太田述正コラム#7846(2015.8.13)
<戦中の英領インド(その6)>(2015.11.28公開)

 実際は全くもって異なっていた。
 考えの間違っていた戦争の中で、覚醒能力のあった大衆を覚醒させて、彼らの国をばらばらに分かつという高い代償を払ってでも、我々<英国人達>を彼らの家たる地から追放したところの、賢く、しかし勇ましくない、後方に残ったインド人達によって、インドの自由を最終的に花咲かせた種々は蒔かれた。
 今日の忘れっぽい英国人に、英領インド当局が、インドのニーズに途方もなく合致していなかったところの戦争によって究極的に疲れ切ってしまった権力(force)であったこと、を思い起こさせることに関し、この両著の著者達は、完全に称賛されるべきだ。・・・」(E)

3 終わりに代えて

 「カーンは、英国人将校達と彼らの兵士達との間の「翻訳不可能な距離」、及び、いかに英国人将校達が、カーストと部族的ステレオタイプ群、並びに、インド人兵士の宿命論と忠誠主義に係る陳腐な諸考え(cliches)、に依存していたか、を指摘する。
 しかし、そこには、真正な連帯と愛情(affection)の諸物語もあった。
 <その一方で、彼女は、>ロンドンの陸軍省の制度化された人種主義を詳細に例証している。
 彼女は<また>、数百万人が死んだ、1943年のベンガル飢饉という悩ましい(vexed)問題も取り扱っている。
 インドでは、殆んど完全に、ウィンストン・チャーチルが、インドがより多くの穀物を得るために稀少なる船舶を割くことを拒絶したことを通常咎め立てしてきた。
 この本の中では、交差する諸要素が解きほぐされる。
 すなわち、サイクロン、戦争経済の諸急迫、日本の侵攻可能性に直面した中での地方行政当局が取った先制的な「焦土」政策、英国の役人達の無能、買いだめその他の市場の諸歪み、そして、飢えつつあった、しかし、濃い肌色をした帝国の臣民達の窮状に対する英国政府の無感覚なる無関心。
 英インド当局の諸神話<の真相>を暴いたのはベンガル飢饉だけではなかった。
 ビルマから逃げた避難民達や従軍した兵士達の差別的取扱いがあった。
 労働者達が、単にナチズムと戦うためだけではなく、その帝国と影響力とを維持するための諸努力を支援するための、不可能な諸生産目標と格闘させられたところの、インドの諸工場における、次第に募る過酷な諸条件。
 復員兵達は、新しい諸技能、識字、及び諸展望、を身に着けて戦闘から戻って来た。
 そして、仮に、大部分の兵士達が彼らの以前の農業労働者達としての諸実存へと平和裏に戻ったとしても、<彼らの心中には、>新たな熱情でもって反抗意識が燃えさかっていた、とカーンは主張する。
 すぐに身の毛のよだつ分割の暴力を目撃することになるパンジャブ州では、多くの復員兵達は彼らの戦時の軍役を新しい光の下で見始めた。
 1946年にはボンベイで海軍の叛乱、そして、その他の抵抗運動の諸勃発が起こった。
 <グルカ兵が帰還した>ネパールでも、戦後騒擾が起こった。
 驚きの200,000人ものネパール人が、この戦争で英国のために戦い、外の世界について非常に新しい形で自覚するようになって、戻って来たことが、それまでは孤立した山間の王国の不安定な諸統治者達にとって明白な脅威となった。
 すぐに、<首都>カトマンズ(Kathmandu)では、諸ストや諸行進が起こった。
 英国では、戦った、或いは、枢要なる海上諸護衛を行ったところの、兵士達と水兵達が、戦後世界の新しい移民達の先陣となった。
 部分的には、英国経済の労働力の切羽詰まった需要を充足するために・・。
 幾許かは、安食堂群(basic canteens)をやったが、それが、レストラン群や今日のカレー屋群へと変貌して行った。
 1946年には、ロンドンに20軒前後の「インド」レストラン群があり、それらは概ねシルヘト(Sylhet)<(注13)>・・やがてバングラデシュ(Bangladesh)になった・・からの移民達がオーナーだった。・・・」(G)

(注13)現在のバングラデシュの7つの県(division)の一つで東北端に位置する。英国在住の出身者達からの送金で潤っている。風光明美で考古学的に価値ある遺跡も多い。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sylhet_Division
https://en.wikipedia.org/wiki/Divisions_of_Bangladesh

(続く)