太田述正コラム#7766(2015.7.4)
<現代日本人かく語りき(続)(その1)>(2015.10.19公開)

1 始めに

 今度は、C:學士會会報July Mo.913 2015-IVからの落穂拾いです。

2 小杉泰「過激派再登場の悪夢--中東の「イスラーム国」問題に思う--」(C:34〜37)

 小杉は、アズハル大(イスラーム)1983年卒、京大法博、現在京大院アジア・アフリカ地域研究科教授、という人物です。(上掲)

 「・・・イスラームが確立したのは西暦630年のあたりであるが、それから四半世紀ほどして、最初の分派が生まれた。
 開祖である預言者ムハンマドの時代、その高弟二代が治めていた時代は統一が保たれていたが、三代目のあたりから、イスラームの版図が大きくなったマイナス面が生じた。あまりに急速に拡大したため、異分子も増え、社会統合が困難になったのである。そのため、第四代の後継者アリーの時にとうとう、公然と異を唱える分派が登場したのであった。その名も「出て行く者たち」、アラビア語で「ハワーリジュ派」<(注1)>と言う。

 (注1)「イスラーム教の初期に多数派(のちのスンナ派とシーア派)から政治的理由で分離することで成立した派。・・・
 ハワーリジュ派の起源は、正統カリフ時代の末期に起こったイスラーム共同体内の内戦に遡る。
 この戦争は最終的にイスラム教の開祖ムハンマドの娘婿であるアリーと、地方の実力者であるシリア総督ムアーウィヤの間の戦いに発展するが、両者は657年のスィッフィーンの戦いにおいて妥協を結んだ。この戦争でアリーを正統なカリフと見なす側はムアーウィヤを反逆者とみなしていたが、彼らの中からアリーがムアーウィヤと妥協したことを非難する人々があらわれた。やがて彼らはアリーの居所であるイラクのクーファを退去し、アリー陣営から離脱して独自の政治勢力を形成した。「退去した者」を意味するハワーリジュの呼称はこの事件に由来している。
 翌658年、アリーは自陣営から離脱したハワーリジュ派とナフラワーンで戦ってこれを打ち破ったが、661年にハワーリジュ派の一員によって暗殺された。ムアーウィヤも同時に暗殺しようとしたが、こちらは失敗に終わった。アリーの死によってムアーウィヤがカリフとなりウマイヤ朝を開くと、ハワーリジュ派はこれとも激しく対立した。・・・
 ハワーリジュ派によれば、カリフは宗教的に敬虔で倫理的に高潔な、共同体の模範となる人物でなければならない・・・カリフはスンナ派が言うようにクライシュ族の一員である必要も、シーア派が言うようにアリーの子孫である必要もなく、血統的な出自は問われない。・・・不信仰者に対するジハードを積極的に推奨して<いる。>・・・
 <弾圧を受けた結果、ハワーリジュ派は事実上壊滅して現在に至っている。>
 ハワーリジュ派は、現在のスンナ派世界においてはイスラーム主義系の武装組織にみられるような政治的に過激な主張を行う人々に対するレッテルのように使われることがあり、この派の名前には非イスラーム教世界で用いられるワッハーブ派、イスラーム原理主義といった言葉と近しい意味合いが付与されている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%83%A5%E6%B4%BE

彼らはアリーを真の指導者と認めず、自分たちの間から代表を選ぼうとした。しかも、それまで熱烈なアリーの信奉者だったのに、アリーが自分たちの言い分を聞かないので、袂をわかって出て行く極端ぶりである。ついには、彼らが送った暗殺者の狂刃によって、アリーは落命することになった。
 現在のイスラーム国のあり方は、このハワーリジュ派にそっくり、と言われる。確かに、既存の国家や指導者に従わない態度、同じイスラームでも他派を武力で攻撃する狭量さ、暗殺戦術をも用いる武闘主義、自分たちの代表を「カリフ」(預言者の後継者の意)と呼ぶ勝手さなど、似ている点はたくさんある。・・・」

⇒「現在のイスラーム国のあり方は、このハワーリジュ派にそっくり、と言われる」とは初耳です。
 それはともかく、殆んど同じではないかと思われるかもしれませんが、Isisは、ハワーリジュ派にそっくり、というよりは、ムハンマドと初期カリフ(正統カリフ)の時代のイスラムに忠実であろうとしている、という私の言い方の方が単純明快ではないでしょうか。(太田)

