太田述正コラム#7868(2015.8.24)
<ヤーコブ・フッガー(その4)>(2015.12.9公開)

 ・ヴェネツィアへのとどめ

 「・・・フッガーは、胡椒と香料の貿易<の中心>を<、地中海経由の東インド貿易を牛耳っているヴェネツィア等から、喜望峰を回る東インドへの貿易航路を開拓することで(太田)、自分達の首都である>リスボンに移そう、というポルトガルの企図を金融でもって助けた。
 この動きは、非常に成功を収め、それは、ヴェネツィアの商業上の到達点(stature)に対して致命的な一撃を与えた。」<(注6)>(B)

 (注6)それに加えて、「1508年、ヴェネツィアに対抗して神聖ローマ帝国、<法王>、フランス、スペインは同盟をむすび、ヴェネツィア領土内にある財産を没収し・・・<かつまた、>15世紀半ばのオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、・・・1538年におけるプレヴェザの海戦で、オスマン帝国は地中海の制海権を<ヴェネツィアから奪って、自分が>ほぼおさえ・・・た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2
ことによって、すなわち、フッガーへの皇帝の積極的協力とオスマントルコの事実上の協力、とが相俟つことによって、ヴェネツィアは決定的に衰亡するに至った。

 ・情報力
 
 「フッガーは、交易と商業に関する情報への欲求(thirst)も抱いており、飛脚群のネットワークを創造したところ、それらがアウクスブルクにもたらす諸報告は、原初的な新聞の形態で印刷され、顧客群へ配布された。
 彼は、世界最初のニュース・サービスを発明したわけだ、・・・」(B)

 「彼は、・・・彼の競争相手達よりも早く重要な情報を入手するために、新聞の出現<(注7)>よりも半世紀も前に、世界最初のニュース・サービスを創造したのだった。

 (注7)「郵便制度が整えられた<ことを背景に、>1605年、世界初の週刊新聞《・・Relation aller Furnemmen und gedenckwurdigen Historien・・》が、<当時のシュトラスブルク、現在の>ストラスブールでヨハン・カロルスによって創刊され、1650年<には>、世界初の日刊紙ライプツィガー・ツァイトゥイング(週6日)が創刊された。・・・<ちなみに、同時期の>日本には現在の新聞と似たものとして瓦版が<生まれたところ、>・・・現存する最古の瓦版[・・天変地異や大火、心中など時事性の高いニュースを速報性を以って伝えた情報紙・・]は1614年〜1615年の大坂の役を記事にしたものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%81%9E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%A6%E7%89%88 ([]内)
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_newspapers_and_magazines (《》内)

 鉱業と銀行業、そして、神聖ローマ皇帝のお抱え銀行家としての奉仕を含め<た諸業務によって>、フッガーの富は大いに増えた。
 ビジネスにおけるあらゆる優位を望み、彼は、彼だけのためのニュースを運ぶ目的で飛脚システムを設立した。
 ニュースとは、例えば、重要な「諸死亡や会戦の諸帰結」であり、彼は、それを、皇帝を含む、誰よりも早く得ようとした。・・・」(E)
 
 ・利子付金融

 「・・・フッガーが登場するまで、キリスト教徒達は、諸貸金に利子を課すことが法的に認められていなかった。
 それが、<キリスト教徒ではない>ユダヤ人が金貸し達になっていた理由だ。
 ルカ(Luke)の福音書の中に、人は、見返りに何も期待することなくカネを貸さなければならない、とある。
 そして、教会はそれを強要した。
 メディチ家のようなキリスト教徒たる貸し手達は、利子をペナルティないし処理費と呼ぶことで<この禁制を>うまく逃れようとした。
 <しかし、>それは、貸付を面倒なものにしていた。・・・」(F)

 「・・・当時、利潤のためにカネを貸し付けること、すなわち高利貸し、は違法で重い罪業(sin)だった。
 イタリアの銀行家達は、教会及び国家の法律に規定されていたところの、諸罪業(transgressions)を、中世の遺物群であると見下していた(overlooked)。
 <しかし、>ドイツ<の銀行家達>はそうではなかった。
 とはいえ、<彼らは、>その顧客達が大公や大司教であれば、<さすがに、>牢獄や地獄に入らずに済むだろう、とも思っていた。・・・」(G)

 「フッガーの「最大の才覚(talent)」は、彼が投資するために必要とするカネを借りる能力(ability)だった」、とステインメッツは記す。
 「彼は、枢機卿達、司教達、公爵達、そして宮廷群に対し、山のようなカネを<自分に>貸すことを納得させた…。
 <こうして、>金融的借入資金利用が彼を頂点へと押し上げた(catapulted)のだ。
 しかし、利子諸支払を約束(charge)し<、かつ実際に>提供するためには、彼は、教会によって長年に渡って維持されてきた高利貸しの禁止と戦わなければならなかった。
 ここで、フッガーの、高位の教会官僚達への諸賄賂によって支えられたところの、法王庁への諸人的繋がり(links)が役に立った。
 巧妙な陳情活動を通じて、そして、大いに目立つ公衆の面前での議論を設営することで、彼は、法王レオ10世(Leo X)<(注8)(コラム#4342)>が、利子の正当性を認める教書(papal bull)・・利子は、貸付金が貸し手において、労働、費用、或いはリスクの発生を伴うものである限り許容できるものとなる・・に署名することを説得することに助力したのだ。

 (注8)1475〜1521年。法王:1513=21年。「本名はジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni de Medici)。メディチ家出身<のこの法王>・・・のもと、ローマのルネサンス文化は最盛期を迎えた。<彼は、>・・・37歳で・・・最年少にして・・・即位<している。>・・・
 1519年、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の死後に行われた皇帝選挙では、マクシミリアン1世の孫、カール5世<(スペイン王のカルロス)>の即位を阻むため、<フランス王の>フランソワ1世を支援するが失敗<し、>カール5世が皇帝に選出されるが、・・・ルターの宗教改革に対抗する必要上、秘かにカール5世と同盟を結んだ。・・・
 1517年にサン・ピエトロ大聖堂建設資金の為にドイツでの贖宥状(俗に言う「免罪符」)販売を認めたことが、ルターによる宗教改革の直接のきっかけになった<ものだ>。・・・<ちなみに、この>ルターを非難した<イギリス>王ヘンリー8世に「信仰の擁護者」の称号を授けたが、後にヘンリー8世は離婚問題で教皇クレメンス7世と対立した果てに<イギリス>国教会を創設<することになる。>・・・<なお、レオ10世は、>45歳で急死<し、>・・・次の教皇<に>1522年にハドリアヌス6世が選出されたが、僅か1年で死去、従弟のクレメンス7世が1523年に教皇になった<もの>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA10%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

 「貸付金がこの三つのうちの一つを伴わないことがあるだろうか」、とステインメッツは問う。
 <フッガーの>この勝利の後、<欧州において、>「債券金融(debt financing)が加速度的に増えた」とステインメッツは記す。
 「近代経済が進行を始めたのだ」、と。・・・」(A)

(続く)