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太田述正コラム#7836(2015.8.8)
<21世紀構想懇談会報告書(その2)>(2015.11.23公開)

 戦後史を振り返れば、日本の国際的行動のなかには軍事的自己利益追求行動は皆無であり、戦後の日本の歩みは、1930年代から40年代前半の行動に対する全面的な反省の上に成り立っている。

⇒そうではなく、昭和に入ってからの縄文モード化傾向が、敗戦、及び、米軍の占領によって、一挙に深まり、日本がデフォルトの鎖国状況に戻った、というだけのことです。(太田)

 同時に、日本は、20世紀後半に新しく世界のリーダーとなった米国が主導して立ち上がった、平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援を前提とした新しい自由主義的な国際システムに忠実に生きてきた国の一つである。また、戦後構築された政治経済システムは、米国の構想力に負うところが大きかった・・・

⇒属国民としての奴隷の言葉が書き連ねられており、悲哀に満ちた嫌悪感に全身を苛まれます。(太田) 

 戦後70年において、日本の安全保障にとって米国の存在は圧倒的であり、日本が世界で最も兵力規模の大きい国々が集中するこの東アジア地域において一度も外国から攻撃を受けることなく、平和を享受できたのは、日米安保体制が作り出した抑止力によるところが大きい。・・・

⇒戦後日本が平和を享受できたことと日米安保体制とは何の関係もありません。
 非スターリン主義体制下の韓国が、米国と安保条約を持たない状態で、当然のことながら米軍も駐留していなかったにもかかわらず、北朝鮮の侵攻を持ちこたえることができたのは、米ソ冷戦が始まっていて、米軍が救援に駆けつけたからであり、同様非スターリン主義体制下の日本がスターリン主義勢力の侵攻を受けなかったのも、全く同じ理由によります。
 これに加えて、日本は島国であり、非スターリン主義体制下の諸国への渡洋攻撃が、米国が核兵器を保有していたことで、事実上不可能になった、という、先の大戦後の軍事的国際環境の大きな変化、という事情もありました。
 更に言えば、朝鮮戦争の結果、(警察予備隊に始まるところの)自衛隊が生まれ、かつまた、米韓が安保条約で結ばれて韓国に米軍が駐留したことで、日本の領域的安全性は盤石になって現在に至っています。
 日米安保体制が解消されたとて、この状況に基本的な変化は生じません。
 (以上は、核の脅威を捨象していることに注意。
 また、ロシアと支那は、その後、スターリン主義体制を脱ぎ捨てているところです。)(太田)

 なお、この戦後70年の日本の平和主義・国際貢献路線は、国際社会及び日本国民双方から高い評価を受けているが、その歩みは、戦後突然生まれたものではない。日本の戦後の歩みは、明治維新以後の自由民権運動や立憲君主制の確立などの自由主義的民主制や、国際社会の規範の受容の上に成り立っているものである。

⇒とってつけたようなくだりですし、「及び日本国民・・・から」は首をひねりますが、私が言うとすれば、日本は、開国以来、一貫して、人間主義・国際貢献路線を歩んできており、だからこそ、高い評価を国際社会から受けている、と書いたことでしょう。(太田)

 もちろん、戦後の日本の自由主義的民主制の確立や、日本の国際社会復帰に米国が果たした役割は大きかったが、明治以来の民主主義の発展や、民主主義国家として、国際平和、民主主義、自由貿易を基調とする国際秩序形成に積極的に関与してきたことが、戦後日本と通底していることを忘れるべきではない。・・・

⇒またまた、米国に媚を売っていて鼻白みます。(太田)

 日本の戦争責任に対する中国側の姿勢は、第二次大戦終結から現在まで<蒋介石の>「軍民二元論」という考えの下で一貫している。・・・
 毛沢東国家主席も蒋介石同様、「軍民二元論」に基づき、日本の戦争責任は一部の軍国主義者にあり、日本国民は被害者であるとの立場を明確にした。日本が中華人民共和国でなく、中華民国との間で外交関係を結んだにもかかわらず、毛沢東が日本に対する「軍民二元論」を唱えた背景には、 日本国民、特に民間人を中国にひきつけ、将来的に中華人民共和国を承認するような運動を起こさせるとともに、日本国内の反米運動家や革新派と連携することにより、日本をアジアにおいて政治的に中立化させようとする企図もあった。・・・