 「ヨルダンの国名は「ヨルダンのハーシム家の王国」である。このハーシム家とは、・・・アリーを家祖とする。ヨルダン国王とイスラーム国の関係は、アリーとハワーリジュ派の関係を思い起こさせる。
 それだけではない。中東の重要なアクターであるイランはイラクとシリアの現政権を支持し、イスラーム国には敵対しているが、実はイランの最高指導者ハメネイ師もアリーの子孫である。ただし、イランはシーア派なので、同じ血統を引いていても、スンナ派のヨルダン王家とは対抗関係にある。

⇒ヨルダン王家が、(アリーと)ファーティマの子孫、すなわち、サイイド(シャリーフ)である・・「ハーシム家とは・・アリーを家祖とする」は誤りです((注2)参照)・・ことは当然知っていましたが、ハメネイもまた、そうであるとは気付きませんでした。(それが本当である保証はありませんが・・。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%83%BC (←記述なし。)
https://en.wikipedia.org/wiki/Ali_Khamenei (←記述あり。)
 ちなみに、「ホメイニ師と前イラン大統領モハンマド・ハータミー」もサイイドです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95
(サイイドについては、下掲参照。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A4%E3%83%89 )(太田)

 そういえば、シーア派とは、アリーがハワーリジュ派に暗殺されたために、その子孫たちを全体の指導者にすべく頑張ってきた派であった<(注2)>。

 (注2)「[ハーシム家の]アリー【・・預言者ムハンマドの父方の従弟で、彼の母もムハンマドの父の従姉妹である・・】と[同じハーシム家の]ムハンマドの娘ファーティマとの子ハサンとフサインおよびその子孫のみが指導者たりうると考え、彼らを無謬のイマームと仰いでシーア派を形成していく。これに対して、ウマイヤ朝の権威を認めた多数派は、後世スンナ派(スンニ派)と呼ばれるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%96 (【】内)
 「スンナ派は初期カリフがクライシュ族内から互選で選ばれたことから、ムハンマドとの血縁の近さは必ずしも絶対的なものではないとし、クライシュ族であれば多少血縁が遠くても良いとする。そのためやや[ハーシム家の]ムハンマドとは血縁が薄い[ウマイヤ家の]ウマイヤ朝、〈ハーシム家だがムハンマドの叔父を祖とする〉アッバース朝の統治を認めた。またスンナ派世界では後にはクライシュ族でなくともカリフを名乗るものが出始め、最終的にはトルコ人のオスマン家がカリフを称するに至ったため、クライシュ族の血の論理も崩壊したといえる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A5%E6%97%8F ([]内も)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%96 (〈〉内)

 こういうふうに描くと、7世紀後半の登場人物たちが時を超えて、スンナ派、シーア派、ハワーリジュ派のような過激派となって、今日に出現している気がしないでもない。・・・」

⇒ハワーリジュ派(Khawarij)は、カリフはクライシュ族である必要はないとしていました。
https://en.wikipedia.org/wiki/Khawarij
 Isisの指導者にして(互選されて(?))カリフと称したバグダーディは、クライシュ族であると自称しており・・ウィキペディア(日本語版)ではクライシュ族だと記述しているのに対し、英語版にはそのような記述はないが、いずれにせよ、彼は、通名で、Abu Bakr al-Baghdadi al-Husseini al-Qurashiと、自分がクライシュ族たることを宣明している・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%83%90%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC
https://en.wikipedia.org/wiki/Abu_Bakr_al-Baghdadi
、ここからも、Isisが、ウマイヤ朝でもアッバース朝でもないところの、ムハンマド及び初期カリフの時代のイスラム回帰を目指していることが分かろうというものです。
 (ウマイヤ朝はクライシュ族のウマイヤ家の世襲だったが、バグダーディは、自称本名の最後がバドリ(Badri)で、これが家名と考えられる
https://en.wikipedia.org/wiki/Abu_Bakr_al-Baghdadi 前掲
ことから、クライシュ族でもウマイヤ家ではなくバドリ家だ。)
 繰り返しますが、この点からも、Isisをハワーリジュ派になぞらえない方がよいと思うのです。(太田)

(続く)