太田述正コラム#7989(2015.10.24)
<皆さんとディスカッション(続x2790)/ものすごいことが起こっている>

<太田>(ツイッターより)

 「… 現在の原子力艦事故の避難判断基準は、毎時一〇〇マイクロシーベルトで原発事故の二十倍。…原子力艦事故の屋内退避の範囲が、空母の場合は半径三キロ…原発事故の原子力規制委員会の指針は半径三十キロ…原子力空母や原子力潜水艦が入港する米海軍基地があるのは神奈川県横須賀市、長崎県佐世保市、沖縄県うるま市。」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201510/CK2015102302000149.html
 属国の国民諸君、むしろ、横須賀市を特区に指定し、長距離の電線で電気を引っ張ってきてロスが多く経費も嵩む、僻地の原発は廃止し、首都圏用に横須賀市に原発をじゃんじゃん作らせてもらう、という案はどうだろうかねえ。

<太田>

本日の記事の紹介等は、全て、明日に回します。
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 一人題名のない音楽会です。
 チェロの9回目です。
 今回の各曲は、粒よりですよ。

Small pieces for Cello チェロ:Maurice Gendron(注)
https://www.youtube.com/watch?v=f-0G9lzSKOc

(注)モーリス・ジャンドロン(1920〜1990年)は、フランスのチェリスト・指揮者。ニース音楽院、パリ音楽院、等で学ぶ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%B3
 
[収録曲]

Handel Serse (Ombra mai fu)(1738年)(注)(arr.Gendron) 名曲。

(注)「「オンブラ・マイ・フ」(Ombra mai fu)または「ラルゴ」(Largo)は、ヘンデルの作曲したオペラ『セルセ』(Serse, Xerxes)第1幕第1場の中のアリア。ペルシャ王セルセ(クセルクセス1世)によって歌われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%95
https://en.wikipedia.org/wiki/Ombra_mai_fu

Popper Serenade(1884年?出版)(注) 5:04 名曲。

(注)デーヴィッド・ポッパー(1843〜1913年)は、ボヘミアのチェロ奏者で作曲家。
https://en.wikipedia.org/wiki/David_Popper

Dvorak Humoresque(1894年)(注) 8:35 お馴染みの名曲。

(注)正確には、「ユーモレスク集<中の、>変ト長調の第7曲<であり、>・・・最も有名なピアノ曲の一つに数えられており、またフリッツ・クライスラーによるヴァイオリン用の編曲でも名高い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%AF_(%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%AF)
 このヴァイオリン編曲を更にチェロ編曲した、ということだろう。

Chopin Introduction et polonaise brillante(1829〜30年)(注) 12:14 名曲。

(注)序奏と華麗なるポロネーズ。「チェロとピアノのための室内楽曲」だが、「ショパンはピアノ独奏版も残して」いる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%8F%E5%A5%8F%E3%81%A8%E8%8F%AF%E9%BA%97%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%BA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3)

Schumann Traumere(1837〜38年)(注) 20:05 お馴染みの名曲。

(注)「『子供の情景』(独語:Kinderszenen)作品15は、ロベルト・シューマンの作曲したピアノ曲の代表作のひとつ。特に<この>第7曲『トロイメライ』は名高い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%AE%E6%83%85%E6%99%AF
 これをチェロ編曲したもの。

Rimsky-Korsakov Flight of the Bumble-Bee(注) 23:22 お馴染みの名曲。

(注)熊蜂の飛行。「アレクサンドル・プーシキンの原作に基づき1889年から翌年にかけて作曲されたオペラ『サルタン皇帝』・・・の第3幕で、主人公の・・・王子が魔法の力で蜂に姿を変え、悪役の2人の姉妹を襲う場面で使われる曲である。ラフマニノフらによりピアノ曲やヴァイオリン曲などに編曲され、熊蜂の羽音を模した親しみやすい曲調もあって広く知られている。また、シフラがピアノ独奏用に編曲した版は、ピアノの難曲として知られている。またフレディ・マーチン楽団が発表した「バンブルブギー」(Bumble Boogie)という名でジャズの形でも演奏される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%9C%82%E3%81%AE%E9%A3%9B%E8%A1%8C

Saint Saens Le Cygne(1886年)(注) 24:32 お馴染みの名曲。

(注)白鳥。組曲「『動物の謝肉祭(動物学的大幻想曲)』の中の1曲。「他の作曲家の楽曲をパロディにして風刺的に用いていること、プライヴェートな演奏目的で作曲されたいきさつなどの理由により、以降サン=サーンスは自身が死去するまで本作の出版・演奏を禁じた。ただし純然としたオリジナルである「白鳥」だけは生前に出版している。・・・
 <この組曲は、>オーケストラで演奏する場合と、オリジナルの室内楽として演奏する場合がある。前者では弦楽器は各パートに複数置かれる(ただし「白鳥」のみオーケストラ版の場合でもチェロはソロである)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%81%AE%E8%AC%9D%E8%82%89%E7%A5%AD

Moszkowski(注a) Guitare (arr.Gendron) (1888年)(注b) 27:42 名曲。

(注a)モーリッツ・モシュコフスキ(1854〜1925年)。「ポーランド出身のユダヤ系ピアニスト、作曲家、指揮者。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD
(注b)ギターレ。ライプチヒで出版。
http://imslp.org/wiki/2_Piano_Pieces,_Op.45_(Moszkowski,_Moritz)

Fitzenhagen(注a) Moto Perpetuo (arr.Gendron)(注b)  30:50 名曲。

(注a)ヴィルヘルム・フィッヅェンハーゲン(1848〜90年)。「ドイツのチェリスト、作曲家、教育者。・・・60以上のチェロ作品を遺した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3
(注b)作曲年等不明。
http://imslp.org/wiki/List_of_works_by_Wilhelm_Fitzenhagen

Granados(注a) Andaluza(1892〜1900年)(注b) 33:48 お馴染みの名曲。

(注a)エンリケ・グラナドス・イ・カンピニャ(1867〜1916年)。「スペインの作曲家。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%89%E3%82%B9
(注b)アンダルーサ(祈り)。スペイン舞曲集(Danzas espanolas)12曲のうちの5番目の曲。「グラナドスの作品の中ではこんにちよく知られており、特に<この曲>は演奏機会が多い。管弦楽、ギターなど様々な編曲もされている。」
http://www.piano.or.jp/enc/pieces/83/

Kreisler(注a) Liebeslied(1905年出版)(注b) 38:03 お馴染みの名曲。

(注a)フリッツ・クライスラー(1875〜1962年)。「オーストリア出身の世界的ヴァイオリニスト、作曲家である。後にフランスを経てアメリカ国籍となった。ユダヤ系。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC
(注b)愛の悲しみ、「愛の喜び」(Liebesfreud) と1対になる曲で、さらに「美しきロスマリン」(Schon Rosmarin) を加えて3部作「ウィーン古典舞曲集」(Alt-Wiener Tanzweisen) とされる。一見簡単な演奏でありながら、独特の情感を発揮させるなど、ヴァイオリニストには必携の演目である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E3%81%AE%E6%82%B2%E3%81%97%E3%81%BF

Messiaen(注a) Quatour pour la fin du temps - Louange a l'eternite de Jesu(1940年)(注b) 41:12 佳曲。

(注a)オリヴィエ=ウジェーヌ=プロスペール=シャルル・メシアン(1908〜92年)。「フランス・・・の現代音楽の作曲家、オルガン奏者、ピアニスト、音楽教育者である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%B3
(注b)イエスの永遠性への賛歌。「第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜となり、・・・収容所に収容されていたときに作曲された<ところの、>・・・『ヨハネの黙示録』10章に基づく・・・四重奏曲」中の第5曲。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E3%81%AE%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2

(続く)
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           --ものすごいことが起こっている--

