太田述正コラム#7660(2015.5.12)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その5)>(2015.8.27公開)

 「唐の時までは、ある天子の系統が国を支配するということになると、一国の人民は、その天子の家族並びに名族の奴隷というような姿になるのであって、その人民には私有権というようなもの、それから身体の上にも個人の自由の権利を認められておらぬ。・・・
 ところが宋の頃になってからは、幾らか人民の私有権を認めるようになってきた。」(46〜47)

⇒このくだりも、現在の日本の通説とは相いれません。
 内藤の言う「私有権」や「自由権」に関しては、下掲のように、アヘン戦争の頃まで、概ね変化はなかった、と考えられているからです。
 (秦から清(の中期)まで、概ね変化がなかったというのが中共の公式史観でもあることは、まことに心強いと言うべきか・・。
 私の、支那停滞史観は、日中の現在の通説と合致している、ということです。)
 「中華人民共和国<では、時代区分は、>・・・原始社会(原始社会と氏族社会時期)--奴隷社会(夏、商、周三代及び春秋時期)--封建社会(秦からアヘン戦争までの時期)--半封建半植民地社会(アヘン戦争から中華人民共和国の建立まで)--社会主義社会<とされている。>・・・
 中国の封建社会の概念は、中世ヨーロッパのような「王への忠誠を基盤にまとめられた貴族(地方領主)によるピラミッド的支配構造」・・・という封建制度(feudalism)とは違って、むしろ中央集権的、専制的な官僚統制が特徴であった。この意味で、中国の秦から清の時代までの歴史段階を「封建社会」と呼ぶと妥当であるか疑問視されている・・・<が、>本稿で<は、中華人民共和国公定の時代区分>に従う。
 最初の原始・・・社会では土地占有の概念が存在しなかった。氏族社会が出現してから土地占有の観念が強まったものの、土地の公有と共同耕作が原則とされた。
 紀元前21世紀、中国初の奴隷制国家「夏」が樹立された。・・・
 紀元前221年、初の封建制国家の秦<が>樹立<された。>・・・
 <しかし、>奴隷社会における"普天之下、莫非王土"の原則が封建社会にも受け継がれた。・・・
 <すなわち、>歴代の皇帝はもれなく・・・すべての土地の最終処分権や・・・すべての人々に対する直接課税権を有していた。・・・
 <かかる>封建的土地所有・利用制度は、中国最後の封建王朝の清まで基本的に継続された<のである>。」
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/bitstream/10097/40891/1/KJ00004863339.pdf
 
 「宋になる<と、>・・・科挙<に合格して>・・・進士になった者・・・ばかり<で>官吏<が構成され>るようになった。科挙の準備としては、詩賦を作ったり、四書文やら、策論を作ることを稽古するくらいであって、実際民政の上については少しも研究をしない。・・・それで・・・官吏は、・・・盲判を押すということになって、・・・胥吏(しょり)・・・が実際上の民政を知っておって、権力を握<り、>・・・私腹を肥やす・・・ということになって来た。・・・
 日本の士族のような教育も受けず、また士族としての品格をもっておらぬ・・・けれどもとにかく人民に近附くものが勢力を得るということになっておるから、これがもう一歩進むと人民が勢力を得るのである。・・・
 そこへ<外国から>共和政治の思想が入ったのであるから、実はまだ人民の政治上の知識の準備としては、共和政治を組織するには十分ではないけれども、とにかく元の貴族政治に復るよりか、新しい政治に入る方が自然の勢いなのでそれで今度の<辛亥>革命というものが、支那の状態から見ると突飛なようであるけれども、新しい局面に向かって進んで来たのである。これは大体世界の大勢であるといってもよい・・・」(48〜51)

⇒内藤の書きぶりでは、腐敗していたのはあたかも胥吏だけのようですが、「科挙に合格して官吏となるのは、貧しい者でも個人の才能で社会的地位と・・・賄賂や付け届けによる多額の非公式な収入<でもって>・・・財産を築く、確実な手段であった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99
のですから、腐敗していた点では、進士あがりの官吏も全く同じでした。
 ちなみに、「腐敗撲滅は現代においても、依然として中国の為政者にとっての最大の課題」である(上掲)ことは、皆さんも先刻ご承知でしょう。
 また、内藤は、「支那発展史観」というお伽噺的史観に沿うよう、科挙の下でも長期的には共和(民主主義)政治への趨勢が見られた、というウソ・・現時点においてすら、支那(中共)は全く民主主義化していません!・・をつかんがために、「科挙に合格しさえすれば、だれでも政権の中枢に到達できるため、当時の中国教育の中心は科挙のためのものとなり、儒学以外の学問への興味は失われがちだった。また、科挙に合格するための教育が主流であった中国では、学習者はある程度の地位や財力を持つ者に限られた。さらに、科挙の本質は文化的支配体制の確立であったため、権威は権力と密接し、論争的・創造的学問は排除された。」という、科挙の根本的問題点(上掲)から目を逸らせてしまっています。(太田)

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[科挙の世界史的意義]

 私は、科挙に関する日本語ウィキペディアの批判的なスタンスが妥当だと思っているが、世界的には、科挙(Imperial Examination)は高い評価を受けている。
 科挙を参考に、英国は19世紀にインド帝国官僚登用試験を始め、その後、英本国でも官僚登用試験を始めるに至り、次第に他の欧米諸国にも普及した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_examination
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(続く)