フォン・ゼークト<(注)>が、<容共、より正確には、容スターリン主義の中国国民党政権>の軍事顧問となった。・・・

 (注)「Seeckt held conservative political views.・・・Seeckt held stereotypical, derogatory views of Jewish people・・・Seeckt ignored the Constitution of 1919 which prohibited religious discrimination. He ordered that Jews were not to be accepted into the Reichswehr, no matter how qualified they might be.・・・He was in favor of an alliance with the Soviet Union・・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Hans_von_Seeckt

 1935年5月2日、ゼークトの提案に基づき<(典拠?(太田))>中華民国秘密警察の藍衣社が親日要人へのテロ事件を起こしたため、日本は抗議し、1935年6月27日、日本と中華民国は梅津・何応欽協定を結<び、日本の要求通りの決着をつけた(注)>。・・・

 (注)「北平軍事分会委員長・・・何応欽は・・・行政院長・・・汪兆銘と討議の上で梅津に対し、「希望事項について承諾し、並びにこれを自発的に実行することを通知する」との普通信を送った。調印などが行われておらず、中国側は日本側の要求を自発的に実行したにすぎないため、中国側は現在でも本協定は存在しないと主張している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%B4%A5%E3%83%BB%E4%BD%95%E5%BF%9C%E6%AC%BD%E5%8D%94%E5%AE%9A

⇒容共ファシストのゼークトを、蒋介石が軍事顧問として三顧の礼を尽くして招聘したところに、中国国民党、とりわけ、蒋介石の本質が現れています。(太田)

 <なお、この間、>1934年12月、日本人を中心に運営されていた満州国は、・・・1935年3月には、ソ連より中東鉄道及びその付属地を買収し<ている> (北満鉄道讓渡協定)。
 <その>ソ連は、1935年7月から8月にかけてモスクワで第7回コミンテルン世界大会を行い、コミンテルンは日本やドイツ等を共産化の主な攻撃目標に定め・・・1936年の西安事件(西安事変)、1937年盧溝橋事件、中ソ不可侵条約を経て、国民党とのいわゆる第二次国共合作を成立させた。
 日中戦争の際には八路軍などを編成して、華北を中心とした解放区を拠点に日本軍との正面衝突は避けて力を温存させた。

⇒これは、赤露の指示というよりは、毛沢東の自主的判断、というのが私見であることはご承知の通りです。(太田)

 また、蒋介石<政権をして>、ソ連との不可侵条約締結などで、反共から容共・・・に<復帰>させた。
 <その>ソ連において<は、>1934年から・・・大粛清<が行わ>れ・・・1940年8月には、トロツキーも暗殺<す>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A 前掲

 振り返れば、容共ファシスト政党としての中国国民党を確立したのは孫文でした。
 蒋介石は、孫文路線を忠実に踏襲した、と言ってよさそうです。↓

 「1923年1月26日、上海における孫文と<ソ連>代表アドリフ・ヨッフェの共同声明は中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約した。孫文・ヨッフェ宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。 孫文は、それまで中国国民党が志向していた秘密結社と軍閥に頼ることでは<支那>に共和国建設ができないと判断し、中国国民党はより多くの<支那>人革命家を訓練する必要があると考えた。<ソ連>と中国共産党は、この問題を重要視し、1925年にモスクワ中山大学を設立した。・・・
 1927年4月の上海クーデターによって第一次国共合作は事実上崩壊。7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し第一次国共合作の終了を宣言、国共内戦に突入した。7月26日、国民党中央執行委員会は声明を発表し、モスクワ中山大学との関係を一切断ち、同時に党内及び行政組織組織に対しモスクワに留学生を派遣することを厳禁した。このためモスクワ中山大学は1930年夏に解散され、僅か5年という短い期間でその歴史に幕を下ろした。・・・

⇒蒋介石による国民党内容共分子の粛清や国共合作の解消は、思想的なものというよりは、党内権力の完全掌握を目的とするものであった、と見るべきことを再度強調しておきましょう。(太田)

 教科課程<としては、わずか>2年続いただけだった・・・
 国民党では蒋介石の子でのちに総統となる蒋経国、・・・馮玉祥の子の馮洪国、馮弗能、馮弗伐・・・などが、共産党では朱徳、トウ小平、楊尚昆、廖承志、<ウランフ>、葉剣英、董必武・・・などが学んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E5%AD%A6
 「蒋経国は1925年10月、ソ連に留学<し、>・・・モスクワ中山大学で学んだ。<但し、彼は、>トロツキーに心酔<することとなる>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E7%B5%8C%E5%9B%BD

 日本政府は、日本フェチで反赤露(≒反中国国民党政府)(かつ、反米)の毛沢東による中国共産党権力掌握の後は、中国共産党と提携すべきであったのに、その党名と毛の韜晦戦略が妨げとなり、事実上の提携が成ったのは、1937年の日支戦争勃発以降になってしまうのです。