1 始めに

 もう14年以上も前になります。
 当時、私は仙台防衛施設局長・・現在の東北防衛局長・・をしていたのですが、2001年の3月に辞職し、民主党の候補者として、参院選に比例区から出馬することにしました。(自民党の小泉ブームもあって、見事に落選するのですが・・。)
 その後、事前運動で一度仙台を訪れ、また、7月の選挙運動期間中に、再度仙台を訪れて、この医学部ともご縁の深い櫻井充参議院議員
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BA%95%E5%85%85
と一緒に仙台市内で選挙演説を行ってからというもの、仙台を含め、宮城県以北には一度も足を踏み入れたことがなかったこともあり、東京のオフ会で二度お目にかかったことがある、この医学部の私のコラム読者の教官に無理をお願いして、こういう会で話をする機会を作っていただき、本日参上した次第です。
 おかげさまで、大変懐かしい思いがしております。

 では、さっそく、本日の話題に入ることにします。
 私のコラムを読んだことのない方のために、お断りしなければならないのが、支那/中共表記についてです。
 簡単に言えば、地名と国名(略称)は区別する必要がある、ということです。
 私は、例えば、大陸の呼称として「アメリカ」を使い、アメリカ合衆国・・より正確にはアメリカ合州国ですが・・の略称としては「米国」を使っていますが、それと同じことです。
 「中国」を使えないのは、中華民国があるからです。
 現在の中華民国については、「台湾」を使っていますが・・。

2 中共のこのところの対日軍事攻勢

 さて、本日の私のお話のタイトルに掲げた、「ものすごいこと」というのは、要するに、トウ小平が権力を掌握したことを契機に、中共当局が、明治維新以来ずっと支那にとって近代化の恩師であり続けた日本を、ナショナリズム、ファシズム、共産主義等でもって出し抜くことを最終的に諦め、人間主義(じんかんしゅぎ)を核心とする日本文明を全面的に継受する戦略を採り始めて現在に至っており、尖閣問題等を巡る対日攻勢は、その最終フェーズの一環である、ということです。
 私は、防衛庁(現防衛省)に勤務していたこともあり、選挙に出る以前から、日本が米国の属国状態であることに強い危機感を抱いており、第二の人生は日本の「独立」・・鍵括弧を付けることにしています・・に捧げようと思い立ち、現在に至っているのですが、中共もまた、この私とほぼ同じ問題意識に立って、このような対日戦略をとっていることに、2年前に気付いたのです。
 それ以来、この話をすると、文科系の人は一笑に付すことが多いのに対し、理科系の人には理解を示す人が多い、という印象があるのですが、本日は、会場が医学部、ということもあり、理科系の方の方が多いはずだ、と勝手に心強く思っている次第です。

 具体的な話に入りましょう。
 中共は、天安門事件を契機に、日本の政治体制の継受については先送りして経済体制の継受に専念して現在に至っているところ、習近平体制になってから、いよいよ、日本の政治体制の継受を目指すこととし、そのためには、まず、日本を米国から「独立」させることが必要であるところ、その目的のために、尖閣諸島の領有権問題等で日本を政治的軍事的に挑発することによって、集団的自衛権の全面的解禁を含むところの、日本の軍事態勢の強化を図ろうとしている、と私は見ている次第です。
 (人間主義とか、日本の政治体制ないし経済体制(コラム#40、42、43参照)、といった基本的な概念については、質疑応答の時にでも、ごく簡単な説明をしようと思っています。)
 最後の点からですが、安倍政権は、集団的自衛権行使の部分的解除に踏み切ったわけであり、早くも習近平は一定の成功を収めたところです。
 同政権がそうするとの意思決定を行った時点で、早くも、習は、それまで会うことを拒んでいた安倍首相と会ったのを見て、私は自分の仮説が裏付けられた思いがしました。

 (参考)●憲法解釈を変更する閣議決定:2014年7月1日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%AE%89%E5%85%A8%E6%B3%95%E5%88%B6
     ●安倍・習近平会談:2014年11月10日(APEC首脳会議の折北京にて)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/c_m1/cn/page3_000999.html

 どうして、私が、以上申し上げたような中共の対日戦略に気付いたかですが、その最初のきっかけになったのは、2012年9月に野田前政権が尖閣諸島の魚釣島を含む3島を国有化した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6
ことに中共がイチャモンをつけてきたことです。
 ご記憶のように、当時の石原慎太郎東京都知事が、都がこの3島を購入するという構想をぶち上げたものの、資金確保の目途がたたない一方、当時の3島所有者が中共の息のかかった第三者に売却する可能性すらあったことから、仕方なく野田政権が、3島国有化に向けて動いたところ、そのあたりの事情は、中共当局は十分把握できていたはずなのにイチャモンをつけ、その後、海警の艦船や軍用機等を使って尖閣諸島付近の日本の経済水域内で挑発活動を始めたわけです。
 (しかも、最近の証言によれば、「野田政権<は、事前に>・・・中国側に・・・「都が買って好き放題されるよりも、国がしっかり安定的に維持・管理する方が穏当ではないか」と説明した」(コラム#7843)のだという。)

 こんな危険なことをやり始めたことで、私は、これは、何か魂胆があるな、と思ったのです。
 「危険なこと」というのはどういう意味かをご説明します。
 当時、「元外交官で防衛大学教授をつとめた孫崎享は、・・・日中軍事力の比較では、中共の方が圧倒的に優位にあるため、仮に日中がこの尖閣諸島問題で軍事的に衝突した場合、日本は必ず敗北すると自著その他で訴え」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C
ていますが、こういう軍事音痴・・戦前の日本においてすら日本の外交官は軍事音痴気味でしたが、戦後はその比ではありません。これは不幸なことだと言わなければなりません。防衛省に出向している外交官も常にいるけれど、少なくとも私がいた頃(当時は防衛庁)は、外交官は軍事の実態を知ることができるポストからは排除されていましたし、防衛大学校で教授をしていたって、現役/OBの自衛官たる教官等、しかも、機密に携わるポストに就いていたことがある者、とよほど親しくならない限り、(実は肝心な部分は公開されることはない)軍事の実態に関する情報に接することがはできません・・による頓珍漢な発言が続出するであろうことも、中共当局のヨミ通りだったはずです。
 ところが、実態は正反対なのであって、これは、中共側にとって余りにもリスクの大きい動きだったのです。
 まず、中共の軍人の錬度が高くありません。
 戦闘機操縦士を例にとりましょう。
 2001年4月に海南島付近の海上で、中共の戦闘機が米国の偵察機に衝突し、戦闘機は墜落して操縦士は死亡し、米軍機は小破して中共内の飛行場に不時着するという事件が起きました。
 昨年8月には、南シナ海上で同じようなシチュエーションで、戦闘機があわや衝突かという10mの距離まで接近しています。
 9月15日にも、黄海上でやはり同じようなシチュエーションで、戦闘機が異常接近しています。(コラム#7929)
 この3件については、米軍機側が武装していなかったので、偶発的に交戦状態が発生することはまずありえなかったわけですが、尖閣の領空付近に中共の戦闘機が現れた場合、自衛隊の戦闘機が2機、対領空侵犯措置でこの戦闘機と対峙することになる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%98%E7%A9%BA%E4%BE%B5%E7%8A%AF
ところ、自衛隊機側の警告射撃に中共側がパニックに陥り、攻撃してしまう可能性なしとせず、そうなれば、自衛隊機側も反撃せざるをえず、交戦状態となり、その結果は、日本側のレーダーサイトの能力が高く、(必要に応じ、早期警戒管制機、早期警戒機も飛ばすことで、)相手側の位置情報等を、早い時点から的確に掴んでいることもあり、
http://www.recordchina.co.jp/a106216.html
十中八九、中共側の被弾、撃墜でしょう。
 自衛隊員の、戦闘機操縦士を含む錬度の高さは、国際的に定評があるところです。
 (海空自衛隊の精強さについては、中共当局自身が認めています。(コラム#7956))
 こんな成り行きになれば、中共当局の権威失墜は甚だしく、当局は窮地に陥ること必定です。
 (このことも、中共当局が、事実上認めてしまいました。
 「中国人民解放軍の上将で、習近平国家主席の側近として知られる国防大学政治委員の劉亜州氏が・・・尖閣諸島・・・海域で中国が日本と武力衝突すれば、「中国は勝つ以外に選択肢はなく、退路はない」と強調した。さらに「敗北すれば、国際問題が国内問題になる可能性がある」とし、現在の共産党一党独裁体制を揺るがす事態に発展しかねないとの危機感を示した。」(コラム#7987))

