太田述正コラム#7678(2015.5.21)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その14)>(2015.5.23配信)(2015.9.5公開)

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[上杉鷹山の一挿話]

 「ある日、・・・老婆が・・・干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうで、手が足りず困っていたが、通りかかった武士2人が手伝ってくれた。取り入れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例であった。そこで、餅を持ってお礼に伺いたいと武士達に言ったところ、殿様お屋敷(米沢城)の北門に(門番に話を通しておくから)というのである。お礼の福田餅(丸鏡餅ときな粉餅の両説あり)を33個持って伺ってみると、通された先にいたのは藩主<鷹山>であった。
 お侍どころかお殿様であったので腰が抜けるばかりにたまげ果てた上に、(その勤勉さを褒められ)褒美に銀5枚まで授けられた。・・・
 <このことを、彼女>が、嫁ぎ先の娘に宛てて書いた手紙が残っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B2%BB%E6%86%B2 前掲

 この挿話は三つのことを物語っている。
一、農民と武士との間に、気軽に助け合うような平等な関係が見られた。
二、農民も武士も人間主義的な人が少なくなかった。
三、農民もまた、識字率が、女性を含め高かった。
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 「支那では、独裁政治の国であるけれど、天子<は>・・・人の評判で官吏の進退を決する<趣がある>。・・・<現在の支那でも、>新聞で騒がしく言うと、その恐ろしがること大変である。何でも一々新聞にほとんど盲従しておる。・・・
 とにかく昔からそういうように輿論に重きを措く国である。・・・

⇒具体的事例なり典拠なりが記されていないので、正否の判断のしようがありませんが、眉唾物です。(太田)

 <よって、こんな支那で立憲政治を導入したら、>随分ぐらぐらした立憲政治が出来るだろうと思う。・・・
 <また、>支那人は自分の国を天下だと思っておる。・・・それで本当に<漢人>種族思想の起ったのは、外国から亡ぼされ掛かった時である。前には南宋の末、近頃では清朝のために明が亡ぼされる時に種族思想の発現があった。・・・宋末・・・<の>文天祥<(注16)(コラム#98、103)などの抵抗ぶり>・・・<との比較で>見ると・・・明末<の>・・・鄭成功<(コラム#706、4854、5108、5362、6364、6541、6543、6545)や>・・・張煌言<(注17)ら>・・・<の抵抗ぶりは、>耐久力があって、種族思想というものがよほど盛んになっ<てい>た<ことが分かろうというものだ>。

 (注16)1236〜83年。「<科挙に首席合格した>中国南宋末期の軍人、政治家である。・・・滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ何度も元に仕えるようにと勧誘されたが忠節を守るために断って刑死した。・・・<その捕囚時に>有名な『正気の歌』(せいきのうた)を詠んだ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%A5%A5
 (注17)Zhang Huang-yan(1620〜64年)。「<科挙に合格。>明が滅び,南京の弘光政権も敗れる(1645)と、・・・魯王<の>・・・朱以海・・・を推戴して反清活動を展開した。魯王が福建に入り鄭成功を頼ると,これに従い,鄭成功に協力して南京攻撃に従軍し戦功をあげた。しかし鄭成功が死に,魯王も没すると,みずから兵を解散し隠居したが,清軍に捕らえられ処刑された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%B5%E7%85%8C%E8%A8%80-97797

⇒宋の時代に、女真人の金に抵抗した岳飛やモンゴル人の元に抵抗した文天祥が、当初の考え方を変更した中共当局によって英雄とは見做されなくなった(コラム#98)ことに象徴されているように、現在の支那(中共)は、漢人ナショナリズムを公式には抑圧するに至っているものの、(外蒙古が独立していることもあって?)それに代わる統合原理を打ち出せていません。
 前も今も、中共当局が、実態において抱懐しているのは、漢人ナショナリズムである、と私は見ています。(太田)

