太田述正コラム#7648(2015.5.6)
<『日米開戦の真実』を読む(その15)>(2015.8.21公開)

 「日本が支那の領土保全を不動の国是としてきたのは、その奥深き根底を、日本人の真心に有しております。・・・

⇒ここはその通りです。
 開国してからの日本は人間主義的対外政策を遂行してきたところ、共産主義にかぶれた(コラム#7645)大川でさえ、根底において、平均的日本人並の人間主義者であったことから、それぐらいのことは感知できた、ということでしょうね。(太田)

 支那は、この赤誠より迸れる日本の政策のために、イギリスの、またはロシアの奴隷となり果てずに済んだとは申せ<ます。>・・・

⇒ところが、共産主義かぶれの大川が邪魔をして、はや、脱線気味です。
 最低でも、「イギリス」と「ロシア」の順序が逆でなければならないところ、正解は、「支那は、」「イギリス」と連携するという「日本の政策のために、」「ロシアの奴隷となり果てずに済んだ」のです。(太田)

 イギリスの巧妙なる搾取と相並んで、今やボルシェヴィズムの暗い力が新たに支那の舞台に現れ、衰えたる支那をその勢力の下に置きはじめたので、支那の文化は破壊崩壊に対して、ますます無抵抗に曝されるに至ったのであります。

⇒このラジオ放送/本は、(大川自身と日本政府(外務省)の同床異夢の理由から、)対露/対赤露抑止という基本中の基本に触れないことによって、その全体が(それぞれ、東亜赤化ないし吉田ドクトリン化の魂胆を秘めた)お伽噺めいたものに堕してしまっていますが、このわずかワンセンテンスだけに(うっかり?)リアリティが紛れ込んだ、と言えるでしょう。(太田)

 日本は自国の文化と、支那において脅かされつつある東洋文化を救うために、あらゆる努力を続けて戦い来れるにかかわらず、支那は起って我らと共に東洋を護り、アジアを滅ぼす勢力と戦わんとはせず、かえって刃を我らに向け来たのであります。そして、東洋の敵たる英米と手を握り、今なお東洋を救いつつある日本と戦い続けんとするのであります。・・・

⇒ただちに、露/赤露は姿を消し、英米だけが敵、というお伽噺の世界に逆戻りです。
 いくら赤露(ソ連)と中立条約を結んでいるからと言ってもあんまりではないでしょうか。
 ところで、大川の明晰さを欠く頭の中ですが、これに続く下掲の箇所も踏まえれば、インド文化(仏教文化)+支那文化=東洋(支那)文明≒日本文化、といったカンジでなのしょうね。
 (東洋「文化」は東洋「文明」じゃなきゃいけません!)(太田)

 今や世界史の進展は、東洋の敵たる英米と日本との明らさまなる戦争となり、従ってこの新秩序の範囲を印度にまで拡大し得る形勢となったことは、我々の欣喜に堪えざるところであります。大東亜すなわち日本・支那・印度の三国は、すでに日本の心において一体となっております。我らの心理に潜むこの三国を、具体化し客観化して一個の秩序たらしめるための戦が、すなわち大東亜戦であります。」(296〜297、299〜300)

⇒「ご馳走さま」と言ってあげたいのはやまやまなのですが、不味かったでー、ゲップ、といったところですね。(太田)

 (5)佐藤の「21世紀日本への遺産」よりから

⇒最後に、117頁に渡って佐藤の独演会が繰り広げられます。
 読まずにおこうと思いつつ、つい斜め読みしてしまったので、断片的に若干の引用とコメントを付すことにしましたが、佐藤は、(この部分に限らないけれど、)大川以上に頭の中が整理されていない印象を受けました。
 とりわけ、第四章「歴史は繰り返す」(302〜338)から第五章「大東亜共栄圏と東アジア共同体」の前半(339〜364)までは、引用に値する箇所が皆無の、読んでいてこちらが恥ずかしくて赤面するような、混乱した、或いは生煮えの記述に終始しています。(太田)

 「筆者が見るところ、大川周明、廣松渉<(注18)>、田中均の三氏には、大東亜共栄圏、東アジア共同体を構成する地域の人々の共通意識が前提となっている。
 大川の場合は、「やまとごころによって支那精神と印度精神とを総合した東洋魂である。・・・

 (注18)1933〜94年。東大文卒、同大博士課程単位取得退学。後、一度離れていた日本共産党に復党するも再び離党。「共産党と敵対する共産主義者同盟(ブント)が結成されると以降、理論面において長く支援し続けた。・・・1973年に大森荘蔵の要請で東京大学教養学部の非常勤講師となり、1976年に助教授、1982年に教授に就任した。1994年3月に東大を定年退職。・・・1994年3月16日の朝日新聞夕刊において、「東北アジアが歴史の主役に  -日中を軸に“東亜”の新体制を」と題した論説を発表し、「アメリカが、ドルのタレ流しと裏腹に世界のアブソーバー(需要吸収者)としての役を演じる時代は去りつつある。日本経済は軸足をアジアにかけざるをえない」と主張した。また、日中を軸とした東亜の新体制が「日本資本主義そのものの抜本的な問い直しを含むかたちで、反体制左翼のスローガンになってもよい時期であろう」とも唱えた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9D%BE%E6%B8%89

⇒それを裏付ける箇所は、大川のラジオ放送/本の中には出てきません。
 先ほどお示しした、私なりの整理でよいのではないでしょうか。(太田)

 廣松の場合は、[先の大戦]の結末、新たな時代を担う共産主義的人間が生まれてくると[京都学派の人々は]考え[たと見]る、その原理となるのが欧米のポスト・モダン思想と神話的な「関係主義」だ。つまり、日本人、中国人という固定的観念を打破して、それぞれの人間の相互関係が築くネットワーク状のコミュニケーション形態で、これまでの民族や国家の壁を打破する新しい人間共同体が生まれてくるとの仮説だ。

⇒MHさんがこの本を提供してくれたおかげで、戦後の吉田ドクトリンへのリンチピンとも言うべき、大川の1941年の開戦直後のラジオ放送の存在を知ったわけですが、それに加えて、佐藤が紹介した廣松のこの考えを知ることができたのは望外の喜びです。
 もちろん、廣松の名前や彼の著書の何冊かのタイトルは前から知っていたのですが、日本のマルクス主義者が書いたものは基本的に読まないことにしていたこともあり、彼が、晩年、こんな考えに到達していたことは全く知りませんでした。
 (「注18」に登場する大森荘蔵教養学部教授の「哲学概論」の授業を私は駒場時代にとっています。)
 何せ、私の現在の考えと廣松の晩年の考えが殆んど同じなんですものね。
 (なお、[]内は私が言い換えたり付加したりしてみた箇所です。そうでもしない限り、佐藤が何を言っているのか理解不能だったからです。)(太田)

(続く)