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太田述正コラム#7756(2015.6.29)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その29)>(2015.10.14公開)

「<こうして、>近来の支那の文化は学問、芸術がその主体になって来たのであるが、その中で学問は清朝の「樸学」<(注44)>が出て来たのが時代を代表する特種のものである。

 (注44)=考証学。「清代に入って流行した学問であり、諸事の根拠を明示して論証する学問的態度のことを、こう呼んでいる。宋学よりモンゴル・元を経て、明学に至る学問は、自分自身の見解に基づいて経書を解釈する、「性理」の学として発達した(「宋明理学」)。それに対して、経学・史学を研究し、その拠り所を古典に求めたのが、考証学の起こりである。また、漢学・・・とも呼ぶ。明末清初の時期の黄宗羲や顧炎武が、考証学の先駆的存在である。黄宗羲の方は、歴史や暦学の方面に精通しており、顧炎武は、経学・史学や文字学に秀で、厳格な考証を行った。以後、経学・史学の研究が隆盛となった。また、康熙・雍正・乾隆三代の学問奨励策とあい符合して、考証学は乾隆・嘉慶年間(1736年〜1820年)に全盛となった。このため乾嘉の学(けんかのがく)・乾嘉学派の名がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E8%A8%BC%E5%AD%A6

 樸<(注45)>学という文字からして、既にその学問を持っておる階級が仕官者を中心とせないということを現しておって、民間読書人の仕事であるということになるが、その方法はヨーロッパの近世科学の方法に一致するところが多くて、そのうちやはり高級学問と低級学問とも仮に名付くべき二つの学問を生じて来た。

 (注45)「ありのままで飾り気がない。・・・原義は、切り出したままの木。」
https://kotobank.jp/word/%E6%A8%B8-629369

⇒《欧米史における近世》=《ルネサンスの時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%B8%96
・・キリスト教のプリズムを排して(太田)「古典古代(ギリシア、ローマ)の文化<と向き合い、それ>を復興しようとする文化運動」の時代・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9
における学問》≒《儒教(や道教や仏教)のプリズムを排して古典と向き合い、それを活用しようとした(太田)考証学》、と内藤は思った、ということなのでしょうね。(太田)

 高級の学問はその方法に哲学的規範を持って、厳密な考証によってその偉大なる進歩を促したので、これに依って従来不明であった古代文化の内容が、非常に的確になることになった。しかしまた一方にはこの方法は、偉大な頭脳を持った人のたてた規範に僕従して、単に瑣屑(させつ)の考証をしておれば、それで能事終れりとする傾きも出来て来たので、そういう傾きは殊に清朝において揚州<(注46)>地方で商人上りという者にしばしば見るところの傾向である。

 (注46)「揚子江(江水)を中心に、北は淮水から南は南嶺山脈までの地域のことである。現在の江蘇省全体よりも広く、江南(揚子江の南部)の広大な地域をも含んでおり、魏晋南北朝においては、全国一の重要な地位を占める地域であった。楊州は北に徐州、豫州と接し、西は荊州、南は交州に接していた。楊州は三国時代、呉の孫策・孫権によって支配された土地である。楊州は南部が山岳地帯であるために、人も物資も北部に集中した。このため、三国時代の呉では戦争が相次いで人口不足に陥り、兵力が減少して国が滅亡する一因を成した。しかし楊州は中国南部の要衝地帯であり、晋滅亡後に建国された東晋は、楊州を本拠地としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%9A%E5%B7%9E%E5%B8%82