 補助線2:スターリン主義=赤露主義(cf.トロッキー主義=反赤露主義=マルクスレーニン主義) v. 日本的共産主義

 ◎中国共産党

 「1921年7月に、コミンテルンの主導により、<日本で共産主義を学んだ>北京大学文科長の陳独秀や北京大学図書館長の李大 ◆稙本フェチの>元北京大学図書館司書の毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で、上海にて中国共産党第1次全国代表大会(第1回党大会)を開催、結成されたとされる。・・・

⇒中国共産党の立ち上がりは、恐らく、そして毛沢東に関しては間違いなく、支那における日本的社会の樹立を目指したものであった、と私は考えるに至っています。(太田)

 中華民国の統治期には、コミンテルンの・・・指導により中国国民党と協力し(1924年の第一次国共合作)、その後敵対しながらも(1927年の蒋介石による4・12クーデター(上海クーデター)により国共分裂)、反ソ傾向の軍閥および日本との戦いを続けた。・・・<やがて、「日本派」ならぬ>ソ連<派による支配が確立し、>・・・<ソ連>への留学生が「中国共産党」の中心勢力<にな>った。 そして広大な農村社会を抱える中国の特殊性を理解せずに大都市の労働者による武装蜂起を革命の基本路線と<するとともに>・・・、第一次国共合作に固執しすぎ、また、国共分裂後は、極左冒険主義に走りすぎるなどの路線の失敗を犯した。 一方で並行して、中国国民党からの熾烈な白色テロの標的ともなった・・・。

⇒そんな中国共産党を、(既に事実上マルクスレーニン主義政党化していた中国国民党に加えて、)ソ連はマルクスレーニン主義政党に作り替えようとした(上で、両者を合体させようとした)、と私は見ている次第です。(太田)

 このような中で毛沢東は一農村に拠点を置いて活動していた。そうした農民を対象とした社会主義化の動きは、労働者階級を中心とす<べきとする本来の共産主義>とは異なっていた。これは、当時の中国の人口の圧倒的多数を占めるのは農民であり、・・・また、都市部が国民党に押さえられていたため、共産党の活動拠点は山奥の華中や華南の農山村地域にならざるをえなかった<ためだ>。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A

⇒そのようなソ連の画策に真っ向から挑んだのが、日本フェチの毛沢東だった、と見るわけです。(太田)

 さて、毛沢東が、生涯、リアルタイムで日本の動向をフォローし続けていたことがよく分かるのが下掲の挿話です。↓

 「七六年九月七日、毛沢東は危篤になり、混迷状態にはいった。このときも意識がもどると、本を読みたいと語った。毛沢東の発音は曖昧で声は微かだった。・・・
 毛沢東が紙と筆を求め、震える手で書いたのは「三」の文字。・・・「三木の本」であった。当時、日本で三木下ろしが始まっていた時期で、毛沢東は『三木武夫』(<中共>で独自に編集した人物紹介であろう)を手にしてうなずいた。
 しかしその本を支えるだけの力がすでに失われていた。・・・支え<られて>数分間読んだあと、ふたたび混迷に陥った。これが毛沢東、最後の本であり、読み終えることのなかった唯一の本となった。九月九日<の>ことである。」<(コラム#7820参照)>
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/bunkaku_shidosya_motakuto_goroku.htm
 「三木政権<の時の>・・・1976年(昭和51年)2月、ロッキード事件が発覚する。・・・12月、任期満了での衆議院選挙が行われたが、自民党は三木支持派、反三木派の事実上の分裂選挙となって惨敗し、三木は責任を取って首相を辞任する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%AD%A6%E5%A4%AB

 では、毛沢東が、「独自の」共産主義を樹立した頃の日本では、一体何が起こっていたかを振り返ってみましょう。
 農本主義の大流行です。↓

 「第一次世界大戦後、特に1920年代末の世界恐慌に端を発する農村恐慌のもと、日本では中小の自作・小作農が存続の危機に立たされることになった。この結果、・・・新たなタイプの農本主義が台頭し、・・・兵農一致による体制変革を主張し<、1932年の>五・一五事件に参加した橘孝三郎、農村自治の確立をめざす権藤成卿らの思想は、多くの場合中小農出身者を多く含む軍部内の青年将校に大きな影響を与え、<1936年の>二・二六事件の重要な思想的背景となった。また満州事変以降、・・・農民を国策の先兵として動員していく運動が現れ、特に加藤完治に指導された満蒙開拓移民の運動はよく知られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9

 1919年12月に武者小路実篤の「新しい村」についての論文を書いた毛沢東(コラム#7989)が、農本主義者の、例えば、権藤成卿の思想↓に興味を抱かなかったはずがありません。

 『皇民自治本義』富山房、1920年
 「権藤は・・・自治機能をもった公権力に抵抗しえた中世の郷村を理想としていた。・・・
 権藤は・・・政治の実体は君主でなく、民人(社稷)と述べる。・・・
 権藤は明治藩閥政府のプロシア式の国家主義を排撃し、・・・国家主義は・・・弱肉強食や「欧州式の私有財産制度」を強引に採用した結果、一国の主力たるべき農民は「草野に枯死」かのごとき「租税製造機」として取り扱われているとして、すべての生民(人民)が和親修睦をもって相互扶助し、一人単独に満足するよりも、「一家より一伍一邑共に楽しむ」ことをより好むことで、「国民共存の大義」が展開されると論じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E8%97%A4%E6%88%90%E5%8D%BF

