太田述正コラム#7692(2015.5.28)
<アンドリュー・ジャクソン大統領のおぞましさ(その4)>(2015.9.12公開)

 米国との間の諸条約は、チェロキー族の主権を確認(affirm)した。
 彼らは米国の市民達ではなく、<インディアン達>の残余の領域を統制するあらゆる権利を有するところの、独立国の市民達と見なされた。
 しかし、同じ諸条約が、チェロキー族国を連邦政府の「保護」下に置いていた。
 実際のところは、チェロキー族は、米国政府の下で、同政府の誠実さ(good faith)に依存していた。
 チェロキー族政府は、過去の<自分達の>土地諸売却を通じて得られたところの、連邦年金群(annuities)の毎年の諸支払に依存していたのだが、そのことは、米国政府をチェロキー族の親分(pay-master)にした。
 チェロキー族は、自分達の間で生活し、あたかも宗主国からの大使であるかのように大きな影響力を行使したところの、連邦「インディアン担当官(agent)」によって監督された。
 ロスは、全てのチェロキー族同様、米国によって抱懐されたが、彼の新機軸は、米国を抱懐し返した点だ。
 彼は、望みなき叛乱に立ち上がった原住民の指導者達の例に決して倣わなかったのだ。・・・
 <他方、ジャクソンの方だが、>まだ軍隊にいた時に、彼は、疑わしい諸手段を用いて白人入植地として解放した元インディアンの地において、奴隷大農場群を買い、運用した。・・・
 ジャクソン、彼の友人達、はたまた彼の親戚達、の名前群が、1818年以降のテネシー川渓谷で売却された少なくとも4万5,000エーカーの<土地の>購入簿に出没している。
 ジャクソンは、今日、醜聞的であるとみなされるであろう諸やり方で公的な事業と私的な事業とを混淆したが、それらは、19世紀においてさえ、批判された。・・・
 ミシシッピー州ジャクソン、フロリダ州ジャクソンヴィル、そしてアラバマ州のジャクソン群及びジャクソンヴィル、という名称が付けられたのには理由があるわけだ。
 この3つの州においてこそ、彼が一番身を立てよう(establish)としたのだから・・。
 <しかし、当時、>インディアン達の地図では、深南部と将来呼ばれるところのものは、その大部分が、チェロキー族、或いはクリーク(creek)族、或いはチョクトー(Choctaw)族・チカソー(Chickasaw)族・セミノール族、の土地だった。
 これらは、ジャクソンの時代にこの地域に留まってたところの、5つの大きな<インディアン>部族集団群だった。
 彼らは、自分達の古来からの諸文化を白人社会の諸文化に適応させつつあったことから、文明化五部族群(Five Civilized Tribes)<(注7)>として知られることとなった。
 内部における抵抗運動にもかかわらず、チェロキー族の多くは、自分達の衣服、自分達の農業、自分達の宗教、そして、<自分達の>男性達と女性達の関係、を変えた。

 (注7)「南北戦争の間、これら五部族は、どちらの側を支持するべきかで分裂した。チョクトーとチカソーは主に<米>連合国側について戦ったが、クリーク、セミノール、チェロキーは、<米>合衆国・・・(北軍)と連合国軍の支持で分裂した。チェロキーは、南軍についた勢力と北軍についた勢力の間で同じ部族間の争いが起こった。
 1907年、オクラホマ準州と<文明化五部族の強制移住先である>インディアン準州は、新たにオクラホマ州として合併された。・・・
 <現在では、>他のすべての部族がより野蛮であったという示唆を避けるため、しばしば「文明化」をとって「五部族」という言葉が使用される。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%98%8E%E5%8C%96%E4%BA%94%E9%83%A8%E6%97%8F

 彼らは、書き言葉(literacy)、成文諸法、及び、諸奴隷を所有する習わしまでをも採用した。」(E)

 「(隣接する、クリーク族、カトーバ(Catawba)族、そして、タスカロラ(Tuscarora)族といった部族群の奪取者群かつ植民者群であるところの、)チェロキー族は、米国のために戦い、双方それぞれの運命が交錯し合った後には、裁判所において、そしてロビイスト達を通じて、そして文字通りの戦争以外のあらゆる諸手段でもって、米国政府と戦う羽目になった。
 アンドリュー・ジャクソン大統領及びチェロキー族大酋長のジョン・ロス・・・、という二人の男達の物語から出現してきたのは、初期米国における権力と紛争のより大きな肖像画であるところ、それは、単なる、白人の非違行為(transgression)とインディアンの抵抗運動という事柄ではなかった。
 むしろそれは、インディアン達と白人達は時に同盟者となり、時にそうでなくなった、時に大義において統一され、時にそうでなかった、という肖像画だったのだ。
 そして、権力の地図は、単なる、連邦対部族<という形のもの>ではなかった。
 それは、自分達に有利なように州の主権を左右しようと欲したところの、インディアン部族群、連邦政府、そして(ジョージアのような)諸州、の間の複雑な関係群網だったのだ。」(A)

⇒ここまで読んでこられて、インディアン達がバラバラであっただけでなく、しばしば、白人達の走狗となって互いに戦ったこと、を遺憾に思われた方も少なくないでしょうが、同じ時代に、欧州で欧州人達がバラバラで、相互に、欧州内で、そして、植民地において、戦争ばかりしていたことからすれば、同じ白人なのに、とか、同じインディアンなのに、といった発想自体がおかしい、と思わなければなりますまい。(太田)

(続く)