太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/

太田述正コラム#7688(2015.5.26)
<アンドリュー・ジャクソン大統領のおぞましさ(その2)>(2015.9.10公開)

 (2)序

 「この二人の物語は、新しい国における土地への深い飢餓についてのものだった。
 「米国西部全域の…アパラチア山脈以西のなら押しなべて…欲したところの、貧しい白人の家族群が存在した」、とインスキープは言う。
 「莫大な財産を作り、奴隷達のための一層大きな市場を創造するために、その土地を、大農場入植地(settlement)のため、或いは綿花栽培のために欲したところの、奴隷所有者達も、奴隷達を売ろうと欲していた人々も存在した。
 これは極めて暗い物語なのだ。」(B)

 「どちらの男も基本的な民主主義的価値を体現することになった。
 すなわち、ジャクソンは、多数支配という原則の、そして、ロスは、少数の諸権利という原則の・・」、と。
 企業家的にして教養ある(educated)ロスは、<血統的には>8分の1しかチェロキー族ではなかったけれど、「何かが、[彼を、]白人の側から引き離し、彼のインディアンとしてのアイデンティティに接近させたのだ。…
 ロスは、より小さく、より脆弱で、見たところ、敗北が運命づけられていたところの、集団に対する彼の諸紐帯を次第に強めて行ったのだ」、と。・・・
 この本の最大の業績は、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King Jr.)とマハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi)の形を前もって示した(prefigure)ところの達人的戦略家(master strategist)に光を照射する(highlighting)ことによって、ロスを歴史のゴミ箱から救出することだ。
 インスキープが記すように、「チェロキー族は単なる犠牲者達を超える存在だった。
 というのも、彼らは不利なゲームを長期にわたり見事に戦ったところの、熟練した政治的運用者達だったからだ。
 彼らのインディアン<強制>移動への抵抗運動は…人種的少数派達の諸権利のための近代的諸運動を予示し、我々の民主主義的伝統に新たなものを付加したのだ。」(C)

 「その父親が白人の毛皮商人であったところの、一人のチェロキー族<たるロス>が、ラテン語、キリル語、及びギリシャ語のアルファベットから、キリスト教宣教師達の助力を得て、<インディアンの>最初の書き言葉を捻りだしたのは1820年になった時だった。」(D)

 (3)協力

 「つつましい出自、そして、政治力、及び、ホースシュー・ベンドの戦い(Battle of Horseshoe Bend)<(注5)>・・・<、並びに、>ニューオーリンズの戦い(Battle of New Orleans)<(注6)>によって、ジャクソンは有名になった。

 (注5)「クリーク戦争中の1814年3月27日、アラバマ州ウェタンプカ近くで、・・・クリーク族インディアンの一派と、<米>軍および同盟インディアンの連合軍との間で戦われた戦闘である。アンドリュー・ジャクソンの指揮した<米>・インディアン連合軍が決定的な勝利を奪い、・・・クリーク戦争を終結に向かわせることになった。・・・クリーク族の内戦で始まったクリーク戦争の発端に、<英>軍や<英>軍と同盟して戦った・・・インディアン・・・の教唆があったために、米英戦争 (1812〜1815)の一部と考えられている。クリーク戦争に介入することになった<米>軍は、・・・アラバマ州付近の<米国>人開拓地に対するインディアンの脅威を取り去ろうとした。<こ>の戦いは、その一連の戦いの中でも最大のものとなった。・・・
 <米側>民兵はクリーク族の死体から鼻先を切り取った。何人かの兵士は馬の手綱を作るために、インディアンの体から長い帯状の皮膚を切り取った。・・・
 <この戦いの>結果<、>クリーク族が・・・93,000 km2・・・の土地を<米>国政府に割譲することになった。場所はアラバマ州の半分とジョージア州の南部であった。クリーク戦争はクリーク族間の内戦でもあったが、ジャクソンは協力したクリーク族も反攻した<者>も区別せず、両方から土地を奪った。割譲された土地のうち、・・・7,700 km2・・・は戦争中<米>軍に協力したチェロキー族が要求した。
 この・・・勝利に続いてニューオーリンズの戦いでも勝利したアンドリュー・ジャクソンは英雄となり、1828年の<米>大統領選挙で勝利した。」」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 (注6)「米英戦争末期の、1814年12月から1815年1月にかけて行われ<ジャクソン指揮する米側が勝利し>た戦いである。・・・実際には約2週間前の1814年12月24日にガン条約が調印され、米英戦争は終結していたのだが、両軍の兵士達には知らされていなかった。」
 米側:3,500〜4,000名兵隊、航海士、市民軍、<インディアン>、海賊、<黒人> を含む
 英側:8,000名白人(スコットランド人ハイランダーを含む)、黒人(<欧州>に加え、西インド諸島から徴兵された)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 「入植地戦争(war of settlement)」と呼ぶこともできるところのものが真に始まったのは、現在のアラバマ州における、ホースシュー・ベンドにおいて、米軍とそのインディアン同盟者達がクリーク族の分派たる「レッド・スティック(Red Stick)」を攻撃し粉砕した時だった。
 そして、若きチェロキー族の政治家にして戦闘者たるジョン・ロスが、ジャクソンのために戦い、彼と知り合いになったのはホースシュー・ベンドにおいてだった。
 この二人の男それぞれの運命は、この戦いの間に繋がるに至り、米南西部の統制権を巡る長い闘争の間中、その繋がりは続いたのだ。」(A)

 「1813年の秋、ジャクソンは、信頼のおける白人の将校の指揮の下に置かれたところの、チェロキー族が自分達で編成した連隊の、成立(services)を認めた。
 このチェロキー連隊には、ジョン・ロスが含まれており、彼が入隊した瞬間から、彼の運命とジャクソンのそれとは繋がった。
 彼らは、少なくとも当初は、同じ側で戦ったわけだが、歴史的衝突が生じるのは必然だった。」(E)

(続く)

太田述正ブログは移転しました 。
www.ohtan.net
www.ohtan.net/blog/