⇒この報告書の性格から、典拠は一切付されていないことはやむなしとして、このくだりは、典拠のないことをよくもまあ書いたものだ、と切り捨ててよさそうです。
 私自身、直接的な典拠を持ち合わせているわけではありませんが、蒋介石は、予期される毛沢東との戦いにおいて、日本人を敵に回したくなかった、ということでしょうし、毛沢東の方は、何度も指摘しているように、もともと日本フェチであったことに加えて、日本のおかげで日支戦争/太平洋戦争中に、蒋介石に対抗し、勝利できるだけの態勢を構築できたことから日本に感謝の念を抱いていた、ということである、と私は考えています。(太田)
 
 経済協力を中心に、1980年代の日本は中国の経済発展にとってなくてはならない存在となっていく。トウ小平は日本を経済の師と位置付け、 中国では政府、国民双方にとり日本の重要性が急速に高まっていった。

⇒唐突に、私の日本型政治経済体制中共継受論もどきが展開されていますね。(太田)

 こうして、中国は、経済面において日本への依存を深めていったが、トウ小平は、日本との経済関係強化に努めると同時に、青少年が過去の日本の行いを知らずに歴史を忘却することを恐れ、歴史を強調するようになった。・・・

⇒ここも典拠はないはずです。
 中共当局とは違って、一般人民の多くは、戦前の中国国民党政権の反日プロパガンダや戦時中の戦災に基づき反日感情を抱いており、日本型政治経済体制継受政策の推進を人民に対して(、かつまた、日本や欧米諸国等に対して)カムフラージュするために、更にまた、日本を「脅迫」して政治経済上の見返りを獲得するために、反日史観の人民への注入を始めた、と私は見ているわけです。(太田)

 1989年の天安門事件は、日本国民の対中認識を大きく悪化させたが、日本政府は、1990年代初頭にいち早く対中経済制裁解除に動き、1992年には天皇陛下が訪中される等、天安門事件後も中国に格別の配慮をした。・・・

⇒「日本国民の対中認識を大きく悪化させ」なかったからこそ、とでもしないと、後段につながりません。(太田)

 1980年代後半から1990年代初頭に かけて冷戦の崩壊とともにソ連をはじめとする社会主義国が世界から次々と姿を消す中、中国共産党にとって一党独裁の社会主義体制をいかに存続させるかという点は切実な問題となり、この中で共産党の正当性を強化する手段として愛国主義教育が浮上する。中国共産党はトウ小平時代よりも強化された愛国主義教育を 展開し、特に日本との歴史問題は愛国主義教育の中で中心的な位置を占めるようになった。・・・

⇒私の言葉で言えば、反日史観の人民への注入の「成果」を中共当局支配の継続のために活用した、ということです。(太田)

 1995年には村山富市首相が談話を発表し、この中で第二次大戦中、日本は、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たことを認め、「痛切な反 省の意を表し、心からのおわびの気持ちを表明」した。・・・

⇒中共当局の反日史観の人民への注入の真意を誤解し、まんまとそれに乗せられた形で、村山首相は、全く必要のない談話を発表してしまったわけです。(太田)

 1948年に独立した韓国は、サンフランシスコ講和会議に戦勝国として参加して日本と向き合おうとしたが、講和会議への参加を認められず、国民感情的に割り切れない気持ちを抱えたまま戦後の歩みを始めることとなった。・・・

⇒これは私が長らく失念していた史実ですが、全く国際法の常識に反する発想であり、当時の李承晩政権のこのような異常さが、いかにその後の韓国民の対日意識に悪影響を与えたかが想像できます。
 前にも述べたことがありますが、これは、韓国民にとって何と不幸なことであったことか。(太田)