 とにかく、習近平は、そんな「危険なこと」である対日軍事挑発を行ってまでして、日本を再軍備させ、「独立」させようとしている、ということです。
 (あまりに「危険」であるため、矛先を南シナ海という、基本的に自衛隊の戦闘機の行動半径外の場所なので「「安全」である南シナ海の南沙諸島に<転じて>手を出してきた、と<私は>見ているわけです。」(コラム$7799)

 フィリピンがこれに危機感を抱き、「日比が初めて共同演習を(南シナ海で)敢行した。
 (習ちゃん、泣いて喜んでるだろ。予想通り、米国に代わって東アジアの海上を取り仕切ろうと日本が乗り出してくれたってね。」(コラム#7661)
 「「フィリピンのアキノ大統領は…自衛隊が将来、南シナ海で活動する場合を想定し、給油などのために自衛隊がフィリピン軍の基地を使うことを認める「訪問軍協定」の締結に向けた議論を始めたい意向を示した。…」・・・
 ひょっとして、瓢箪から駒、で実現しちゃうかもしれないが、その暁には、日本との不慮の軍事衝突を避けるため、習ちゃん、日本「独立」化戦略の機軸を、更に、南シナ海からインド洋へと移す可能性が出てくるかもね。」(コラム#7709)

3 その背景

 (1)前史

  ア 支日及び支米関係の原点

 「最初に、清国の初代駐日公使の何如璋(He Ruzhang、1838〜1891年)・・・と共に、書記官として1877年に来日し、1882年まで日本に在勤した、黄遵憲(Huang Tsun-hsien、1848〜1905年)を取り上げたいと思います。・・・
 「・・・来日当初、黄遵憲は日本文化がただ中華文化の末流だという認識を持っていたが、日本に滞在する日が長くなるにつれて、日本の伝統文化の美を発見することができた。彼は、日本人の自然を愛する心、清潔を好む習慣を身近に感じ取ることができた。彼はこれを安定した社会、穏和な民心と関連して考えた。黄遵憲はこのような日本の社会、民風を理想的な桃源郷と見なしていた。この点において、黄遵憲はたえず自国での経験と比較しながら、彼の日本理解を確立したのである。絶えず動乱にさらされている母国では、民心も乱れていて、中国文人のたえず求めつつある理想中にある桃源郷は程遠い存在となっている。日本での桃源郷発見は、大いに詩人黄遵憲の心を慰めた。彼は一連の日本讃美の詩文を書き残し、自国民に彼の日本文化発見を示した。」・・・
 「当時日本ではロシアの南下に極めて警戒感を持っており、朝鮮がロシアの影響下に入ることを極度に恐れていた。こうした意見に感化され、黄遵憲たちは日本よりもロシアへの警戒を募らせていったのである。・・・
 貧しく質素であっても庭木を愛する素朴な庶民、客が訪ねくれば細やかな気配りをする妻女、そして積極的に海外のことを知ろうとする日本人の好奇心など、黄遵憲は日本の美点を素直に認め賞賛している。特に彼が愛した日本の風習は桜の花見であった・・・
 <その黄は、>1882年・・・、サンフランシスコ総領事へと転任し、日本を離れた。・・・
 在米華僑問題への思い<について、黄は、>初代大統領ジョージ・ワシントンが万国と国交を持ち、いかなる民族も平等に住むことができると宣言してより百年も経たないのに、今のアメリカ政府はその言葉に背いても恥としない、と述べており、自由・平等を国是とするアメリカにおいてなされる非人道的な行為に黄遵憲が怒りを覚えていたことがうかがえる。
 3年後黄遵憲は一旦帰国し、『日本国志』・・・の完成に専念した。
 『日本国志』が一応の完成を見たのは1887年・・・である。作った四部のうち一部を手元に留め、のこりは総理衙門や李鴻章、張之洞に提出した。・・・印刷<され>たのは1895年・・・である。時あたかも日清戦争の敗戦後であって、明治日本の情報が渇望されていた時期であった。この書によって日本及び明治維新がどういうものであったか<が清で>広く知られるようになったのである。・・・
 この『日本国志』は・・・中国における明治維新観を決定づけたばかりか、それに範を取った改革、戊戌変法を推進する原動力の一つともなった・・・。戊戌変法を推進した康有為・梁啓超ら変法派は改革案の立案に際しこの書から着想を得ている。・・・
 黄遵憲について語られるとき、ほとんど必ず「愛国者」と「日中友好を唱えた人」といった類のことばがついてくる。近代の日中関係史を紐解くとき、この二つがなかなか両立しがたいことに気付くが、彼には違和感なくこれらのことばが同居する。・・・黄遵憲は、日中が手を結び、共に西欧列強に対抗することを夢見ていたのである。・・・
 注目すべきは、四点です。
 すなわち、黄が、一、<ロシア脅威論>を当時の日本人と共有するに至っていたこと、二、米国(ひいては欧米)に嫌悪感を抱くに至っていたこと、後半生を、三、支那による日本文明の継受、そして、その上での、四、日支両国の提携、に捧げたことです。・・・
 また、支那と米国との関係の初期が、(日本と米国との関係の初期とは大違いで、)かくも<支那にとって>屈辱的なものであったことが、潜在的に、その後の支那人の米国観を規定して現在に至っている、と我々は考えるべきでしょう。)」(コラム#6789)

  イ 支那人が米国を嫌悪する理由(補足)

 「「支那人達が白塗りの教会群の中でイエスに祈り、ジェファーソン的諸原則を町役場内での諸集会で議論する。」
 <そして、>全東アジアが欧米化され、キリスト教化される。
 すなわち、「教育を受けた支那人は、英語をしゃべり、新しい人になる。彼は考えることを始める」、と恥知らずにも、1895年に、駐支米公使のリチャード・オルニー(Richard Olney)は、米国務長官に宛てて記した。・・・
 <彼は、>「宣教師達は、貿易と商業のパイオニア達だ。文明、学習、指示が、商業が提供するところの、新しい諸欲求(wants)を繁殖させる」と<も>記し<ている>。・・・」・・・

 このような経験がある以上、中共が、権力奪取以来、諸宗教、とりわけ、カトリシズムとプロテスタンティズム<、すなわち、キリスト教、>を敵視し、厳しい統制下に置いているのは当然ですね。(太田)・・・

 支那貿易にはお茶も絹もあった。
 それはその通りだ。
 しかし、最大の儲けは阿片だった。
 それは支那では違法だったが、いかなる非合法ドラッグ類と同じく、それは無茶苦茶に儲かった。
 英国人達は最大のプレイヤー達だったが、米国人達だって大きなプレイヤー達だったのだ。・・・
 フランクリン・デラノ・ローズベルトの祖父のウォレン・デラノ(Warren Delano)は、一家の財産を阿片を支那に搬入することで築いた。・・・
 <つまり、>米国人達は、支那に、精神的阿片であるキリスト教(プロテスタンティズム)と肉体的阿片である阿片そのもの、とをセット販売して大儲けをしていた、ということです。(太田)」(コラム#7807)

 (2)謀略こそ中国共産党の命

 「蒋介石は、師匠の孫文とは違って日本に対しては宥和的であり・・・、敵は共産党であるとの認識を持っており、対共産党戦に全力を傾けていました。・・・その蒋介石が共産党との戦いの督戦のために西安・・・を訪れた際、既に共産党とよしみを通じていた張学良・・・によって監禁され、国共合作を行い、国共両党が一体となって対日戦争にあたるよう迫られます。1936年のいわゆる西安事件(事変)です。・・・この第二次国共合作によって、壊滅寸前だった共産党は息を吹き返し・・・翌1937年、支那側、とりわけ共産党の主導で日華事変の火ぶたが切って落とされるのです。・・・
 白話(口語)文学の提唱者で、当時の支那の最高の知識人の一人であった胡適(1891〜1962年)は、「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家<、というより、蒋介石政権(太田)、>に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べている」(コラム#178) 

