太田述正コラム#7652(2015.5.8)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その1)>(2015.8.23公開)

1 始めに

 『超マクロ展望--世界経済の真実』を読むシリーズの連載再開や同じくMHさん提供の、マイケル・ルイス『世紀の空売り』のシリーズ開始も考えたのですが、どちらも、今一つ気が乗らず、さりとて、これといった、新しい洋書の書評にもこのところ遭遇していないことから、しばらく前に自分で買ったところの本を取り上げた、表記のシリーズを立ち上げることにしました。
 要は、戦前の日本人の代表的な支那観を押えておこう、ということです。
 なお、著者の内藤湖南(1866〜1934年)は、南部藩士の家に生まれ、秋田師範学校卒後、記者、編集者を経て、大卒でないことで文部省に難色を示されつつも、当時の学長が押し切り、京大文学部講師、教授となり、「中国史の時代区分を唐と宋の間を持って分け・・・秦漢時代を上古と規定し、後漢から西晋の間を第一次の過渡期とし、五胡十六国時代から唐の中期までを中世とする。そして唐の後期から五代十国時代を第二の過渡期とし、この時代をもって大きく社会が変容したと<主張し、>邪馬台国論争については、白鳥庫吉の九州説に対して、畿内説を主張し、激しい論争を戦わせた」、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B9%96%E5%8D%97
という人物であり、『支那論』は、1914年(大正3年)に上梓されています。(この本の「自叙」)

2 内藤湖南の支那論

 (1)本文

 「<支那の歴史は、>貴族政治から・・・君主独裁政治に傾いて来た・・・。・・・
 <初期の>支那の政治は独り貴族の団体の把握するところであって、平民はもちろん全くこれに与らない。そうして天子というものも、その貴族の中のある一家族が、時々代り合ってその地位を占めるのであって、君主の地位というものは、貴族よりも特別に懸け離れたところの、侵すべからざる神聖のものという意味にはなっておらなかったのである。・・・
 <これは、>封建時代で列国が分かれておる時のことであるが、秦・漢以後、統一政治の世となっても、未だ全くこの風を脱しない。ただし秦・漢以後はこの貴族政治に幾らか君主独裁、並びに平民政治の意義を加味しておったことは事実であるけれども、これは戦国の後を受けた実力本位時代の余波と、並びにその時に産出した政治上の理想で加味するのであって、その実際においては、やはりいつでも権力は貴族の手中にあるのである。」(24、26)

⇒封建時代→絶対王政→民主制、という欧州史の枠組みに支那史を無理やりあてはめようとしている、という印象を受けます。
 ところで、「秦・漢以後は・・・平民政治の意義を加味しておった」で、内藤の念頭にあったのは、秦が倒れるきっかけとなったのが紀元前209年の陳勝・呉広の乱であった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%8B%9D%E3%83%BB%E5%91%89%E5%BA%83%E3%81%AE%E4%B9%B1
ところ、陳勝と呉広は農民出身で、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%8B%9D
漢王朝を樹立した劉邦は、父親は農民、本人は侠客だった、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%A4%AA%E5%85%AC
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%82%A6
という事実でしょうね。(太田)

 「唐<の時代に至っても、>時の天子が臣下の上奏に対する批答(申請に対する可否の理由を付した回答)は、今も遺っておるが、すべて同輩の扱い、友誼的の言葉使いで、明代などのような奴僕扱いは決してせぬのでも、当時の情態が分るのである。
 この形勢が一大変化を来したのは、唐の中頃からであると云ってよい。・・・<その背景には>武人の勃興<があった。>・・・支那においては・・・武人・・・は、日本とは違って、大抵は・・・地方に土着しておった者から成り立・・・<っ>ておる。元来武官を卑しんで、名族はそんな職業はせぬのと、<南北朝時代の>北朝以来、蕃夷から武人が多く出たので、微賤な者から武人が出ると相場がきまるようになって来た。唐で武人の勢力が盛んになったというのは、所謂藩鎮の制度の結果である。すなわち各地方に置いたところの節度使が、内乱に依って段々勢力を占めて来て、そうしてそれがとうとう官職を世襲する傾きを生じて来たのに起因しておる。」(31〜32)

⇒内藤の言うような批答の言葉使いの変化が本当に起こったのかどうか、ネットにちょっとあたってみた限りでは分かりませんでしたが、それが本当だとしても、起こったのは唐の中頃というよりは、明の洪武帝(朱元璋)による皇帝独裁制の成立時ではないか、と推察しています。
 洪武帝が、明初頭に北虜南倭・・北の北元と南の倭寇の脅威・・に対処すべく、支那史上珍しくも、国全体を有事体制に置くことを余儀なくされたことが皇帝独裁制樹立の背景にある、と見るわけです。
 それが有事体制であった証拠に、洪武帝によって、特務機関を使ったところの、12年間にわたる国内粛清、後世に言うところの「胡藍の獄」、が断行され、10万人もの功臣等が虐殺されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%97%8D%E3%81%AE%E7%8D%84
 ちなみに、私は、倭寇について、少なくともその初期においては「元寇の報復説」がもっともらしいと考えており、この倭寇が、支那においては洪武帝による皇帝独裁制の成立、そして、朝鮮半島においては(倭寇討伐で名声を得た李成桂の)1392年の高麗王朝の打倒と李氏朝鮮の建国、をもたらす大きな要因となった、と見ている次第です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87 (←事実関係のみ。)
 なお、貴種を戴いた日本の武人とは異なり、支那で「微賤な者から武人が出る」ようになった理由として内藤が挙げる理由は誤りであり、背景には、墨家の思想、更にはこの思想が立脚しているところの、支那人の唯物主義がある、というのが私見であることはご存知の通りです。(太田)

(続く)