 その時代の思想が清朝200余年の間にも伏流しておって、清朝のために圧伏された後も、その思想は江南地方に全く流れが絶えない。その時代思想の代表者となった一人の学者がある。それは有名なる王陽明の生まれた・・・県の<出身>で黄宗義<(前出)>という人である。・・・
 他の一人は崑山の顧炎武<(前出)>という人である。・・・
 <黄宗義は、>「・・・古代には・・・臣が君に対して拝すると、君も答拝した。秦・漢以後になって、そういうことは行われなくなったが、それでも丞相が天子の御座に進んで行くと、天子は御座から起って挨拶をする。もし輿に乗っていたならば、降りて挨拶をしたものである。それが明代に丞相を置かなくなってから、そういうことは無くなった」と云っておる。・・・

⇒いかにも進歩思想を抱懐する内藤が飛びつきそうな黄宗義についての記述ですが、元までの皇帝と、宰相
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AE%B0%E7%9B%B8
ないし丞相
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%9E%E7%9B%B8
ないし相国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E5%9B%BD
等との関係、がそのようなものであったとはおよそ聞いたことがありません。
 例えば、秦の始皇帝と李斯や
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%AF
漢の高祖(劉邦)と蕭何
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%AD%E4%BD%95
の関係がそのようなものだ、とは到底考えられません。(太田)

 <その関連で、彼は、>支那では制度に重きを措かずに、人間に重きを措く。それも間違っておる・・・ということ<も>言った。
 これに対しては反対の傾きを持っておった人もある。張之洞<(注18)(コラム#752、4946、6563、6789)>などは、・・・清朝の天子というものは特別に有難いものである、という箇条を15か条も列挙しておる。

 (注18)1837〜1909年。「清末の政治家。・・・富国強兵、殖産興業に努めた。・・・変法運動に対して・・・理解を示していたが、・・・「中体西用」の考えを示し、急進的すぎる改革を戒めた。・・・日本を近代化に成功した国として見習い、留学して日本を通し西洋の学問を摂取すべきことを説い<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%B9%8B%E6%B4%9E

 ところが・・・支那の国<では>、殊に<清>の朝廷のような外の種族から入って来た天子に対する忠義の観念は微弱であって、とうてい行われない。それで・・・第一等の学者で章炳麟<(注19)(コラム#5372)>・・・が今から10年ばかり前に考え出したことがある。<彼は、>とても清朝の天子では持ち切れぬと考えて、・・・孔子の末裔<(注20)>を天子にしようと考えた<のだ>。」(175〜178、182〜183)

 (注19)1869〜1936年。「清末民初にかけて活躍した学者・革命家・・・<日本に3度亡命。>西欧知識や仏典を獲得したのも日本であった。・・・種族革命に心血を注ぎ、・・・康有為とその弟子梁啓超<らの>・・・変法派に徹底した批判を加えた<ほか、>・・・孫文を痛罵し、五四運動に反対し、白話運動にも非難を加え、・・・<すなわち、>章炳麟は「国粋」・「尊孔読経」を唱え、且つ国共合作や「聯俄・聯共・扶助農工」政策に強く反対し・・・1931年の満州事変以後は「抗日救国」を唱えて蒋介石の「安内攘外」政策(中共を先に滅ぼし、その後日本軍を討つ)を批判し<た。>・・・革命事業においてその熱情は反骨精神として評価されるが、それ以外に向けられた場合(特に辛亥革命以降)には頑固な保守、あるいはアナクロニズムと評されることが多い。・・・魯迅こと周樹人は、章炳麟の弟子である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A0%E7%82%B3%E9%BA%9F
 (注20)「孔子の子孫と称する者は数多く、直系でなければ現在400万人を超すという。孔子<の>・・・子孫に<は>厚い待遇が為された。まず前漢の皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、次の成帝の時、・・・孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。その後、時代を下って宋の皇帝仁宗は1055年、第46代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する。孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑800戸を与えられ、「褒成侯」孔均も2000戸を下賜されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90

(続く)