 そもそも、支那には、「武力に訴えず戦わずして勝つこと」を最重視する孫子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)
の伝統がある上に、中国共産党は、マルクス主義/スターリニズムの謀略性をも身に着けているのですからね。

 (3)毛沢東は日本大好き人間

  ア 青年毛沢東

 「「中学入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧月性の詩「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した。・・・
 ・・・1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。後に毛沢東は米国記者エドガー・スノーに日露戦争当時の日本の歌詞を紹介し、・・・当時わたしは日本の美を知り、感じとり、このロシアに対する勝利の歌に日本の誇りと力を感じたのです<、と伝えている>。」(コラム#7820)
 「<毛は、>北京大学の聴講生時代に共産主義者となる。・・・
 <支那>における最初期共産主義者の陳独秀(1879〜1942年)は成城学校(現、成城中学・高等学校)に留学、・・・その友人の李大ショウ(1888〜1927年)は早稲田大学に留学しているところ、李は日本留学中に共産主義思想に感化されており、・・・毛が北京大学の司書補であった時、李は上司の図書館長だった。
 <毛>は、「ソ連の筋金入りのスターリン主義者ですら呆れるほどのスターリン的恐怖政治を最初から行っていた」」(コラム#7177)

 「中国語の中で、日本語から来た外来語の数は、驚くほどの数字で、現在我々が使用している社会とか人文・科学方面の名詞、術語の70%<・・出現頻度?(引用者)・・>は日本から輸入したものである。これらの言葉は西洋の言葉を日本人が翻訳して、その後中国に入って、中国語の中に根付いたものである」と書かれている。論文の最後には、「最後に私は言いたい。我々が使っている西洋の概念は、基本的に日本人が我々に代わって翻訳してくれたものだ。中国と西洋の間は、永遠に日本が横たわっているのだ」(王彬彬「現代漢語中的日語"外来語"問題」(漢語論文))
http://www.catv296.ne.jp/~t-homma/dd040912.htm (から孫引き)
 このことをご存知の方は少なくないと思います。

 「『共産党宣言』は、・・・<発禁とされたため、>戦前の日本では殆んど読むことができなかったが、支那では、最初の日本語訳(英訳からの重訳)が漢語に訳されて読まれた。・・・『資本論』は・・・日本では日本語訳が、また、支那でも日本語訳が漢語に訳されたものが、読まれた。・・・
 しかし、・・・各種日本語訳はことごとく悪訳なるが故に難解になってしまっているとの指摘を踏まえれば、それらを更に漢語訳したものしか、戦前の支那にはなかったのではないかと思われるところ、中国共産党の創建者達が、『資本論』を理解するどころか、読破したことさえ想像するのは困難だ。
(そうだとすれば、例えば、毛沢東が、共産主義思想家であるどころか、まともな共産主義者であったことさえ、疑ってかかった方がよい。
 彼は、少なくとも『資本論』共産主義者ではなく、せいぜい『共産党宣言』共産主義者だったのではなかろうか。)」(コラム#7574)

  イ 日本軍との「協力」

 「<日華事変当時、>毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。・・・毛沢東は延安で、日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだ。
 毛沢東は裏で日本軍と手を結び、蒋介石と日本を戦わせて漁夫の利を得ていた。延安で八路軍が栽培していたアヘンの販売で日本軍と結託していた。また積極的に占領区内の日本軍と商売を行い、晋西北の各県は日本製品であふれていた。中共指導者と日本派遣軍最高司令部の間で長期間連携を保っていた。毛沢東の代理人は、南京の岡村寧次大将総本部隷属の人物であった。」(コラム#7572)
 「<日本敗戦直後、>毛は・・・「たとえ、われわれがすべての根拠地を喪失したとしても、東北(<旧>満洲<国>)さえあれば、それをもって中国革命の基礎を築くことができるのだ」と述べた。・・・」(コラム#7820)
 「1964年7月、日本社会党の佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は<支那>に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで<支那>人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と返した。・・・」(コラム#7177)
 「1970年代に国務院副総理陳永貴が日<支>戦争のとき「漢奸」だったと告白した際、毛沢東はそれを一笑に付して、「日本人はわが救命恩人だ。命の恩人の手伝いをし、漢奸になったということは、つまりわたしに忠誠を尽くしたということだ」と言った。」(コラム#7820)

 「中共軍が、朝鮮戦争の時に、米軍と互角に近く渡り合えたのは、人海戦術によるとはいえ、制空権を完全に米軍側に奪われなかった・・・からだが、その中共空軍を事実上創建したのは、先の大戦の終戦後に捕虜になった林弥一郎陸軍少佐以下約300名の日本軍人達であり、・・・彼らが日本軍が満州に残した日本軍機を用い、訓練や航空機整備を行った(・・<中共>空軍が正式に創設されたのは、1949年11月・・)ものである」(コラム#7952)

 1955年4月に開催されたアジア・アフリカ会議(いわゆるバンドン会議)に、当時、中共と敵対関係にあった台湾と韓国は招待されず、また、ソ連の事実上の保護国であった北朝鮮とモンゴルが招待されなかったのに、日本の招待には中共が反対しなかったこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BC%9A%E8%AD%B0
も銘記されるべきでしょう。(コラム#7820参照)

  ウ 政権奪取後の教育重視
 
 「毛沢東の教育政策についてだが、彼が教育を重視したことは、中共における識字率の向上だけからも見て取ることができる。↓

中共  1949年20%、1970年52.9%、2006年93.0%
インド          33.1     65.2
 ・・・
 しかし、これだけで、毛沢東ないし中共の教育政策は(その限りにおける)日本化であった、と断定するのは早計と言うものだ。
 というのは、・・・ソ連崩壊までソ連の保護国であったモンゴルの識字率も高い・・・からだ。
 つまり、毛沢東の教育政策は、彼が一応スターリン主義者たることを標榜していた以上、ソ連譲りのものであった可能性も排除できないわけだ。
 そこで、・・・以下、青年毛沢東の教育観がどのように形成されたのか、<を通じてこれ>を解明することにしたい。・・・
 <日本化である最大の根拠は、青年毛沢東の日本の教育への強い関心だ。>
 「毛沢東は、自分が教師に向いていると思い、日本留学経験のある校長孔昭綬の下で、湖南第一師範学校に学んだ。
 卒業後に、「半植民地国家に陥った<支那>が西欧列強に対抗するため、強い国民の必要を感じ、日本などの軍国民教育思想に啓発されて<始まった>体育重視の思潮<の影響下で書かれた>毛澤東の「体育之研究」<は、支那>の「近代史上において体育理論について全面的に論じた最初の著作」と評価されている。・・・
 <また、>新文化運動の最中<の>・・・1919年・・・に武者小路実篤らが実践していた「新しき村」の消息が<支那>に伝わった。みずからの労働によってみずからの生活を支えたうえで、自由を楽しみ、個性を生かせる生活を全うすることをめざした「新しき村」の精神と実践に毛澤東は憧れを抱いた。生徒の個性の束縛や学校教育と社会とが遊離している状況などについて批判的精神を持っていた毛澤東は、1919年12月「学生之工作」を書いて工読思想についての構想を次のように述べた。新しき村を作り、そこで新しい家庭、新しい学校、および新しい社会を一体とする新しい生活を営む。新しい生活とは、生産的実際的農村の活動である。その中での新しい教育は新しい家庭、新しい社会の創造と関連すべきであり、新しい生活の創造に重点をおく、と毛澤東は述べた。毛澤東は現状の学校教育の非生産的、非実際生活的、読書人は都会をめざして農村をきらうといった弊害を批判し、農村を嫌う読書人を農村に行かせ、直接に生産に従事させ、現在の社会に必要とされる製品を生産させる。同時に地方自治の中堅としての役割、現代の選挙制度の指導監督者としての役割を読書人が果たすことを提案したのである。」・・・
 <日本化であるという>もう一つの根拠は、満州国における初等教育就学率の向上だ。
 1932年の17%が、1941年には40%まで向上している。・・・
 満州を拠点にして蒋介石政権を打倒した毛沢東として、少なくとも、満州国が達成できたものを、全国ベースで後退させるわけにはいかなかった、と見るべきではないか。