 それがすなわち清朝になって文化の中心が商人階級に移ったがために起った、特別な現象ともいうべきものである。

⇒下掲を踏まえると、このくだりも、内藤の思い違いの可能性があると思います。
 「やや後れて阮元を始めとする揚州学派が起こり、<考証>学を発展させている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99
 阮元(1764〜1849年)は、清の<[政治家、]>学者,書家,文学者<[(、教育者)]>。「進士に及第。山東,浙江の学政,浙江,江西,河南の巡撫,両広,雲貴の総督を歴任,・・・<體>仁閣大学士<([宰相相当])>を最後に辞任した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%98%AE%E5%85%83-60412
という人物ですが、「書<について、>・・・魏の<頃>・・・まで一統として技法の継承が行なわれたが、南北に王朝がわかれて書の技法も南北の二派なった・・・。さらに・・・南派が法帖をもって継承が行なわれたために、版を重ねるごとに真の技法は失われたとするのにたいして、北派は石碑そのものが存在することから、北碑こそが本来の書法が伝わったと<し、>・・・くわえて・・・北碑には隷意(れいい)が存するとし<、>・・・北碑尊重の最大の理由<とした>。<そして、>南派の人物としては、王羲之・王献之・智永・虞世南などをあげ、北派としては、趙文淵(ちょうぶんえん)・丁護道(ていごどう)・歐陽詢・褚遂良などをあげ<た>。」
http://www.k3.dion.ne.jp/~yurinsha/emchosaku/framerinnshotanbou15.html ([]内も)ことで有名。(太田)

 この方法が一応行き詰った結果としては、それを変化するために常州学派<(注47)>のごとく、学問を芸術化したところの一種の傾向も生じたが、そこまでの変化で大体清朝は終わったわけで、その後は革命の時代思潮のために再び混乱に陥りつつある。」(319〜320)

 (注47)「清代の儒学において漢代今文経学を重視する学派。創始した荘存与・劉逢禄らが常州の人であったためこの名がある。また、今文経重視を掲げているので今文学派の呼称もある。さらに、漢代今文学のなかでも『春秋公羊伝』に基づく董仲舒や何休の公羊学を重視したので、公羊学派(くようがくは)とも言われる。・・・
 考証学など古文学派がイメージする学者・教育家としての孔子像を思想家・改革者へと変えた。公羊学は康有為たちの変法運動の理論的根拠となり、清末の社会思潮に大きな影響を及ぼした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E5%B7%9E%E5%AD%A6%E6%B4%BE
 「今文(きんぶん)は、中国漢代において経書を書き写すのに用いられた文字で、当時通行していた隷書を指す。古文と呼ばれた秦以前の古い字体で書かれた経書に対して、今の文字という意味で今文と呼ばれた。経書は先秦時代から伝えられたものであり、それを伝承した今文と古文との間には文字の異同や増減はあっても、書き写した書体の相違に過ぎない。しかし、両者のどちらが経書の正当性を保持しているかという点をめぐって、漢代と清代とに論争が起こった。漢代の論争は王朝権力との関係を生み、清代の論争は「西洋の衝撃」と関係し、各々複雑な展開を辿った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%96%87
 「春秋公羊伝・・・は『春秋』の注釈書であり、『春秋左氏伝』・『春秋穀梁伝』と並んで、春秋三伝の一つとされ・・・他の多くの先秦の書物と同じく多くの人の手が加えられ漢の景帝期に現在の形にまとまったと考えられる。・・・
 公羊学とは、孔子が作ったとする『春秋』を公羊伝に基づいて解釈する学問であり、さらにそこで発見された孔子の理想を現実の政治に実現しようとする政治思想である。前漢の董仲舒によって形作られ、後漢の何休によって大成された。何休以後は、『春秋』を左氏伝によって解釈する左伝学が主流となり、公羊学は衰退した。清代になると、常州学派によって公羊学が重視されるようになり、清末の学問や政治思潮に大きな影響を与えることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%85%AC%E7%BE%8A%E4%BC%9D
 常州については、隋の時にできた州である常州
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E5%B7%9E
、ないし、「長江三角洲の中心部、上海の西160km、南京との中間に位置<し、>・・・西晋時代から<ずっと>・・・都・府として栄え」た常州市
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E5%B7%9E%E5%B8%82
のことだと思われる。「皇帝15名、状元(科挙制度の成績が全国一位の人)9名、進士1,333名等の偉人輩出の地としても有名」(上掲)。

⇒内藤の「常州学派<は>・・・学問を芸術化した」、は意味不明であり、「学問を政治化した」とすべきではなかったかと思います。(太田)

(続く)

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