太田述正コラム#7658(2015.5.11)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その4)>(2015.8.26公開)

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[秦におけるタテマエ論としての法家の思想の採用]

法家の思想の秦、その次の儒家の思想の漢、というのは、どちらもタテマエに過ぎず、ホンネは一貫して墨家の思想である、とかねてから申し上げてきたところ、221年に秦が(当時の)支那を統一したわけだが、それよりも1世紀以上前、秦は、まだ戦国時代で覇を争っていた時代に、商鞅の手によって法家の思想による統治が開始されたことになっているけれど、最初からそれがタテマエでしかなかったことが、下掲から分かる。

 「商鞅<は、>・・・前349年・・・、太子の嬴駟(えいし)(後の恵文王)の傅(後見役)である公子虔が法を破ったのでこれを処罰する事を孝公に願い出た。公子虔を鼻削ぎの刑に処し、また教育係の公孫賈を額への黥刑に処し、さらにもう一人の太子侍従の祝懽を死刑に処した。・・・恵文王自身も太子時代に自分を罰しようとした商鞅に怨恨を持ってい<た>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85

 上掲の日本語ウィキペディアからははっきり読み取れないが、下掲の英語ウィキペディアからは、太子時代の恵文王が処罰されるべき非違行為を行ったにもかかわらず、本人は処罰されず、取り巻きだけが、(これまた商鞅が導入していた)連座制でもって、死刑を含む残虐刑を受けたことがはっきり分かる。

 「商鞅(Shang Yang)は、「<太子といえども、>あたかも普通の市民であるかのように、非違行為に対して<本来>処罰されるべきだとしたことで」新しい公<(恵文王)>を辱めたことがある。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Shang_Yang

 つまり、秦においては、(一般に古今東西、無答責とされる、)君主だけならいざしらず、君主の係累までもが、法の外(上)に置かれていた、ということだ。
 こんなものは、法家が唱える法治主義ではない。
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[支那史における被治者のための政治という観念の欠如]

 商鞅が被治者の福祉などに関心がなかったことは、下掲からも明らかだろう。↓

 「はじめ・・・商鞅変法<に>・・・不満を漏らしていた民衆たちも手のひらを返したように<、やがて、>賞賛の声を揚げたが、公孫鞅は「世を乱す輩」として、容赦なく辺境の地へ流した。これにより、法に口出しする者はいなくな<った。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85

 王安石の新法も、あくまでも税金の増収と経費削減を目指したものであり、被治者達のためという視点はなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B3%95%E3%83%BB%E6%97%A7%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84

 また、「康<有為>が戊戌変法に際し立憲君主制の樹立を目指したとする通説的見解は<、三権分立、人権、議会制、等に関心を示していないことから、>成り立た<ない。>」(佐々木揚『康有為と梁啓超の憲法観--戊戌前夜から義和団事件後まで--70〜71)
http://www.osaka-ue.ac.jp/file/general/6430

 以上の諸事例だけでも、日本やイギリスにおけるような被治者のための政治という観念が、支那史において存在しなかったことが推認できる、というものだ。
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 「近世君主の独裁権力の施行は、清朝においては帝位継承のことにまで及んでおる、清朝でも初めは皇太子を立てておったが、康熙帝<(注6)>の時に皇太子たる理密親王が失敗をしたために、その後には皇太子を立てなかった。・・・

 (注6)Kangxi Emperor(1654〜1722年。皇帝:1661〜1722年)。英語ウィキペディアからは、後継者の選定に失敗した行きがかりで、遺言で後継者を指名しただけのように見える。
http://en.wikipedia.org/wiki/Kangxi_Emperor

 <爾後、>長男次男三男に拘らず、・・・同等<に扱い、>・・・天子の遺言<が開示され>るまでは、誰が相続者になるかということが分からぬように<なった。>清朝の天子で歴代甚だしい暗君の出なかったのは、そういう習慣の結果であ<る。>・・・