 <日本化であるという>最後の根拠は、毛による郭沫若(Guo Moruo、1892〜1978年)の重用だ。
 郭の経歴は、「岡山の第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業。・・・戦後は中華人民共和国に参画して政務院副総理、中国科学院院長に就任。1950年全国文学芸術連合会主席、1954年全人代常務副委員長。1958年共産党に入党。1963年中日友好協会名誉会長。」・・・という輝かしいものであり、日本で高等教育を受け、日本人女性との間にも5人の子をなした郭に、初期<の>中共において、理系の学問の公的元締め、文系の学問の事実上の元締めをさせたのだから、毛の、日本傾倒ぶり、ひいては、高等教育以下、全ての教育において、日本を参考にしようという思い、が感じられる。」(コラム#7940)

 ちなみに、ノーベル経済学賞受賞者であるアマルティア・センは、毛沢東が、日本の教育政策と医療政策を中共に移入した、という趣旨のことを指摘しています。(コラム#7940参照)

  エ 文化大革命

 「私の仮説は、中国共産党による全国統一後、10数年が経過しても、<支那人民の、魯迅言うところの阿Q的>状況に基本的変化が見られず、自分がやらせた、スターリン主義に基づく大躍進政策(1958〜61年)の惨めな失敗・・・もあって、衰えた自分の権威・権力についての焦燥感、及び、劉少奇とトウ小平らが着手し始めたところの、支那の再「商業経済」化が人民の非人間主義性を一層募らせることへの強い懸念、に基づき、毛沢東は文化大革命・・・を1966年に発動(〜1976年)し、劉少奇・トウ小らからなる既存の階統制を破壊し、自らの権威・権力の回復、及び、中共全体を<上出の>「新しき村」化することによって、人民の総人間主義化、すなわち、日本人化、を達成<する形で共産主義社会を再構築>しようとした、というものだ。・・・
 しかし、毛は、自らの権威・権力の回復こそ一応達成したものの、人民の人間主義化<、ひいては共産主義社会の再構築>には完全に失敗した。」(コラム#7944)

  オ 米中交流

 挫折した毛が、起死回生のために行ったのが、スターリンの死後対立関係に入ったソ連に対する抑止もさることながら、対日国交回復をむしろ最大の狙いとした米中交流でした。

 「中共の、対日、対米国交回復がらみの簡単な年表を作ってみました。
 <便宜上、毛沢東死去後にまでわたっています。>

1969年:中ソ間に戦争勃発機運漲る。毛沢東、四将官に対ソ戦略を諮問。
    7〜8月、ニクソン大統領が、パキスタン、ルーマニア訪問時に、中共指導者
   との交流を希望している、とそれぞれの政府から中共政府に伝言してもらった。
1970年:1月、米中ワルシャワ大使級会談が再開され、別のチャネルの会談の必要性を
   中共側が示唆。
    12月、パキスタン経由で周恩来から特使派遣を希望する旨の伝言が米国政府に
   あった。
1971年:1月、ルーマニア政府経由で大統領訪中を希望する旨の伝言があった。
    7月、キッシンジャー、中共訪問。・・・
1972年:2月、ニクソン大統領、中共訪問。
    9月、田中角栄首相、中共を訪問し、日中は国交を樹立。
    10月、中共、西独と国交を樹立。
1973年:3月に、(1968年に文革で失権していた)トウ、周恩来の引きで復権。
    (現駐日大使の)中共外務省員の程永華、日本留学(和光大学)。
    12月にトウ、「毛沢東の指示<で、>・・・党中央委員会副主席、中央軍事委
   員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括」
1974年:「新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る」
1975年:創価大学に留学先を変更。・・・
1976年:1月に、周恩来死去。
    4月に、トウ、再び失権。
    9月に、毛沢東死去。
1977年:トウ、最終的復権を果たす。・・・
1978年:トウ、学生、学者の大量外国留学を開始。・・・
    10月、トウは、「日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、中国の指導者としては初めて昭和天皇と会見したほか、千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察を精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。この訪日で小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された。・・・
    11月:農村における生産責任制導入が開始される。・・・
1979年:1月、米カーター政権、中共と国交樹立。トウ、初「訪米。首都ワシントンDCで大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。」・・・
    トウ、21世紀半ばまでの経済高度成長計画を提唱。・・・
   :日本、対中ODA開始。・・・
1980年:以降、経済特区設置開始。・・・

 <で、>私のコメント<は以下の通りです。>
 米<・>日<・>西独の中共との国交樹立が、他の西側主要国とは違って遅れていた・・・のは、安全保障を米国に依存していた日<・>西独両国が、対中政策において米国に追随せざるをえなかったからであり、当然、中共当局もそう考えていました。
 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、と中共当局は、(対ソ抑止の観点もあり、)米大統領に中共訪問をさせることにし、それに成功します。
 それに引き続き、同年中に、中共は、米国との国交樹立をさておいて、というか、もともと、それは容易に実現しないと踏んでいたと思いますが、日本、西独と立て続けに国交樹立を果たしたことが、中共当局の狙いがどこにあったのかを物語っています。
 では、「将」は、日本だったのでしょうか、西独だったのでしょうか、それとも日西独の両国だったのでしょうか。
 下掲は、両国だったことを裏付けるもののようにも<一見>思われます。↓
 「1972年夏、中国指導部は日本・西独との国交正常化を急いでいた。「現在、我が国は日本とも西独とも国交を樹立する可能性があるが、もし先に西独と国交を樹立すれば日本に影響を及ぼすだろうし、先に日本と国交を樹立すれば西独に影響を及ぼすだろう」(周恩来がボン駐在の新華社記者王殊に語った言葉)。周恩来は日本と西独を競わせて、この両国との国交正常化を実現しようとしていたのだ。」・・・
 しかし、「将」が日本であったことは、まず、上掲の年表に掲げた、トウ小平による、一連の対外政策が裏付けています。
 すなわち、まず、トウの最初の西側外遊先が日本であったことです。
 米国はその翌年に訪問していますが、ちょっと調べた範囲では、彼が西独を訪問した形跡はありません。
 また、政府留学生派遣も技術導入も資金導入も、ことごとく日本が先鞭を付けています。
 (西独への政府留学生派遣時期については調べられませんでしたが・・。)
 次に、貿易の数字が裏付けています。
 当時の中共は、西側諸国から機械、穀物を輸入する必要に迫られていたのですが、米、西独に対する日本の比重は圧倒的です。↓

輸入:1978年 日23.4%、香港13.3%、西独6.6%、米4.8%
   1988年 香港29.4% 日18.5%、米9.7%、西独4.8%・・・

 最後に、証言もあります。
 2014年11月に、元中共外務省員(1992〜97年)の楊恒均(Yang Hengjun。1965年〜)<によるものです。(コラム#7952)>」(コラム#7938)

 (4)トウ小平も日本大好き人間に

  ア 日本文明の継受(日本型政治経済体制/人間主義 の継受)
     
 「時期的に、文革で失権していたトウが復権した直後の1973年に行われたところの、<中共の現在の駐日大使の>程永華らの日本留学は、既に文化大革命の失敗を自覚していたところの、毛沢東の指示・・過激なスターリン主義は中共の政治経済の発展をもたらさず、新しき村主義は中共人民の人間主義化をもたらさなかった以上、<共産主義でもって、>先生である日本を出し抜き先回りしようとするのは諦め、日本化することによって日本に追いつくことを目指せ、ついては、その具体的方策を、(人間主義化の方策を含め、)直接日本に行って探ってこい、といった・・に基づいたものであった、と私は見るに至っている。
 (「新しき村」については、個人主義的である・・・ので、人間主義社会ではなく人間主義的社会を目指すものであり、だからこそ、その大部分が人間主義者である日本人によって構成される日本では賛同者が増えなかった、ということにまで自分は思い至らなかった、と毛は猛省した、と私は想像を逞しくしている。)」(コラム#7948)