 <日韓国交正常化の後、>日本国民も同様に、当初同じ考えを持っていると期待した韓国人が、日韓基本条約を平然と覆そうと試みるのを見て、また法の支配に対する考えの違いに愕然(がくぜん)とし、韓国人への不満を募らせていった。・・・
 竹島については、自ら問題を大きくする意図は有していなかった日本であるが、李明博大統領による一方的な行動により、その態度は硬化することとなった。・・・
 盧武鉉、李明博という過去2代の大統領が就任当初は理性に基づいて日本との協力関係を推進したのに対し、朴槿恵大統領は、就任当初から心情を前面に出しており、これまでになく厳しい対日姿勢を持つ大統領である。この背景には、朴大統領の慰安婦問題に対する個人的思い入れや、韓国挺身隊問題対策協議会のような反日的な団体が国内で影響力があるということもあるが、それに加えて、韓国の中で中国の重要性が高まり、国際政治における日本との協力の重要性が低下していることが挙げられる。中国の重要性が高まった背景には、中国への経済的依存度の高さや朝鮮半島統一問題における中国への期待の高まりがある。・・・

⇒韓国、ここではとりわけ、朴現大統領、に対する悪罵に近い文章が続いており、米国に対する媚との落差の大きさに、執筆者達の品性を疑わざるをえません。(太田)

 いかに日本側が努力し、その時の韓国政府がこれを評価しても、将来の韓国政府が日本側の過去の取り組みを否定するという歴史が繰り返されるのではないかという指摘が出るのも当然である。しかし、だからと言って、韓国内に依然として存在する日本への反発に何ら対処しないということになれば、2国間関係は前進しない。1998年の日韓パートナーシップ宣言において、植民地により韓国国民にもたらした苦痛と損害への痛切な反省の気持ちを述べた小渕首相に対し、金大中大統領は、小渕首相の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価し、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互い努力することが時代の要請であると述べた。にもかかわらず、その後も、韓国政府が歴史認識問題において「ゴールポスト」を動かしてきた経緯にかんがみ れば、永続する和解を成し遂げるための手段について、韓国政府も一緒になって考えてもらう必要がある。2国間で真の和解のために韓国の国民感情にいかに対 応するかということを日韓両国がともに検討し、一緒になって和解の方策を考え、責任を共有することが必要である。・・・

⇒こういった、前向きで未来志向のトーンで、韓国に係る全記述を行うべきでした。(太田)

 東南アジアで は独裁的な政権が上から国家建設・経済発展を推進しようとする開発独裁型国家が相次いで誕生した。・・・
 1970年代には、東南アジア諸国で日本の経済進出に対する反発もあり、これが1974年の田中首相の東南アジア歴訪時の反日デモ、反日暴動につながった。こうした動きに対応して、日本は1977年、福田首相が「福田ドクトリン」を発表した。・・・
 日本と中国、韓国との関係に比べ、日本と東南アジアとの関係は、この70年間で大きく改善し、強化された。この背景には、中国、韓国の国民の歴史において戦争、植民地支配の苦しい経験の中で、まさに日本が敵となっているのに対し、東南アジアの国々の国民の物語の中では、日本は主たる敵とされていないことがある。日本の支配下、たいへん苦しい思いをした東南アジアの人々は大勢いた。しかし、その前に長年にわたる欧米の植民地統治を経験していた彼らにとって、日本は第二、第三の植民地勢力であり、植民地支配と戦争の苦難が全て日本の責任であるということにはならなかった。・・・

⇒東南アジア諸国は、日本が、対米英戦争遂行のために、一時的に軍事占領しただけであって、植民地支配をしたわけでも、将来植民地支配をしようと思ったわけでもありません。
 ですから、執筆者達が、「植民地支配・・・の苦難」などと平気で書く気がしれません。
 また、「中国」に関しては、「植民地支配」・・正確には「植民地的支配」ですが・・をしたのは基本的に満州だけであり、「満州等の」と限定的に記すべきでしたし、韓国に関しては、「戦争」において、日本や米国の攻撃の対象になったわけではない
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1384977933 (←まともな典拠ではないが・・。)
ので、「植民地支配の苦しい経験」だけに留めるべきでした。

 媚米、嫌中、嫌韓、と、殆んどネトウヨ史観そのままだな、というのが、ここまでの私の率直な印象です。
 何とまあ、日本の学界、財界等の重鎮達、そして、その背後の日本の政界や官界の上澄み達の史観というか見識が劣化したことか、とかなり絶望的な気持ちになります。(太田)

(続く)

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