太田述正コラム#7854(2015.8.17)
<資本主義とポスト資本主義(続)(その3)>(2015.12.2公開)

 自力救済は中世ヨーロッパでは一般的に用いられていた紛争解決手段であり、西洋法制史の研究者である山内進<(注5)>は著書『決闘裁判』の中で決闘を用いた自力救済がヨーロッパ及びアメリカにおいて現在も法思想の根底にある概念であると論じ、日本にはその文化が無いことを指摘している。・・・

 (注5)1949年〜。北海道小樽出身で一橋大法卒、同大法学博士。成城大学を経て一橋大、同大教授、学長、そして現在は名誉教授。中東・イスラーム地域研究で有名な山内昌之は実兄。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E9%80%B2
 彼の『掠奪の法観念史――中・近世ヨーロッパの人・戦争・法』(1993年)、及び、
『北の十字軍――「ヨーロッパ」の北方拡大』(1997年)を読んだことがある。

 <この>決闘裁判の考察から明らかなように、「権利のための闘争」はヨーロッパの土壌に深く根ざしており、歴史的かつ文化的なものである。
 われわれが「権利のための闘争」に違和感を覚えるのは当然であろう。
 <川島や丸山のように(太田)、>権利主張が義務であるかのように語られることそれ自体が矛盾であり、その違和感の存在を証明している。
 しかも、その戦いは、実はそれほど颯爽としているわけではなく、凄惨で暴力的だった。戦いに流血はつきものである。
 決闘裁判がもっとも具象的に示しているように、欧米世界で発達した裁判においては、血と暴力という影と、権利と自由という光が交錯している。
 裁判だけではない。法も同様である。
 この光と影の交錯が欧米の法文化を彩っているといってもよいだろう。
 おそらく、現代の国際社会においても、欧米諸国によって法と正義が語られるとき、このような光と陰の交錯は避けられない。・・・

⇒この山内の引用部分における指摘は鋭いものがあります。(太田)

 <前出の>八鍬友広は自力救済が日本でも江戸時代以前は一般的に行なわれ、江戸時代になってもその文化はしばらく続いていたと論じている。
 その例として、鎌を取る、中人の介入、近郷の合力、刈田以下の生産の破壊、合戦刃傷、訴訟の6つを挙げている。
 また中世ヨーロッパの神託に似た「鉄火を取る」という行為も存在し、神意をもって裁定を為す神裁も存在した。「中世社会にあっては紛争を自力によって解決することは、訴訟とならんで一般的な方法でもあった。公権力による裁判が十分な支持基盤をも<ち>えない事態のもとにあっては、むしろ自力救済こそが紛争解決の中心的な手法であったといえる。
 このような自力の発動にあたっては、一定の作法が存したが、自力の発動のみならずその抑制のための種々の作法も存在し、また共同裁定のための機構や神裁などの紛争の最終的解決慣行が、公権力とは別に展開していた。このような慣行は近世初頭にも引き継がれ、…… 徐々に訴訟へと一元化していく道筋をたどったのである」。
 自力救済はヨーロッパに特異の現象ではなく、およそ共同体による集団生活を営んでいた文明では多かれ少なかれ採用されていた紛争解決手段なのだと理解するのが妥当であろう。
 その後、豊臣秀吉の平和令により大名間の戦闘禁止のみでなく、惣無事令・喧嘩停止令・刀狩令・海賊停止令によって、大名・村落・百姓・海のすべての面にわたって私戦・私闘が一切禁止され、中世社会の特質であった自立救済は根本的に否定され、すべての紛争は基本的に公権力の手によって解決されるべき国家的な体制が成立する。
 その転換は突如実現したのではなく、自力の作法に公権力が介入するかたちで徐々に進行していった。
 また近世社会では神裁は消滅していくこととなる。
 自力救済ではなく訴訟による紛争解決が一般化していき、享保三年(1718年)に江戸町奉行所になされた訴訟は4万7千件あまりで、江戸の人々の間に訴訟によって紛争を解決するという通念が急速に広まったことを示している。
 紛争そのものを幕府が制御することにより実力行使の禁止、裁判による決着という近世的な秩序が形成されていくこととなる。

⇒この八鍬の引用部分における指摘は、概ね間違いではありませんが、誤解を生じないように、史実と私見でもって補足しておきます。
 日本で、第一次弥生モードから第二次縄文モードの転換に伴って、戦国大名間の戦いを典型とする自力救済がなくなって行ったことは事実ですが、第一次弥生モードの時も、自力救済が、武士間のものを含め、欧州のそれに比べると「凄惨で暴力的だった」と言ってもたかが知れている、と私は想像しているところ、典拠までは見つけられませんでした。
 とまれ、第二次縄文モードとくれば、当然、第一次縄文モードの時代はどうだったのかが気になりますが、ネットをざっと調べてみた限りでは、全く分かりませんでした。
 そこで、次善の策として、拡大弥生時代後期と第一次弥生時代前期の事例を探ってみました。
 拡大弥生時代後期の604年には、聖徳太子が十七条憲法を作ったとされています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
が、その中に、下掲の条文(現代語訳)があります。
 「五にいう。官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂をえることが常識となり、賄賂をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。」
http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm
 また、第一次弥生モード前期には、1277〜78年或いは1279〜90年に、「所領紛争の解決のための訴訟を扱い、また女性の京都から鎌倉への道中の紀行を書」いた、阿仏尼著『十六夜日記』があります。(注6)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%A4%9C%E6%97%A5%E8%A8%98
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BB%8F%E5%B0%BC