 「程永華(1954年〜)が、「1973年、外交官研修のため中国外務省から派遣され、日中国交正常化後初の中国人留学生として来日。当初、中国人の国立大学への入学が認められなかったため和光大学で2年間学ぶ。しかし、和光大学の体制に問題があった<ということに一応なっているところ>、1975年から・・・創価大学に正式に留学して学」んだ・・・ことは、当時の中共当局が、日本の満州経営が黒幕たる<田中智学率いる国柱会の会員であった>石原莞爾の日蓮由来の人間主義に基づいて行われたことに既に注目していて、人間主義の何たるかを学ぶために、程を創価大学に送り込んだ可能性がある、と<私は>考えるに至っている。
 一旦、和光大学に入学させた上で、しかも、創価大学という、日蓮宗系の大学としては、立正大学・・・と違って、日蓮どころか、仏教関係の学部学科すらない大学・・・で学ばせたのは、かかる意図をカムフラージュするためだったと見たらどう<だろう>か」(コラム#7625)

  イ 日本型政治経済体制の継受の先行

   ・総論

 「しかし、結局、トウは、毛が死去したこともあり、毛の指示には従いつつも、実行が容易な、経済・政治面での日本化の推進を先行させ、容易ではない人間主義化は後回しにすることにした、と私は見ている。
 そのトウは、1978年に直接日本を訪問している。
 その時、トウは、「様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」・・・また、・・・「日本と中国が組めば何でもできる」という・・・発言を・・・残してもいる。訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いたとき、小平は電気ショックを受けたように立ちつくした。大使館に帰ると「今日はすごい経験をした」と興奮気味に話したと<も>いう。」・・・
 これらの談話を私は額面通りに受け止めている。
 最初の談話は、日本化、そして、次の談話は、日本化がある程度進捗したら日本と事実上の同盟関係に入ること、を宣言したものであり、最後の談話は、これも想像を逞しくすれば、日本が支那や欧米等に比べて平和でしかも温故知新的な発展をしてくることを可能にしたものこそ天皇制であったこと、この天皇制が歴代の天皇の大変な努力の下に維持されてきたこと、その典型例が昭和天皇であること、だから、自分は昭和天皇を尊敬していること、を毛沢東から聞かされていたトウが、その当人に面会する機会を得、毛の昭和天皇評が当たっていたことを確認できたことに興奮したということだろう、と思うのだ。」(コラム#7948)

   ・日本型経済体制の継受

 表記の仮説を思い付いたのは、コラム#4000(2010.5.10)の時点です。

 「トウ小平は、計画経済<に代わって>、エージェンシー関係の重層構造を主、市場を従とする日本型経済体制の継受を決めた、と私は見ている」(コラム#7582)

 「一、<農村における>生産責任制は、「決死」の非合法行為から始まったと<いう神話がありますが>、それが直ちに公認されたことが示しているように、既に中共中央において公認されることが内定していて、それが小崗村の人民公社の共産党委員会にも伝わっていたが故に、非合法行為が黙認された、ということでしょう。
 (そもそもこの制度は、1960年代の大躍進政策の失敗の後に中共中央の支持の下に推進されたことがあり、毛沢東の批判を受けて中止されたという経緯があります。・・・)・・・ 
 爾後、各地の人民公社の共産党委員会の指導の下でこの制度の普及が図られた、と考えられるのです。
 <私は、これ↑は、日本の戦後の農地改革の、逆説的継受(地主所有→耕作者所有、ではなく、集団所有→耕作者所有。但し、支那にはもともと土地私有の観念はなく、土地利用の観念しかない・・であった、と考えています。>
 二、また、郷鎮企業も、その出発点は人民公社内の社隊企業であり、これまた、公社の共産党委員会の指導の下で設置が推進されたはずです。
 <私は、これ↑は、公的性格を帯びた私企業、すなわち、日本的私企業の創出である、と考えています。?
 なお、人民公社が解体された1984年に、<全ての>社隊企業は郷鎮企業となる・・・わけですが、この時、各郷鎮企業に共産党委員会が設置されています。・・・
 <これ↑は、支那は人間主義とは無縁の社会なので、人間主義者同士のエージェンシー関係の重層構造からなる日本の営利・非営利組織の継受にあたって、疑似人間主義者達の集団であるところの、中国共産党員同士のエージェンシー関係の重層構造で代替することにしたのだ、と私は考えています。>
 三、経済特区類が中共当局のコントロール下にあることは、当然です。
 <これ↑は、日本のいわゆる経済の二重構造についても、そのままの形での継受は不可能なので、いわば、日本の垂直的二重構造を地域的二重構造で置き換えることにした、と私は考えています。>」(コラム#6196)

 「二重構造は、日本において、戦前から戦後にかけて一貫して存在してきているわけですが、この構造は、戦後すぐの時に、傾斜生産方式・・・がとられたことによっても強化された、と言えそうです。・・・
 <ちなみに、>日本では、中小企業は、常に、大企業に比して、税制面で優遇されてきた<ところです。>・・・
 中小企業の多くは、昔から人間主義的経営を行ってきており、規模の拡大や利益の拡大より、<日本に世界最古の企業が存在していることに象徴されているように、>匠の継承発展とを伴うところの、企業の永続を追求しており、従業員達も、同じスキルを持っていても、自分達の給与や厚生面が大企業の従業員達に比して見劣りすることをそれほど気にしていません。
 他方、大企業は、日本型経済体制下、垂直統合を追求するよりも、優良中小企業群をエージェントとすることによって、重層構造の下での部品等調達価格の低下や景気変動への柔軟な対処を図ってきたのです。
 <このような背景の下、>露骨な表現を用いれば、日本型経済体制下の日本の、戦前から戦後にかけての高度成長は、大企業による、かかる中小企業群の「収奪」によって可能になった、と言えるでしょう。
 さて、・・・中共当局は、継受した日本型経済体制を運用する際に、中共では人々の大部分が非人間主義的であるため、日本のような二重構造がないし、創り出す術もないので、それに代わるもの・・「収奪」源・・を、別途、創り出す必要に迫られたはずなのです。
 そこで、熟慮した結果、別の原因で峻別されていたところの、都市戸籍と農村戸籍の存在に目を付け、この峻別を維持することで、いわば、二重構造を地域的に創り出し、都市にある大企業の都市戸籍の経営陣が農村戸籍の労働者達を低人件費で働かせて「収奪」できるようにしてきた、と私は見るに至っているのです。」(コラム#7780)

 つまり、中共当局は、まずは、経済特区、次いで、都市戸籍と農村戸籍の峻別、という形で、日本型経済体制における二重構造の継受を行ってきた、と私は考えているのです。
 また、中共当局の国営/国有企業の重視については、以下のように考えています。
 「トウは、改革開放中の開放を先行させ、外国との貿易を活発化するとともに、香港企業等を経済特区に招致し、(次第に拡大する)経済特区内の、中共の企業群に市場における競争感覚を身に着けさせた上で、予定通り、市場経済<化>の推進、及び、国営企業の国有企業化、<の推進>を決めた・・・のです。」(コラム#7582)
 「<改革開放の>第二フェーズは、1990年代初期に始ま<ったところ>、・・・このフェーズでは、政府が、・・・私的企業より国営企業を優遇する形で、はるかに積極的な役割を演じた・・・。」(コラム#3994)
 すなわち、「明治維新後、新政府は江戸幕府や諸藩が経営した造船所や鉱山などの事業を引き継ぐとともに、工部省が中心となって官営模範工場を新たに開設し、日本の近代化、資本主義化を図った<が、>・・・西南戦争後の財政難のため、1880年に「官営工場払下概則」が施行された後に軍事・造幣・通信などを除いた官営工場の多くが整理され、民間に払い下げられた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%96%B6%E6%A8%A1%E7%AF%84%E5%B7%A5%E5%A0%B4
明治日本に比較すると、中共の国営ないし国有企業については、活用度合いが大きく活用期間も長いわけですが、先月、国有企業の株式の一部を民間に開放することによる混合所有制を2020年までに実現する方針が打ち出されたところであり、
http://jp.reuters.com/article/2015/09/13/china-economy-reforms-statefirms-idJPKCN0RD0Y820150913
完全払い下げを行わないのは、この点でも、中共の事情に応じて日本の、国営企業の民営化・民有化、という方向性は継受しつつ、それを柔軟に変更した、ということでしょう。