 すなわち、毛沢東の「農民を中心とする共産主義革命」なるものは、日本の農本主義及びその体制変革思想の翻案である、と私は見るに至っています。
 その毛沢東が、スターリン主義者達、すなわち、赤露の走狗達、との権力闘争に、以下のような経過を辿って勝利し、中国共産党のリーダーになるわけです。↓ 

 「井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月、瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。国民党軍による包囲に対して、毛や朱徳など前線司令部は・・・ゲリラ作戦<で抵抗した>が、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた。毛の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、1932年10月、毛は軍の指揮権を失った。また、毛が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。さらに1933年1月、中国共産党の本部が上海から瑞金に移転し、党指導部が毛に代わって中央革命根拠地における主導権を掌握した。毛は1934年1月の第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央政治局委員に選出されたものの、実権を持つことはなかった。
 国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日、ついに江西ソビエトを放棄して敗走、いわゆる「長征」を開始する。この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、・・・ソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。毛沢東は中央書記処書記(現在の中央政治局常務委員)に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍<政>上の最高指導者の地位に就いた。1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。同年12月7日、朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍<令>権<も>掌握。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1

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[参考:政権奪取後の毛の日本フェチぶり]

一、教育・医療重視政策 
 
 説明は省く。(コラム#7940参照)

二、大躍進政策

 魔がさしたのか、日本以外を参考にしたところの、唯一の政策的営み。

 「1958年から1961年までの間、中華人民共和国が施行した農業・工業の大増産政策である。・・・1957年11月6日、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内に<米国>を追い越せるだろうと宣言した。毛沢東・・・はこれに触発され、1958年・・・、当時世界第2位の経済大国であった<英国>をこれらの農工業の生産指標において15年で追い越す(後に「3年」に「修正」)という、壮大な計画を立案した。・・・しかし、市場原理を無視して、一部の農工業生産指標のみにおいて<天文学的な>・・・ノルマを人民に課し、ずさんな管理の元でこれらの農工業製品のみに対して無理な増産を指示したため・・・中<共>経済の大混乱と、推計2,000万人から5,000万人の餓死者を出す大失敗に終わ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%B2%E6%94%BF%E7%AD%96

三、文化大革命

 武者小路実篤の「新しい村」構想を参考にしたが、大失敗に終わった。(それ以上の説明は省略。コラム#7989参照)

四、日本文明の全面的継受戦略

 大成功を収めつつある。(詳細は省略。コラム#7989参照)
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[参考:日本による対赤露防波堤構築]

1 満州

 満州事変(成功):1931年9月
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89

2 内蒙

 綏遠事件(失敗):1936年11月(コラム#4008、4010、5569、8088)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%8F%E9%81%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 「1936年(昭和11年)2月22日師団に満州駐箚の命令が下されたが、これはその頃第1師団所属の青年将校の中に昭和維新を叫ぶ者が居り、それらを満州へ遠ざける狙いがあったという。然しこの命令の4日後秘密裏に計画されていたクーデターが決行される事となる。これが二・二六事件である。クーデター自体は失敗に終わるが、首魁として処罰された野中四郎大尉を始め、香田清貞大尉・安藤輝三大尉・山口一太郎大尉ら決起将校の多くは何れも第1師団所属であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
 「安藤輝三大尉は第1師団の満洲行きが決まると、「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」、「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べ、また1935年1月の中隊長への昇進の前には、当時の連隊長井出宣時大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束し、蹶起に極めて消極的であった。栗原、磯部から参加要請され、野中から叱責をうけ、さらに野中から「相沢中佐の行動、最近一般の情勢などを考えると、今自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ却って天誅がわれわれに降るだろう。自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか」と言われ、ようやく2月22日になって決断した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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 以下、全面的に説明を省略します。

7 張鼓峰事件/ノモンハン事件(1938〜39年)=第3次日露戦争

8 第3次日露冷戦(日ソ中立条約:1941年)

9 日ソ戦(1945年)=第4次日露戦争

10 東西冷戦(1945〜89年)≒第4次日露冷戦(1945〜91年)

  日米「同盟」

 東西第1次冷戦(1945〜69年)


 ※中ソ対立(Sino-Soviet split。1960〜89年)
https://en.wikipedia.org/wiki/Sino-Soviet_split

 東西デタント(1969〜79年)
https://history.state.gov/milestones/1969-1976/detente

 東西第2次冷戦(1979〜85年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E3%82%BD%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88

11 ソ連崩壊:日露百年戦争の終わり(1985〜91年12月25日)

  ペレストロイカ→ソ連圏崩壊→ソ連崩壊
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太田述正コラム#8116(2015.12.26)
<2015.12.26東京オフ会次第(その1)>

→非公開