太田述正コラム#7662(2015.5.13)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その6)>(2015.8.28公開)

 「満州人のごとく既に大多数を挙げて支那の内地に入ってしまい、そうして自分の元の根拠地は、却って支那の移民のために奪われてしまっておるというような民族にあっては、やむを得ず支那人の中に同化して、そうしてその生存を図らなければならぬのであるけれども、蒙古とか西蔵とか、それから土耳其<(トルコ)>種族というものになると、従来清朝の時において支那に服属しておったところが、自分の頭の上の重みが緩むと同時に、たちまち独立心を起こすのは当たり前のことである。元来が蒙古人でも西蔵人でも支那に服従しておったというのは、すなわち満州の天子に服従しておったので、・・・漢人が打ち立てた国に服従するという考えは最初から無かったのである。・・・
 <よって、支那の>大勢は既に解体する方に傾いておるのである。そうしてこれらの民族というものが、もし自分で独立して国を成し得れば格別であるけれども、成し得ない以上は、つまり近い所の強国に頼って、そうしてその国を一時成り立たせるというような傾きを生じて来る。すなわち外蒙古がロシアに頼り、西蔵がイギリスに頼るというようなことになって来るのである。」(66〜67)

⇒予想が概ね中っており、内藤の慧眼を感じます。
 なお、内藤自身も意識しているように見受けられますが、モンゴルないしチベットとウィグルとでは事情がいささか異なるのであって、ウィグル地区は、モンゴル地区ないしチベット地区とは違って、1884年に、自治権が剥奪されて新疆省が設置され、清の直接支配下に入っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB (太田)

 「ヨーロッパなどの諸国が植民地をもって、そうしてそこの各種族を統轄するのに、自分の本国の利益、すなわち詳しく言えば、本国の経済上の発展などを目的とするとは違って、支那人は異種族の土地を包括してその版図とするについては、さらに経済上の利益ということを考えない。いずれ不利益ということを初めから覚悟してやっておる。それが外国から種々貢物を持って来ると、関らずそれより以上の賞賜と称して返礼のものをやるというような例になっておる。蒙古人でもあるいはその他の人種でも、自分の独立という多少の名誉心を捨てて、そうして支那の封爵を受け、永くこれに服属しておったというのは、皆この経済上の利益から割り出されておるのであって、支那は宗主国としては他の国に見難いほど寛大なる国である。それで今日以後西蔵がイギリスに支配され、それから蒙古がロシアに追い追い支配されるようになって来ても、それらの国が果たして従来の支那くらいに優待をし、永く続き得るかどうかということは疑問であ<る。>」(68)

⇒外蒙古が独立し、チベットの自治問題がくすぶり続けている現在、内藤の慧眼を感じます。
 以下、私見です。
 朝貢(注7)形式での周辺諸「国」「支配」は、漢人が墨家の思想をホンネでは信奉しており、平和志向的にして唯物主義的であったことに由来します。

 (注7)支那の歴代漢人ないしは漢人化王朝は、「周辺諸国の夷狄たちが、「中国の徳を慕って」朝貢を行い、これに対して回賜を与えるという形式<をとった>。朝貢を行う国は、相手国に対して貢物を献上し、朝貢を受けた国は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜する・・・<のだが、それは、>仮に周辺の異民族を討伐して支配下に置いたとしても、生産性の低い地域に支配領域を広げるだけで、税収よりも軍事支配のためのコストのほうが上回る事になる<、という計算に基づいていた。>・・・
 冊封により中国王朝の臣下となった冊封国は原則的に毎年の朝貢の義務があるが、冊封を受けていない国でも朝貢自体は行うことが出来た。例えば遣唐使を送っていた当時の日本がそれに該当<する。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2

 このような「支配」が成り立つためには、周辺諸国が少なくとも唯物主義的であることが前提条件であり、「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と信じていたところの、好戦的で非唯物主義的・・この場合は権力志向的・・なチンギス・ハーン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3
のモンゴルには通用せず、ついに漢人化することのなかったモンゴルに支那は征服されてしまうのです。
 幸か不幸か、こんなモンゴルによる支那統治は、100年足らず(1271〜1368年)で終わり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
漢人文明は破壊されずに生き残るのですが、こんなモンゴルによる直接的間接的統治が2世紀半(13世紀前半〜15世紀後半)も続いたロシア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%81%8F%E3%81%B3%E3%81%8D
は、好戦的で非唯物主義的(権力志向的)になったという意味では、その間にモンゴル化してしまった、という捉え方もできるのであって、爾来、(累次、申し上げてきたように、)ロシアは、安全保障フェチとして、ひたすら緩衝地帯の拡大を目指す衝動に突き動かされたまま、現在に至っているわけです。
 但し、モンゴルの統治とは違って、ロシアは、モンゴルの統治を受けた時の苦しみから学び、統治にあたって、非ロシア人を奴隷化したりすることは(「犯罪」者や戦争捕虜を除いて)なく、また、(これも累次申し上げてきたように、)非ロシア人から収奪するどころかロシアのカネをつぎ込んで非ロシア人を懐柔することを旨としています。
 すなわち、支那もロシアも、辺境に対しては持ち出しの帝国運営を行うという点では一見似ているのですが、それを支える「思想」は対蹠的なのです。(太田) 

(続く)