   ・日本型政治体制の継受

 「村や県、あるいは北京、上海、深<セン>など一部の都市の居<(ママ)>民委員会レベルまでは直接選挙を行い、犯罪者など、参政権を剥奪された者以外の18歳以上のすべての「人民」に選挙権が与えられている。但しそれ以上の行政レベルにおいては「党の指導」による「調整」に基づいた間接選挙となり、基層レベルの立候補者に対しても一定程度の自由があるものの、やはり多少の「調整」が行われる。・・・
 全てを取り仕切っているいるところの、肝心の中国共産党に関しては、基層レベルを含め、一切選挙は行われ<てい>ない」(コラム#6653)

 この選挙制が全国に導入されたのは1981年
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/95-56/hayashi.htm
ですが、これは、1889年の帝国憲法施行に伴って国政レベルで制限選挙制が導入され、1925年に国政レベルで普通選挙が導入されるに先立って、1878年に府県会で制限選挙が導入された、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%81%B8%E6%8C%99
という日本の歴史を踏まえて、その第一弾として、地方レベルで、但し、普通選挙の形で導入されたものであろう、というのが私の見解です。

  ウ 秘匿等のための反日教宣

 「さて、トウは、このような中共の戦略は秘匿しなければならない、と考えたはずだ。
 公然とそんなものを掲げたならば、黄禍論が復活し、米ソ等がよってたかって戦略つぶしに乗り出してくる可能性が大だからだ。
 これだって、トウは、日支戦争/太平洋戦争を、事実上日本と提携しながら蒋介石政権と戦いながら、そのことを、ほぼ同様の理由で秘匿し切った毛のやり口から学んだ、と思われる。
 そのために、トウは、日支戦争/太平洋戦争当時に毛が唱えた日本非難を、そのまま再拝借して行うことにした、と見るわけだ。
 当時、訪中する日本人士が、異口同音、昭和天皇同様、支那に「迷惑をかけて申し訳ない」と頭を下げた、ということもあり、戦前戦中の日本に対する非難を続けても対日関係が決定的に悪化することはない、とも彼は踏んだはずだ。
 こうだとすれば、トウやトウの後継者達が毛沢東崇拝の旗を降ろすことができないのは当たり前だろう。
 彼らは、毛沢東の最晩年の指示内容を拳拳服膺しているだけなのだから・・。」(コラム#7948)

  エ 日本型政治体制継受 の先送り(天安門事件)

 「そこへ、1989年に(第二次)天安門事件が起こり、トウは、(人間主義化だけでなく、)政治経済の日本化の中から、当面、政治も先送りせざるをえない、との方針転換を行<ったと見る>。」(コラム#7948)

  オ 今上天皇の政治利用

 「・・・1992年に実現した天皇の初訪中は、中国にとっては大きな成功例だった。
 当時、中国は1989年の民主化運動を弾圧した天安門事件を受けて、欧米など西側諸国から経済制裁を受けていたが、天皇訪中が「制裁を打ち破る最良の突破口となった」と中国の銭其シン(「シン」は王偏に「深」の右側)元副首相(外交担当)はその後の回顧録で振りかえり、天皇訪中を政治的に利用した事実を認めた。・・・」(コラム#7673)

  カ 日本型官僚制の継受

 「中共では大学・専門学校「卒業後の就職について、1990年代初盤まで「分配(フェンペイ)」という制度があった。学生本人が就職活動をするのではなく、本人の適正や社会の要請にもとづいて、就職先が決められる制度だった」が、1993年に国家公務員採用試験を導入し、1994年に第一回の採用試験が行っている。
 (但し、日本とは違って等級別試験ではないし、また、統一試験の成績に基づいて省庁単位で募集を行う日本とは違って「細かい職位ごとに<試験し、>募集を行う」。・・・
 他方、独仏は基本的に試験を行っていないし、英国は試験でも採用するという制度だし、米国は試験だけの制度ではあっても局長級以上は全て政治任用・・・なので、全く異なる。)
 1995年からは、採用試験方式を地方政府でも採用させた。」(コラム#7948)

 すなわち、中共当局は、日本型経済体制及び日本型政治体制の共通基盤であるところの、日本型官僚制の継受は、行った、というわけです。

 (5)江沢民(「反日」)

 「「江沢民の実父江世俊は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関に協力をしていた。叔父の江世侯(上青)は中国共産党の幹部であったが、嫡男を得ないまま1939年に日中戦争に地元匪賊に殺害された。江沢民は、公式にはこの江世侯の養子ということになっているが、本家の次男である江沢民が、祖父からみて第6子にあたる叔父江世侯の養子となるのは、中国の家族慣行では異例であり、「漢奸の息子」という出自を隠すためと考えられている。1943年に楊州中学卒業後、汪兆銘政権下の南京中央大学に入学し、日本語を専攻する。日中戦争終結後の1945年10月に南京中央大学が上海交通大学と合併したため、江沢民は上海交通大学に転籍し、1947年に卒業した。」・・・
 「江沢民政権<が>1994年に「愛国主義教育実施要綱」を制定し、「抗日戦争勝利50周年」にあたる1995年から、徹底した反日教育を推進していった」ことは、この江沢民の出自「コンプレックス」と無関係とは思われません。」(コラム#6653)

 「トウが1997年に死去すると、中共が、スターリン主義を廃棄し、<日本の>人間主義はまだ継受政策にも着手できていない状態で、トウという権威なしで、どう中国共産党独裁体制を維持するかに苦慮した江沢民政権(〜2003年)は、階統制を至上命題とし、孟子、朱子、王陽明、という人間主義化を掲げる人々を主流派とする儒教を(毛が全面否定したにもかかわらず、)急遽復権させることとした、と見たいのだ。
 そして、儒教的・・実は人間主義的要素を含む・・道徳規範を打ち出す。」(コラム#7948)

 「孟子(BC372?〜289年)は、人は本来的には人間主義者であるとし、修養することで、誰でも、人間主義的人物、ひいては人間主義者になれる、と主張した。
 これは、事実上、孔子の考えの大転換である。
 しかし、「修養」の方法は必ずしも明らかではない。・・・
 朱子(、というか、朱子学、)は、「修養」の方法として、「静坐」と「読書」を示した。・・・
 仏教について、太田コラムを通じて理解を深めてきた読者ならば、これは、儒教の支那仏教<化>、とりわけ禅化、・・・であることに気付くことだろう。
 そして、「静坐」が、念的瞑想であるはずもなく、従って、悟り/人間主義化、をもたらすことなどありえないことも・・。 
 そのような背景の下、王陽明(、というか、陽明学、)のように、「静坐」や「読書」は、ヒマがなく文盲でもある庶民には困難であるところ、あらゆる人が本来的には人間主義者なのだから、知行合一、すなわち、人間(じんかん)的実践を行うことで、人間主義的人物、ひいては人間主義者になれる、と主張する人物(流派)が出現した、ということだ。・・・
 これは、人は本来的には人間主義者であるとの、孟子、朱子(学)の伝統に属しながら、「修養」を否定することで、事実上、この伝統を再転換させた主張だった。
 (それが、孔子への復帰ではないことに注意。)
 (孔子も、そしてまた、(天皇制否定論にもつながりかねないその易姓革命論・・・が邪魔をして)孟子も、流行らなかった日本で、江戸時代に、朱子学や陽明学が流行ったのは、それぞれ、人間主義化追求、人間主義実践唱道、の点で、その大部分が人間主義者たる日本人達が、それぞれ、禅宗、日蓮宗、に覚えたのと類似した親近感を覚えたからこそだろう。)」(コラム#7944)

 (参考)(サマタ瞑想(止瞑想)と念的瞑想(観瞑想=ヴィパッサナー瞑想)

