太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#7752(2015.6.27)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その27)>(2015.10.12公開)

 「支那の経済組織の変化は、その革新を促し、さらにその統一を促し、経済上からして生じた日本支那の密接なる関係が、さらに政治軍事の方面にも及び、日本人が支那の民衆を統率し訓練して、欧米諸強国に当るということになれば、それがすなわち欧米人のこれまでもしばしば憂いておる世界の大なる脅威で、すなわちまた黄色禍(こうしょくか)となるわけであるが、そういう可能性が果してあるであろうか。・・・
 各国民の文化を論ずるについて、動もすれば国民性ということをいって、支那の国民性がどうこうという人もある。・・・
 <しかし、>民族生活、民族の生命というものは、やはり個人の生命のごとく大体年齢がある。民族が発生してから四千年たっておるものも、あるいは二千年しかたたぬものも、あるいは八、九百年くらいしか経たぬものも、同じく相並んで現代に生存しておる時に、現代において見らるる各々の差異の点を捉えて、これが各々国民の特別な性質、本来の性質、ないしは永久の性質と考えるのは危険な判断の仕方である。・・・
 <すなわち、>今日では日本と支那とが国民性を異にしておるようであっても、日本が支那だけの長い歴史を経た時には、支那のごとくなるかも知れぬ。・・・
 一時支那人は日本が近年立憲政体によって国力を増進したから、支那でも立憲政体さえ行えば国力が増進するものと考えたこともある。それらもやはり日本の国民としての年齢と、自国の国民としての年齢とを顧慮せなかった考え<なのである。>・・・
 立ちかえって支那の政治的年齢をよく考えみると、支那の政治的に発展すべき時期は前にもいうがごとく、漢代においてすでに経過してお<るのである。>・・・
 大体人類が造り出した仕事のうちで、政治軍事などの仕事は、最も低級なものであるが、日本が今政治軍事において全盛を極めておるのは、国民の年齢としてなお幼稚な時代にあるからである。支那のごとく長い民族生活を送って、長い文化を持った国は、軍事政治等にはだんだん興味を失って、芸術にますます傾くのが当然のことである。・・・

⇒根本的な批判は、すぐ後で行いますが、「大体人類が造り出した仕事のうちで、政治軍事などの仕事は、最も低級なものである」には、内藤の頭がおかしいのではないか、と言いたくなるくらい呆れました。
 太田コラムの昔からの読者は、アングロサクソンの生業は戦争である、という私の指摘が頭に入っているはずですし、(後にそこから最初の民主主義独裁のイデオロギーであるナショナリズムを生み出すこととなるところの、)国民国家なるものは、英仏百年戦争の時に、英国の「侵略」に対抗するためにフランスで生み出されたものである、という私の指摘や、常備大陸軍を維持する必要のなかったイギリスと違って欧州諸国では、次々と族生した国民国家群の中から、常備大陸軍の維持とそれを用いての戦争を遂行する手段として近代官僚機構や近代財政制度が生まれた、という私の指摘・・ちなみに、事実上の史上初めての中央銀行は、イギリスが「1694年に・・・対フランス戦のための資金調達目的で設立<し>た」ものです。・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E9%8A%80%E8%A1%8C
も思い出してください。
 要するに、(その多くの属性自体が生業としての戦争に由来するところの、)アングロサクソン文明固有の近代性以外の近代性(近代的諸制度)もまた、全て「政治軍事」の産物と言っても過言ではないのですから、「政治軍事」を貶めることは、近代の大部分を否定することを意味するのです。
 こんなトンデモ戯言を内藤に吐かせしめたものは、彼生得の日本文明の基調たる縄文性、及び、彼が学んで知った漢人文明の軍事蔑視観でしょうね。
 なお、日本文明観についても、内藤の認識は、(当時の時代的制約を勘案したとしても、)お粗末な限りですが、この点については立ち入りません。(太田) 

