太田述正コラム#7672(2015.5.18)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その11)>(2015.9.2公開)

 「要するに今日の支那の内治の問題は、その当局者なり、人民なりが国に対する義務を感ずる道徳の問題<なのだ。その問題さえ解決し、>・・・日本のように格別厚くない収入で官吏が<胥吏を介さずに>自ら事務を取り扱うということにすれば、支那においても実際人民の負担は減じ得られぬことはないのである。」(112、130)

⇒(胥吏を含む)官吏のみならず、人民までもが公の観念を持ち合わせていないような支那と、(公の私の境界が不分明でこそあれ、)公の観念が昔から確立していた日本とは、「進歩」の度合いが違うというよりは文明を異にしている、と言うべきなのに、そう言えないところに、(万国共通の)進歩史観を抱懐する内藤の限界があります。
 この肝心の点で間違っている以上は、支那の人々に公の観念を根付かせる処方箋を内藤には書けるわけがないのです。(太田)

 「将来20年くらいは支那<は>絶対に国防の必要がない・・・。・・・支那が全く国防を廃しても、・・・列国の均勢の御蔭で・・・決してその独立を全く危くするようなことには至らない。・・・<そもそも、>40個師団や50個師団の兵力があったとしても、その素質も大方は知れており、日本とかロシアとかが、断乎としてこれを亡ぼす決心であれば、とても防御のできるものではない。その他の列強は日露両国のある以上、支那の本部に指をさされるはずのものでない。・・・また地方に対して威力を用いる実力もすでになければ、その必要もまた全く無い次第だ・・・<結局、兵力>は20万も要しないのである。日本が朝鮮を経営するのに1個師団半の兵力で、それさえ実際には装飾に過ぎない<のである。>」(124)

⇒被治者たる人民に公の観念がないのですから、「地方に対して威力を用いる実力<が>すでに」あろうとなかろうと、「地方に対して威力を用いる・・・必要<は>全く無い」どころか、甚だしくあるはずです。
 内藤は、自分の言の論理的整合性にさえ顧慮を払わない人物であるようです。
 なお、朝鮮半島について言えば、半島に1個師団半しかいなくても、隣接する満州にも、一衣帯水の日本列島にも、日本が併せて何個もの師団を保有していることを内藤は忘れています。
 最も愕然とするのは、当時の支那に国防のための軍隊などいらない、と主張している点です。
 当時、列強、とりわけ日露が、支那が(日露を含む)特定の列強に支配されるようなことにならないよう、牽制し合っていた、というのは間違いではありませんが、支那にそれなりの対外用軍事力がなければ、内藤の言う「20年くらい」のスパンで考えれば、列強、とりわけ日露、の支那(内を含む)周辺における軍事バランスは崩れうるのであって、崩れた途端に、支那は、相対的に優位に立った列強のうちの一国ないし複数の国に支配されてしまう危険に直面することに相なるからです。
 明治維新直前の1866年に南部藩士の家に生まれた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B9%96%E5%8D%97 前掲
というのに、内藤は、物の見事に軍事(安全保障)音痴に堕してしまっています。
 そのこととも関連していると思われますが、内藤は、ロシアに対する警戒感を抱いていなかった・・私の言う横井小楠コンセンサスを抱懐していなかった・・ように見受けられます。(太田)

 「支那の各省の大きいのは、日本とかイギリスとか<の本国>よりも大きいのであるから、相当に大きな領土であ<り、>・・・各々独立して善き政治を行うために、ちょうど相当の領土というべき形であるから、・・・地方分権でやって行く方法が成功するに近いと思う<ところ、そうすれば、>・・・数百年来の官吏と人民との間にコンプラドル<(注13)>が挟まっておる弊政を改革することが出来るかも知れぬ。これが出来<れば、>・・・人民の負担も減じ、各省で各々財政を維持しても、格別苦しまなくなるかも知れぬと思う。」(130〜131、138〜139)

 (注13)コンプラドール【(ポルトガル)comprador】江戸時代、長崎の出島で、オランダ貿易にあたった仲買人。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/84061/m0u/

⇒ここは、一応首肯できます。(太田)

 「支那は今日ではいかにも交通不便の国のようであるけれども、もしこれが鉄道も汽船も無かった時代として考えると、支那のごとく交通の便利な国はないのである。広大なる沃野の間を、黄河、揚子江という二大河が流れておって、南船北馬と云う諺のあるごとく、南方はどこまでも船で交通が出来る。また北方はどこまでも自由に馬で交通が出来る。馬といえば車の利用という義で、車同軌ということを一統の理想としておるくらいで、日本やヨーロッパのごとく、車を利用し得ない山道が多いとか、船を利用し得ない渓谷の急流があるというものとは全く違う。それに気候も温暖で、天産物が非常に豊富である。・・・

⇒「車を利用し得ない山道が多いとか、船を利用し得ない渓谷の急流がある」のは日本にはあてはまっても、欧州には基本的に当てはまらず、イギリスには全く当てはまりませんし、「気候も温暖で、天産物が非常に豊富」なのは、イギリスにこそ、最も良く当てはまります。
 内藤は、支那を少なくとも一度訪問したことはある
http://www.kansai-chinese-art.net/report_of_symposium2011.pdf
けれども、恐らく、欧米を訪問をしたことが一度もない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B9%96%E5%8D%97 前掲
ばかりか、文献で確認したり欧米通に問い合わせたりすることすら怠り、こんな戯言を吐いたのでしょう。
 「実証学派の内藤湖南」という評判(上掲)が泣く、というものです。(太田)

 支那で工業といえば、江南地方の絹織物などは幾らかこれに近く、産額も大なるものであるけれど、実はある階級の人の需要に応ずるために、価格を問わない手工品を造る組織であって、・・・要するに天産の豊富と、従来交通が便利であるということ、幾千年来商業の機関が割合に発達したということからして、貴族的生活にそういうものを用いるのが当然となっておるので、真成の工業の発達を来さないのである。」(133〜134)

⇒こんな理屈が罷り通るのなら、イギリスでは工業が発達しなかったはずだ、ということになってしまいます。
 こんな調子では、処々にその慧眼を感じるとはいえ、内藤は到底学者の名に値しないのであって、文部省が、学歴のない、つまりは、学問的訓練を受けていないところの、彼の京大招聘に反対した(前出)のは正論であった、ということになりそうです。
 そんなところにも、東大と比較した、京大の自由闊達な学風のメリット(ノーベル自然科学賞受賞者の排出)とデメリット(エセ学者の多さ)とを感じます。(太田)

(続く)