太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#7714(2015.6.8)
<キリスト教の原罪思想のおぞましさ(その7)>(2015.9.23公開)

  エ 欧州

 「ルソー(Rousseau)<(コラム#64、66、71、1122、1257、1467、1592、1594、1665、2107、3945、6024、6125、6277、6893、6930、7080)>でさえ、彼の『告白(Confessions)』の中で、内なる我々自身は、感情、つむじ曲がり、そして、妄想、の大鍋(cauldron)であることを明らかにした。<(注18)>」(A)

 (注18)ルソーは、「『人間不平等起源論』に<おいて、>・・・前提として仮定される自然状態における自然人は、理性を持たず、他者を認識せず、孤独、自由、平和に存在している。それが、理性を持つことにより他者と道徳的(理性的)関係を結び、理性的文明的諸集団に所属することで、不平等が生まれた」とした。すなわち、彼は、「社会の誕生を悪の起源とみな<した」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%BC
 しかし、人間は社会的(人間(じんかん)的)存在なのだから、これは、人間は生来的に悪である、との考え方だ。

 「ボイスは、鍵となる欧米の哲学的、科学的思想家達の調査を行い、啓蒙主義も近代科学も、どちらも、我々の世界から原罪を追放するのに成功していないことを証明する。
 20世紀には、フロイトが、男性達と女性達は、「道徳と意識的思想と緊張のうちに存在しているところの、本能的諸衝動、とりわけ、性<衝動>と攻撃<衝動>とによって」形作られている、と主張した。」(A)

 「フロイトは、人間達に作用している相互に矛盾し(conflictual)、かつ、破壊的な諸力を公理とした(postulated)が、セラピーでもって彼らを<これら諸力から>解放することの保証は与えなかった。」(H)

⇒ここで、改めてフロイトの登場です。(太田)

  オ アリストテレス

 「この本を読んでいる間、私は、ボイスが描写する倫理的諸仮定(assumptions)、と、キリスト教以前の哲学者であるアリストテレス(Aristotle)<(コラム#2106、2458、4089、4111、4800、7149、7338、7536)>、とを、私自身が比較する気にさせられた。
 アリストテレスは、人間達が悪く生まれたとは考えなかったけれど、このことが、倫理に関する我々の思考形態と彼のそれとの間の最も興味深い対照点なのではない。
 彼にとっては、徳(virtue)は、人間達が繁栄することを可能にする諸性質(qualities)と不可分であるところ、彼は、人々が生来的に有徳であるとは信じていなかった。
 徳が求める良い判断<を行う能力>は、有徳である者達の範例に従うことによってのみ習得できるところ、有徳になるためには好ましい社会的環境が求められる、と。
 もし、人々が有徳ではなく悪にあいなったとすれば、その理由を探す最善の場所は個人の心の中ではなく、彼らの育ち(upbringing)または社会的諸関係の中である、とも。
 原罪教義が奨励するところの、不安な自己検証、及び、神の前での倫理的な諸個人の孤独、は、アリストテレスの思想の中に占めるべき場所はない。
 アリストテレスの見解の中では、徳は、二つの両極端の間において均衡を見出すことに係る事柄なのだ。<(注19)>

 (注19)「『ニコマコス倫理学』のなかで、アリストテレスは人間の行為や感情における超過と不足を調整する徳としてメソテース(<Mesotes=>中間にあること)を挙げた。・・・英語ではGolden Mean(又はHappy Mean)と言う。・・・この両極端の中間を知る徳性が思慮(フロネシス、実践知)である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BA%B8_(%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E5%93%B2%E5%AD%A6)
 儒教における「中庸」は、「メソテース」に近いが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BA%B8
両者の相違について、次のような、傾聴に値する見解がある。
 (「封建社会」は「既成秩序」と読み替えたいところだが・・。)
 「メソテースは厳密には中庸の前半分の意味・・・過不足のない状態・・・しか持ち合わせていません。そして、庸とは「普通の、平凡な」という意味合いの言葉です。ここで問題なのは孔子がいかなる文脈で中庸を用いたかですが、『論語』雍也第六には、子曰中庸之爲徳也其至矣乎民鮮久矣(子曰わく、中庸の徳たるや其れ至れるかな。民鮮なきこと久し。)とあります。つまり孔子は「中庸こそ最上の徳なのに、民衆からそれが失われて久しい」と嘆いてるのですが、ここに先程述べた「庸」の意味を繋げると「民衆は平凡に生きる事こそ幸福に繋がるのにそれが忘れ去られている」となり、孔子の教えが本質的には封建社会擁護の政治道徳である事を示す一例となります。」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1015148170

 勇敢な男性は、向こう見ずでも臆病でもない。
 有徳の人は、利己的でも自己放棄的(self-abnegating)でもない。
 <人>は、自分自身の諸利害を追求すると同時に、他者達の諸利害にも相応の比重を与える。
 <他方、>キリスト教の伝統(heritage)の下にある者達は、特定の諸種類の諸活動ないし諸傾向(inclinations)・・例えば、自己中心性・・を、生来的に罪深いものと見なす気(け)がある(predisposed to)。
 ボイスは、<彼が>アダム・スミスを原罪教義の犯人(perpetrator)と同定する時、このことがその通りであることを前提としている。
 アリストテレスにとっては、利己的であることや性的諸欲求を持っていることは、何も生来的に悪いことではない。
 実際、適量のそれらは、良いことなのだ。
 それらは、極端に増えた場合に限って諸悪に転化するのだ。」(E)

(続く)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/