太田述正コラム#7832(2015.8.6)
<戦中の英領インド(その3)>(2015.11.21公開)

 (3)最初の衝撃(ビルマ陥落)

「・・・1942年は、英領アジアにおける紛争の大災害的転換点となり、戦いをインドの戸口にまで到達せしめた。
 「戦争は、遠方の欧州でのものではもはやなくなった。
 それは、国<(英領インド)>の諸国境、諸森林、そして、諸海浜、のまさにその場までやってきたのだ。」
 日本軍のマレーシア突入、シンガポール次いでビルマの陥落、は英領インド当局(Raj)にとっては叩きのめされるような諸頓挫だった。
 ビルマのインド人たる極めて大勢の商業的離散者達(diaspora)・・チェッティアー((Chettiar)<(注5)>交易者達、クーリー達(coolies)、タミル族(Tamil)の水田作業員達、イスラム教徒の商人達・・は、アッサム州めがけて泥だらけの諸山路を逃げて通る時に著しく苦しんだ。
 すなわち、何千人もが、コレラ、赤痢、マラリア、或いはもっとひどい原因で亡くなった。
 痩せ衰えた生存者達は、虫刺されだらけでボロボロの衣類を纏って到着した。

 (注5)インドの商業諸カーストが用いる称号。
http://ejje.weblio.jp/content/Chettiar+

 白人専用の諸鉄道の噂が駆け巡った。
 コネのあった者達は、ラングーンから汽船に乗ったが、貧しい労働者達は、歩行を強いられた。
 怒ったガンディーは、この混沌を非難した。
 「インドは虐げられ(grind down)、ゴミ(dust)扱いされ、辱められた」と彼はいきまいた。
 英国の威信の失墜は巨大だった。
 英領インド当局はは、それが統治していた者達に安定と安全を約束したが、そのどちらも提供できなかった。
 このしくじりは、インドを去れ運動(Quit India movement)<(注6)>を加速させた。

 (注6)1942年8月8日にガンディーによってボンベイで始められた、英当局に対する市民的不服従運動。
https://en.wikipedia.org/wiki/Quit_India_Movement

 それは、同年にその後勃発し、ガンディー、ネール、<英当局をして、>その他の民族主義(nationalist)指導者達の逮捕へと駆り立てさせた。
 その後、事態は更に悪化した。
 ベンガル州は、日本の侵攻の諸恐怖によって促された焦土政策の諸効果の被害を被った。
 こうして、諸出来事の連鎖が始まったわけだが、1943年の広範な飢饉をもたらした最大の犯人は、政府の管理の不手際だった。
 約300万人の人々が死ぬことになった。
 飢えた家族達がカルカッタの諸街を彷徨い、ナイトクラブ群が賑わう中で静かに死んで行った。・・・」(F)

 「数は恐るべきものだった。
 実に、300万人のベンガル人が飢饉で殺され、50万人を超える南アジア人の難民達が(当時はビルマであったところの)ミャンマーを逃れ、300万人の兵士達がインド軍に充足され、そのうち89,000人が軍事役務中に死んだ。・・・
 <また、>公的諸数字は、インド東部沿岸地帯への日本軍の爆撃で数千人が死んだことを示唆している。<(注7)>・・・」(C)

 (注7)1942年4月5日から4月9日にかけての、日本海軍による、セイロン沖海戦の際の、セイロン島のコロンボ、及びトリンコマリーの空襲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6
のことを勘違いしているのではなかろうか。

 各所の諸前線の兵士達は、家から危急を知らせる手紙群を受け取った。
 「休暇で戻っても飢えるだけなら何の意味がある」と兵士の一人は嘆いた。
 
 一人の妻は夫にこう書いた。
 「人々は生きるための食べ物がなく、体を覆う衣類もない。
 これは、人類の歴史の中で想像を絶し、かつ、特異(unique)なことだ」、と。
 カーンの抑制された筆致は、諸事実の身の毛がよだつ明晰さに自ら語らしめている。
 この死者の数は「スターリングラードと広島の死者数が全球的戦争諸史の一部になったように、第二次世界大戦の死者数全体に含まれるべきだ、と彼女は主張する。・・・」(F)

⇒私は不同意です。
 ホロコーストの死者が先の大戦の死者数全体に含まれないように、1943年のベンガル飢饉の死者は、英国による、未必的故意によるホロコーストとして計上されるべきでしょう。
 (他方、広島と長崎の一般市民の死者は、東京大空襲等の際の一般市民の死者同様、先の大戦中の戦争犯罪として計上されるべきでしょう。)(太田)

(続く)