 もっとも支那に機械工業が興らなかったとか、近代文明の利器を持たなかったということは、それはある特別の事情から来ておるので、それによって国民生活の年齢を決すべき材料となすべきものではない。
 <かく>のごとき論理から来るところの結論は、日本によって経済組織の変化を刺激されても支那人は、それによって根本から若返って、もう一度政治中心の生活に入るというようなことはあるべからざるものだということを知り得ることになる。その点において日本が支那の多数の人口を統率して、世界の脅威となるなどという心配を欧米人はする必要がないのである。
 それでは経済組織の変化によって、経済上における勢力が、従来と違って進取的になり、それによって世界の脅威となることは無いかということも、一つの重大問題である。・・・
 <考えてみれば、>日本の経済の発展は古来開墾の結果<なの>だ・・・が、欧米諸国の経済の発展<は>・・・大体において植民地の発見の結果だといってもよろしい。・・・
 支那<は>・・・これらと頗る異なっておって、大体支那の地理は、最も肥沃な土地を内部に持っていて、その周囲は海でない処は砂漠とか、さもなければ非常な険阻な地形の土地である。それで支那の人力で出来る経済発展がその沃饒な内地と、非常な不生産な隣地との境目まで、ある時代までには発達してしまうというと、それから以上は進取的傾向となることがむつかしい。・・・それ以上は自然に人口制限も行われ、自然に民族生活が安分的傾向にならなければならぬわけである。・・・
 この状態にして一変する見込みがなければ、支那の経済発展は対外的関係からいっても進取的になり得ないわけである。」(306〜308、310、312〜314)

⇒民族にも、個人同様、生誕、春夏秋冬、そして、死、があるのかどうかは、興味深いテーマです。
 ユダヤ人は、生誕後、基本的に変わっていないように見えます。
 他方、ギリシャ人は、傑出した学術・文化を生み出した古典時代、帝国を形成したヘレニズム時代、ローマの東部、後にはビザンツ帝国の実質支配者となった時代、オスマントルコの下で、「ファナリオティスと呼ばれるギリシャ系正教徒のある層<が>オスマン帝国において政府主席通訳官、提督通訳官、ワラキア公国、モルドバ公国の公位を任され、オスマン帝国における重要な地位を担<い、>・・・オスマン帝国下の正教徒らをまとめ上げた正教徒ミレットの長、コンスタンディヌーポリ総主教座、及びミレットの高位聖職をもギリシャ人らが手中に収め、ミレットの長はミレットに課せられていた租税の徴収、納入やミレット内の秩序維持、紛争処理を行<い、>・・・オスマン帝国下の正教徒全てに対しての全権を持っていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
時代を経て、オスマントルコからの独立、及び、オスマントルコの瓦解と新生トルコ共和国の成立、の後、欧州の小病人たる現在に至っていることから、内藤的な意味での推移を辿ってきたように見えます。
 ユダヤ人の場合は、ほぼ一貫して迫害される環境、という意味で環境に基本的な変化がなかったので、文明を基本的に、良く言えば維持することができた、悪く言えば停滞させてきた、のに対し、ギリシャ人の環境は激変を繰り返してきており、激変の都度、彼らの遺伝子の機能の発現形態が変化、というか、劣化、してきたためだ、という説が成り立ち得るとしても、漢人に関しては、ユダヤ人型とギリシャ人型のどちらでもないのではないでしょうか。
 ギリシャでは、環境の激変ごとに、基本的に文明が変化・・しかも劣化的変化・・を遂げてきたのに対し、漢人文明は、少なくとも秦帝国成立以降、(ユダヤ文明同様、)基本的に変化することなく維持されてきた、換言すれば、(ユダヤ文明同様、)漢人文明を停滞させてきた、と見るわけです。
 (夏から春秋戦国時代までは、プロト漢人文明、とこの際、名付けることにしましょう。
 個人には土地の占有しか認めず所有を認めない、という点に着目すれば、プロト漢人文明成立時から、漢人に係る支那は停滞したまま現在に至っている、ということになりそうです。)
 で、何が言いたいかと言うと、特定の民族の興亡は、文明がどう変化するか、或いはどう主体的に変化させるか、次第なのであって、「生誕、春夏秋冬、そして、死」という経過を辿るとは限らない、ということです。
 漢人は、漢人文明の2千数百年の停滞的歴史を経て、辛亥革命以降、外国からの文明の継受によって、その文明の抜本的刷新を模索し、試行錯誤の末、アングロサクソン文明や欧州文明(ナショナリズム/ファシズム/共産主義)の継受を断念し、日本文明継受を決意し、実践中であるところ、これまでのところ、着実に日本文明継受範囲の拡大に成功してきたわけであり、その結果、既に、経済面では大成功を収めつつある、と言えるでしょう。
 内藤の予言は、この点では全く当たらなかった、と言えそうです。
 それどころではないのであって、太田コラムの読者の皆さんは熟知されているように、現在、中共当局が、「日本支那の密接なる関係が」、中長期的に「政治軍事の方面にも及」ぶことを希求して、日本を米国から「独立」させるべく、大変なリスクを冒してまでして頑張っているわけですが、それを知ったならば、あの世で内藤は一体どんな反応を示すことでしょうね。(太田) 

(続く)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/