太田述正コラム#7732(2015.6.17)
<欧米における暴力観の変化(その2)>(2015.10.2公開)

 「1939年にノーバート・エリアス(Norbert Elias)<(注2)>は、『文明化過程(The Civilizing Process)』を上梓した。
 
 (注2)1897〜1990年。「<英>国籍でユダヤ系ドイツ人の社会学者、哲学者、詩人」。ブレスラウ大(現在のポーランドヴロツワフ大)卒、英国亡命。「1954年から1962年まで、イギリスのレスター大学で講師として社会学を教えた。・・・1978年から1984年まで、ドイツのボーフム大学とビーレフェルト大学で教鞭を執った。・・・アムステルダムの自宅で死去」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%B9

 彼は、近代性は、増大する礼儀正しさ(civility)と自己抑制によって特徴付けられる、と主張した。・・・
 しかしながら、ベッセルの<この>本が我々に思い起こさせてくれるのは、エリアスは、「私の言うところの文明は、完成されたことがなく、常に危険にさらされている」、と述べることを彼の本の序とせざるをえなかったことだ。
 一世紀にわたる、ジェノサイド、全体戦争、大量強姦、暴力犯罪、国家による拷問、は、「文明化過程」なる観念の総体を病んだ冗談にするように見えた。
 それでも、面白いことに、暴力の殆んどの諸形態は、増加してきておらず、むしろ、時間の経過とともに着実に減少してきている、との主張の復活が生じている。
 人間の歴史の中で、人々はいまだかつてない、より安全な諸生活を送っている、と。
 最も広範な(expansive)議論を展開しのが、スティーヴン・ピンカー(Steven Pinker)<(コラム#1117、5031、5039、5041、5055、5069、5091、5104、5561、5806、5954、5978、6907、7479、7550、7712)>の『我々の本性のうちのより良い天使達(The Better Angels of our Nature)』<(コラム#5091、5104、5978、6970、7550)>であり、それは、膨大な経験的データを歴史分析と結合させたものだ。
 ピンカーのテーゼ(thesis)には疑問が投げかけられた。
 多くの者は、その時々の、総人口に対する犠牲者数の比率という形での暴力の秤量に違和感を覚えた。<量の多寡をどうしてくれる、と。>
 また、この75年間の比較的平和な歴史<だけ>から、将来を見通すことができるのだろうか、とも。
 そもそも、<核兵器によって、かつてに比して>無限大により多くの害を与えることのできるところの、我々の潜在能力についてはどうか、とも。
 ベッセルのこの本は、この論議に対する一つの貢献だ。
 ナチスドイツの歴史学者として、ベッセルの研究は、<特定の>暴力の事件についての経験的説明ではない。
 それは、暴力に対して<人々の>変化する諸態度についての、風通しの良い、読み易い実地踏査(survey)なのだ。
 その中心的テーゼは、仮に、道徳的意識が暴力の諸形態の非正当化(delegitimisation)でもって秤量されるとすれば、人類は、事実、進歩してきた、というものだ。
 この本が取り扱っているところの、欧米世界は、<今や、>暴力が諸悪であると<の観念に>憑りつかれており、このことは、政治のみならず生活のあらゆる個人的な(intimate)諸領域においても顕在化している、という。
 <すなわち、>我々は、公衆の見世物としての暴力を<我々は>もはや許容しない。
 フーコー(Foucault)の『躾と罰(Discipline and Punish)』の最初の数頁で見事に描写されるところの、諸首切り、はもはや許容できないのだ。
 実際、Isisが我々の道徳的想像力の気に障るのは、諸殺人の事実によるのではなく、彼らが、暴力を公衆見物する慣行を復活しているからなのだ。
 しかし、<これに対して、欧米では、>体罰、親の暴力、そして家庭内暴力に対する叛乱までもが起こっている。
 <欧米において、>諸学校、諸家族、諸病院等、殆んど全ての諸単位(institutions)における慣行は、いわば、より少なく刑罰的になった。
 <また、>暴力の犠牲者達はより記憶されるようになり、犯人達を記憶することへの嫌悪感は増している。
 戦争は、依然として世界の多くの場所場所における現実だ。
 しかし、2つの世界大戦の間のような形で全体戦争や絶滅が公的に栄誉とされるといったことは、考えることが困難だ。
 <世界で>一般住民の死傷者達<頻出していること>はいまだに事実だが、それらに対して、<欧米では、>道徳的かつイデオロギー的により疑念が呈されている。
 最近までは、民間の人々に対して最大限の損害を与えることが、公然と正当化されたものなのに・・。
 ベッセルは、「暴力を抑え込むには社会的秩序が必要条件である」ことが常に認識されていた、と指摘する。
 しかし、逆説なのだが、・・・「暴力は、同様、常に社会的秩序を維持するための必要条件であるとも認識されていた」、のだ。
 何が変わったかと言えば、国家による暴力は抑え込まれる必要がある、との規範的認識<の出現>だ。
 革命の暴力は、フランス革命とロシア革命の作為者達が理解することさえ恐らくできないであろう形で非正当化された。
 しかし、彼は、暴力の正当性が理解される形における大幅な諸変化が。<欧米において>起きてきている、との主張において強固(emphatic)なのだ。」(B)

3 終わりに

 既に、ベッセルのテーゼに対する批判は行っているところ、以下は付けたりです。
 ベッセル自身が、「欧米世界」では暴力の非正当化が進展している、という地域的限定を付けているわけですが、米国内の死刑執行数や火器による死亡者数の多さやドローン活用による対テロ戦争の遂行、及び、ロシアのチェチェン叛乱の暴力的鎮圧やジョージア、ウクライナ「侵略」を見るにつけても、その「欧米世界」内の米国には当てはまらないように見えますし、「欧米世界」とは無縁ではない、「欧州」の外延であるところの、ロシアにも当てはまらないように見えます。
中東及びアフリカの惨状は言うまでもありません。
 中東以外のアジアに関しては、ベッセルのテーゼが一定程度当てはまるようにも見えますが、これについては、改めて考察を加えるとして、欧米内に話を限定すれば、どうして、欧米内で、拡大英国と欧州だけにベッセルのテーゼが一定程度当てはまるように見えるのか、ということになります。
 私の仮説は、米国の軍事力へのただ乗りが続く中で、国家による暴力の最たるものである、戦争について主体的に考えない風潮が双方において蔓延する中、拡大英国においてはコアたるイギリスにおける本来的人間主義的な考え方が前面に出て来たからと解したらどうか、そして、欧州においては暴力的なキリスト教が名実ともに衰退したからと解したらどうか、というものです。
 (「名」の衰退とは、プロテスタンティズム及び反宗教改革的カトリシズム双方の衰退、「実」の衰退とは、プロテスタンティズムないし反宗教改革的カトリシズムの変形物たる民主主義的全体主義諸イデオロギーの衰退、です。)

(完)