 「「仏教では瞑想を「止」と「観」の二つに大別する。止(サマタ瞑想)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。また観(ヴィパッサナー瞑想)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである。このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。「止」だけでなく「観」を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある。」・・・
 サマタ瞑想的なものは多くの宗教に存在するが、ヴィパッサナー瞑想は仏教にのみ存在する。」(コラム#7625)
 「<現状においては、>チベット仏教<のみが>真正仏教だ・・・。
 (禅宗は、止瞑想(サマタ瞑想)だけしかなく、念的瞑想(観瞑想=ヴィパッサナー瞑想)を欠いている(コラム#7457等参照)のでエセ仏教なの<だ>。)
 但し、浄土宗系(浄土宗、浄土真宗等)は、キリスト教等の他の諸世界宗教にも共通して見られる止瞑想を欠く点では日蓮宗と同じであるものの、日蓮宗のような強い人間主義教宣的教義をも欠いているので、浄土宗系は禅宗よりもはるかにエセ仏教の度合いが強い」(コラム#7867)

 (6)胡錦濤(「親日」)

 胡錦濤政権は、驚くべきことに、日本礼賛キャンペーンを、コラム#3019(2009.1.7)で紹介したところの、「日本の教育制度をベタぼめした香港の新聞記事<の>人民網<日本語版への>・・・転載<記事>」・・ネット配信される人民網記事は人民日報等の記事を転載して作成される・・あたりから開始しました。
 その後、ほぼ毎日にように、日本礼賛記事が人民網に掲載されるようになり、現在に至っています。
 (軽易には、私の過去ツィートを斜め読みすれば、このことが分かります。また、例えば、コラム#7843参照。)
 その背景が想像できるのが下掲です。

 「<トウ小平によって始められた改革開放の>結果、腐敗や汚職だけでなく、売春や麻薬あるいは権力者や金持ちが<妾>を金で囲うという・・・悪弊が社会主義国家、中国に舞い戻ってきた。だから胡錦濤政権は2011年10月に開催された中国共産党第17回中央委員会・・・全体会議・・・において「文化体制改革」・・・をテーマとして精神文化を引き締めようとし<た>。」(コラム#6653)

 「<当時の党内序列1〜3位の>3人が、実際の民主化を殆んど進展させなかった・・・<上、胡錦濤は>「コントロール可能な民主<主義>」、・・・温家宝<は「「本当に人々に属した」・・・民主主義」・・・<、呉邦国は>「多党制の政権交代、三権分立および議院両院制は絶対に実行しない」<、と一見互いに矛盾する発言を行った<のはどうしてか、>・・・「<西側>国際敵対勢力」による西側型政治体制の推奨活動を遮断するために「ネット言論の規制」をした<のはどうしてか>。
 (「多党制の政権交代」の否定は大政翼賛会推奨であり、「三権分立」の否定は議院内閣制の推奨であり、「議院両院制」の否定は、日本型政治体制のほぼ唯一の欠陥である、参議院的な第2院の排斥でしょう。)」(コラム#6657)

 これは、日本型政治体制継受に乗り出すぞ、という、「集団的」宣言だった、というのが私の見立てなのです。

 (7)習近平(「親日・反日」)

 習近平の日本に係る戦略は、人間主義化推進とそのための日本訪問奨励、及び、対日軍事攻勢、の統合失調症的併存を特徴としています。

 思い起こせば、習が引き継いだ「胡錦濤政権(2003〜2013年)は、「・・・2004年以降、・・・世界各国の大学と提携し、語学教育や<支那>文化を海外で普及させる機関である「孔子学院」を設立し<始めた>。
 <そして、>2011年1月11日、天安門広場に隣接する中国国家博物館の改装工事の終了に伴って、その北口に建てられた高さ9.5メートルの孔子像が披露された。・・・
 <ところが、>2011年4月20日にこの孔子像は中国国家博物館の構内に移された。・・・
 この最後の措置は、「2010年10月の第17期5中全会で習は党中央軍事委員会副主席に選出され、胡の後継者としての地位を確立した」習近平・・・の意向ではないか、とこれまた私は想像を逞しくしている。
 日本化戦略の人間主義化部分に本格的に着手することとなる習近平(政権:2013年〜)が自分の政権の人間主義化政策についての誤解を生んだり障害となったりすることを警戒して、孔子・・必ずしも人間主義化を目指したとは言えない・・の神格化を避けたいと考えた、と見るわけだ。」(コラム#7948)

 その習近平が国家主席に就任したのは2013年3月ですが、中国共産党総書記に就任した2012年11月15日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3 
の当日に宣言したのが、腐敗撲滅であり、彼は、爾来、これに徹底的に取り組んできています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Anti-corruption_campaign_in_China
 この宣言を行った2011年時点の腐敗認識指数(Corruption Perceptions Index,=CPI)は、アジアでは、シンガポールがトップの5位、日本が2番目で14位であるのに対し、中共は75位であり、インドの95位こそ上回っているものの、およそ、近代国家にふさわしい水準に達していません。
 (ちなみに、台湾は32位、韓国は43位です。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%90%E6%95%97%E8%AA%8D%E8%AD%98%E6%8C%87%E6%95%B0
https://www.transparency.org/cpi2014/results (←最新の2014年のランキング)
 そこで、都市国家に過ぎないシンガポールはさておき、習が日本を目標にしている可能性は大でしょう。

 また、習近平は、その直後の5月に、今度は、7つの禁句(seven unmentionables)を教えてはならない、との通達を全大学に発しています。
 それは、(一)普遍的価値、(二)報道の自由、(三)公民社会、(四)公民の権利、(五)共産党の歴史上の誤り、(六)権貴資産階級、(七)司法の独立、の7つです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3 前掲
http://www.sankei.com/west/news/130605/wst1306050066-n1.html
 これは、私見では以下を意味しています。
 一は、(人間主義の普遍性など(私以外の)誰も唱えていないこともあり、)共産主義を含む、あらゆるイデオロギー、宗教の普遍性の否定。
 二は、節度ある報道の推奨。
 (「世界報道自由ランキング<で>・・・日本は、2010年まで一桁台の指標が続き世界の中でもトップクラスの順位を誇っていたが、近年の福島第一原発をはじめとした報道の不透明さや政府などから開示される情報量の少なさ、記者クラブ制度の閉鎖性、2013年には政府情報の隠ぺいを可能にしたとも受け取れる特定秘密保護法の制定などから信頼を失墜し、年々指標を下げ続けており、順位も11位から59位まで落としている。・・・先進国の中では特に悪い状態で、G7の中では最下位まで転落した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%A2%83%E3%81%AA%E3%81%8D%E8%A8%98%E8%80%85%E5%9B%A3 )
 三は、直接民主主義の否定。(アテネ/スイス的政治体制否定)
 四は、人権概念の否定。(個別具体的アプローチの推奨)
 五は、中期的には(日本化革命の完遂までの)共産党の指導性の確保、長期的には共産党を中核とする大政翼賛会的体制の確立。
 六は、同上。(別の観点からの念押し。)
 七は、三権分立の否定。(英政治体制肯定・米政治体制否定)
 すなわち、私は、一〜四、及び、七は、人間主義/日本型政治体制のみの擁護、五と六は日本化(人間主義/日本型政治体制化)の指導主体の擁護、をそれぞれ意味する、と考えています。

 尖閣を巡る対日軍事攻勢については既述しました。

 (8)私の個人的経験

   (口述)

4 終わりに

 「日米戦争(1941〜45年)そのものが、ペルシア戦争(BC499〜449年)に譬えられるのではないでしょうか。
 どちらも、その時の、未開文明を体現した世界の超大国によるところの、先進文明を体現した小国・・当時のギリシャは極小国連合だったが・・に対する侵略戦争であったからです。
 どちらの場合も、小国側が驚異的な健闘をしたところ、日米戦争においては不幸にも小国側が敗北し、ペルシア戦争においては幸いにも小国側が勝利した、という正反対の結果に終わりましたがね。」(コラム#7768)

 ペルシャならぬ、米国の属国になってしまい、その精神まで堕落してしまったギリシャならぬ日本を救うべく、新興ローマならぬ中共なる新興支那が、智謀と力の限りを尽くしている、というものすごいスペクタクルが展開しているのを、我々は、今、特等席で目撃しているのです。

<基本概念>

 (1)漢人文明

 (2)欧州文明

 (3)アングロサクソン文明

 (4)米文明

 (5)日本文明
  人間主義
  日本型政治経済体制
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太田述正コラム#7990(2015.10.24)
<仙台オフ会(2015.10.24)次第(その1)>

→非公開