太田述正コラム#7736(2015.6.19)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その19)>(2015.10.4公開)

 「日清戦争以前の諸外国と支那との関係は、・・・英国中心の実情であって、貿易の過半は英国を相手としていたので、支那の政治機関の中で唯一の共同管理制である税関<(注25)>も、英国中心でどこにも苦情がなかった。そして支那と諸外国との関係は、十分平和に進行すべき可能性が多かったにも関わらず、支那の有力な政治家連が最も軽視していた日本との関係から破裂の端緒を開いた。<日清戦争の結果、>その端緒の一端が開かれると、第一にドイツが入り込み、露国が入り込んで来て、近年では米国が入り込んで来た。今日では日清戦争の当時から見ると、平時の状態にあっても、国際関係はよほど紛糾しておる。もちろん世界の大戦争を経て露国の勢力も大部分消滅し(最近露支関係が復活しても、それが支那問題に勢力を回復するには未だ至らぬ)、ドイツも全然消滅し、仏国は前から格別深い関係が無かったことは今も同様で、残るところは英、米と日本の三国になったのであるが、この三国の現状は決して前のごとく、英国中心で治まっては行かなくなって来た。

 (注25)「関税などを管理する大清皇家海関総税務司<[Imperial Maritime Customs Service]>(現在の中<共>税関の前身)は1859年、両江総督・何桂清がイギリス人ホレーショ・ネルソン・レイ(Horatio Nelson Lay、中国名・李泰国)を総税務司に任命し、機能していなかった上海の税関機能を再建したことから始まった。1861年には総税務司は清朝政府中央が認める機関となり、1865年には北京に移転している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%8B%E5%8B%99%E9%81%8B%E5%8B%95 上掲
 やがて、内国関税行政、郵便、港湾・水路管理、気象、密輸取締、も所管するようになり、更には、借款交渉、通貨改革、財政経済管理も行うようになり、いくつかの教育機関を経営し外交活動の一部も実施するに至った。
 幹部の多くは英国人だったが、ドイツ人、米国人、フランス人、後には日本人も加わった。支那人の幹部への登用が始まったのは1929年だった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_Maritime_Customs_Service ([]内も)
 1914年の対華21ヶ条要求の第5号中に「中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用すること」があった・・後に、日本政府は第5号を撤回した・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82
のは、支那における英国の影響力の減殺を図る意図があったことも確かだろうが、支那をこのような半植民地状態から救いたいという意図もあった、と思いたいところだ。

⇒日本政府が1918年から22年まで、事実上の対赤露戦争であったところのシベリア出兵を米国等と共に行い、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5
1923年12月27日に東京で共産主義者の難波大助による皇太子(後に昭和天皇)狙撃事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E5%A4%A7%E5%8A%A9
があり、支那では、「<中国>国民党<が>1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%90%88%E4%BD%9C
というのに、1924年7月時点で、内藤はロシアについて、何とまあ寝ぼけたことを言っていることでしょうか。
 なお、ドイツ自体についての内藤の見立ては致し方なかったとしても、1924年5月のドイツ国会選挙で、共産党が躍進(得票率12.6%)し、当時まだ容共であった社会民主党(20.5%)と併せ、左派勢力が、33.1%の得票率を得た
https://ja.wikipedia.org/wiki/1924%E5%B9%B45%E6%9C%88%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E9%81%B8%E6%8C%99
ことを、ロシア(赤露)の脅威と結び付けて考察する視点も内藤には完全に欠落しています。
 内藤には支那の兵士の実態が分かっていない、という指摘を既にしたところですが、彼の軍事音痴性は、彼が、雑誌・新聞の記者出身で、しかも、政治軍事の中心である東京から距離的に離れている、京都の京大教授であり、軍事官僚との付き合いが全くなかったと思われることが与っている可能性があります。
 彼がロシアの脅威にかくも鈍感なのも、その軍事音痴性に由来するのではないでしょうか。(太田)

 税関は依然英国人を総税務司としておるけれども、ロバート・ハート<(注26)>時代のごとく泰平に安全なものではない。」(268)

 (注26)Robert Hart。1835〜1911年。[海関総税務司:1863〜1911年}「アイルランド、アルスター<(現在の北アイルランド)>・・・に生まれた。1853年にクイーンズ<[大学(Queen’s University, Belfast)]>を卒業、翌年香港に着いて中国語を学び、寧波に移った後1858年に広東領事館の連合軍軍政庁書記官に就任、翌年広東海関の副税務司に就任した。1863年に総税務司<([Inspector-General of China's Imperial Maritime Custom Service (IMCS)])>に就任後、40年近く<支那>に滞在し、一定の影響力を持った。1900年の義和団の乱の際には外交交渉に奔走した。1908年に賜暇を許され帰国し、3年後に総税務司在職のまま死去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88
https://en.wikipedia.org/wiki/Sir_Robert_Hart,_1st_Baronet ([]内)

(続く)