 (注6)代理人たる阿仏尼の訴訟の相手方だった、彼女の義理の息子(正妻の長男である二条為氏)は、この訴訟のために鎌倉に下向してその地で没したと推定されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E6%B0%8F
 この訴訟の本来の当事者であったところの、阿仏尼の長男で為氏より年下の冷泉為相も、そのために度々鎌倉へ下向し、最終的に兄に勝訴している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E7%82%BA%E7%9B%B8

 すなわち、弥生期ないし弥生モードにおいてすら、相対的に平和な時期においては、政府の役人が行う民事訴訟制度が活発に機能していたことが分かります。
 従って第一次縄文モード(平安時代)においても、平和そのものの時代であったことから、訴訟件数こそ少なかったでしょうが、民事訴訟制度は機能していた、と考えられるのです。
 結局、第二次縄文モード(江戸時代)に入って、第一次縄文モードにおいてと同様、紛争は民事訴訟制度による解決が当然視されるようになった、ということなのではないでしょうか。
 しかも、十七条憲法には、「一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するものだ。」や「二にいう。・・・人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。」や「十にいう。・・・ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある・・・こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。」といった、人間主義の喚起を促す条文があります。
http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm 前掲
 このような人間主義的な当時の日本社会においては、(「1日1000件」というのは、誇張的にきりのよい数字を記したと思われるところ、)そもそも、訴訟が少ない・・魏志倭人伝に、(拡大弥生時代前期の)邪馬台国では「窃盗は無く、訴訟は少ない」とある。
http://www.geocities.jp/aphros67/020310.htm ・・だけでなく、訴訟になった場合でも、欧米におけるような「決闘裁判」的なものにはならなかった、と考えられるのです。
 また、過去に何度も指摘したように、日本の裁判官には、極めて大きな裁量権が与えられてきたところです。
 私は、こういった日本の裁判制度もまた、超先進的で普遍的なものなのであって、それは、まさに、今後、先進諸国を先頭にして急速に世界が移行していくところの、ポスト資本主義社会にふさわしい裁判制度である、と考えるに至っています。(太田)

 この時期に必要とされたのは、実力行使に必要な武力といった共同体の利益を防衛する手段ではなく、如何に優れた目安を作成し有利に裁判を展開できる能力だった。
 つまり、今日のいわゆる「プレゼン能力」が当時も重要視されていたようである。・・・

⇒この八鍬の引用部分における最後の指摘は、素直に首肯できます。(太田)

 人民に対する支配の恣意的暴力的性質の逓減と、それにかわって進行した支配の公法制の増大、公権力に対する「百姓成立」<(注7)>といわれるある種の生存保障の要請の強まりなども、近世社会の有する重要な特質であった。近世は、武力統一を果した強力政権の支配力の強化と、その政権のもつ公共的性質の深化という、ふたつの側面を有していたとみなければならないのである。・・・

 (注7)深谷克己『百姓成立』(1993年)より。
 「「百姓成立」(ひゃくしょうなりたち)・・・<とは、百姓が>「再生可能な経営水準を維持していく」<(8頁)という意味である。>・・・
 百姓の地位を知るうえで大事なのは、なかでも、百姓は「上様」さえ私物として扱うことができず「天」より預けられたもの、としているところである(21頁)。
 領主の絶対性は、その「公儀」性にもとづくものであり、百姓の生業はその納得によって公的性格を帯び、普遍的価値を付与されるという関係のなかで、近世的な服従的人格が形成されるのである(146頁)。
 法度支配の進行という大きな方向は不可逆だが、しかし公儀法が一元的に貫徹するというのではなく、それに規定されつつもなお独自の領域をもつ各社下位集団の理=法が重層的あるいは対抗的に存在した(232頁)。
 一揆や騒動では、被治者の側が、ほとんど為政の側に移行するように登場してきて悪の明示と排除を行う。そのさい百姓は、みずからもまた「御百姓」身分を放棄する用意があることを示した(252頁)。---。一揆にいたる状況は、領主のほうが「百姓成立」を破壊する者として立ち現れていると認識されたから、「百姓成立」を深く希求しながら、御百姓身分とそれに連結する公法的百姓所持地の返上を申し出る百姓一揆もあったのである(253頁)。」
http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090225/p1
 なお、深谷(1939年〜)は、早大卒、同大博士の日本近世史学者で現在早大名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E8%B0%B7%E5%85%8B%E5%B7%B1

⇒江戸時代の農民は、「政治的・・・関心と・・・責任<感>の世界」に生きていただけでなく、自分達が「公」の天職に従事している、という強烈な自負心を持っていた、ということが分かります。(太田)
 
(続く)