⇒当時の情報量が現在よりも乏しかったであろうことを斟酌したとしても、このくだりの内藤の主張はまことにおかしい。
 まず、清の太祖であるヌルハチの子孫達は、下掲のように、長子継承制をとらず、また、生前継承者の指名も行わなかったことが分かります。↓
 「ホンタイジが急病で遺言を残さずに崩御した。ホンタイジの長子は粛親王ホーゲ(豪格)であったが、叔父の睿親王ドルゴンを推す一派もあり、双方の牽制の結果、ホーゲの異母弟である6歳のフリンが・・・順治帝<(皇帝:1643〜61年)>・・・とな・・・<り、支那全土がほぼ清の支配下に置かれるに至っ>た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E6%B2%BB%E5%B8%9D
 この順治帝は、支那文明大好き人間であり、支那式の統治を心掛け、宦官と漢人官僚を重用しました。
 彼は、21歳で天然痘で亡くなる間際に遺言を残し、(恐らく天然痘を克服していたからと考えられていますが、)第三子、後の康熙帝、を継承者に指名するとともに、この部分は偽造の疑いが強いのですが、統治方式を支那式から満州式に戻すよう求めた、とされています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Shunzhi_Emperor
 このように、支那文明フェチであったにもかかわらず、順治帝が、前の明王朝に至る、漢人王朝の長子継承制をとることを宣言し、長子たる皇太子を指名していなかったことが、統治方式の満州式への復古をもたらし、これが清衰亡の伏線になった、と私は見ています。
 このことを象徴的に示しているのが、上述のような、康熙帝における、継承者選びの優柔不断さです。
 その後遺症が、康熙帝の継承者たる雍正帝をして、致命的な継承制を採用させることになります。
 (内藤は、採用したのは康熙帝だと言っていますが、雍正帝なのです。しかも、内藤はそれがよかったと言っていますが、それが、清の衰亡を決定付けたのです。)
 すなわち、「皇位継承の暗闘を経験したことから、雍正帝<(皇帝:1722〜35年)>は皇太子を擁立しない方針を決め<てしまい>」ます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%8D%E6%AD%A3%E5%B8%9D
 この雍正帝の継承者たる乾隆帝は、死んだ時に継承者が明らかになるのも、退位した時に継承者が明らかになるのも同じだと思ったのでしょう、下掲のように、(漢人王朝では決して見られなかったところの、)退位を敢行し、その折に継承者を指名した結果、2人の皇帝が並存するに等しい状態となり、責任の所在が不明確となって、清は衰亡へと転がり落ち始めるのです。
 すなわち、「179<6>年、治世60年に達した乾隆帝<(皇帝:1735〜96年(1799年))>は祖父康熙帝の治世61年を超えてはならないという名目で十五男の永琰(嘉慶帝)に譲位し太上皇となったが、その実権は手放さず、清寧宮で院政を敷<き>・・・宮廷内外の綱紀は弛緩した。晩年の乾隆上皇は王朝に老害を撒き散ら」すのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%B8%9D
 「清の滅亡の萌芽はまさに・・・嘉慶帝<(皇帝:1796(1799)〜1820年)>・・・の時代<・・より的確には、乾隆帝の時代・・>にあったと言える」のではないでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E6%85%B6%E5%B8%9D
 結局、清は、支那のそれまでの遊牧民ないし半遊牧民系の征服王朝・・但し、元を除く・・とは異なり、皇帝継承制に象徴されているように、漢人王朝になり切れなかったことから、順治、康熙、雍正、乾隆のわずか4代で、命脈が尽きた、と言うべきであって、そんな清が、その後、1世紀以上生き延びたことの方が不思議である、ということです。(太田)

 <このような>清朝の政治などは、・・・独裁政治としては理想的であるが、その臣僚というものには何人にも完全な権力が無い代りに、完全な責任も無いのである。・・・<そのため、>一旦内乱外寇が起ると、既にそれを支える力が無くなって来る。・・・
 阿片戦争とか、英仏同盟軍の北清侵入とか、その他近年に及んでも続々起ったところの外国交渉の難件は、皆当局大臣が責任を完全に負わずして、そうして一時遁れをするために、その事件が大きくなって、とうとうそのために国力が弱って、清朝が滅亡するようになって来たのである。
 支那の国が弱いというけれども、・・・何もその兵卒の素質が悪いというのでなくして、ただ責任の無いところの長官に支配されておるためであって、兵卒の素質などは大変に優良だと言われておるくらいである。」(41〜44)

⇒長子継承制が確立されておれば、次第に、「有能」な皇帝ばかりにはならないという前提の下、皇帝は(漢人化しておれば、ですが、)象徴的存在に祭り上げられて行き、官僚機構が実質的に政治を切り盛りして行く体制ができて行ったはずなのに、長子継承制が確立されなかったおかげでそうはならなかった、ということなのに、内藤は、何とピント外れのことを言っていることでしょうか。
 なお、ここでは、立ち入りませんが、内藤は、自分自身の目で確かめれば、まさに、「兵卒の素質が悪い」ことに、すぐ気付いたはずです。(太田)

(続く)