太田述正コラム#7622(2015.4.23)
<『日米開戦の真実』を読む(その5)>(2015.8.8公開)

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[ヒュースケン暗殺事件とシュワード]

 ハリスの秘書兼通訳を務めていたオランダ人のヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン(Henry Conrad Joannes Heusken。1832〜61)は、1861年1月14日に、江戸の芝薪河岸の中の橋付近で攘夷派『浪士組』所属の薩摩藩士らに襲われ、翌日死去した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%B3
が、「ハリスは夜間外出制止の忠告を聞かずこの難ににあったのは彼にも責任があると、他の四ヶ国のように、一方的に幕府を責めることはしなかった。・・・
 <英国>公使オールコックやフランス公使ド・ベルクールは、外国人命保護の不備に抗議し、ハリスにいわせると身の危険を感じて、江戸を退去して横浜に移った。しかし、ハリスはイギリス公使オールコックと激越な論争をして、幕府に対する報復策に反対、ひとり江戸をはなれなかったため孤立するが、まもなく各国公使も江戸にもどる・・・。
 <米>国務長官シュワードは軍艦をさし向け示威行動をとらせようと議会に提案したが、南北戦争直前のことで実現しなかった・・・。<支那>での戦争が終わる<(注6)>と、<英国>は40隻もの艦隊のなかから、ジョーンズ副提督がわずか3隻の軍艦を日本に向かわせた。オールコックは大いに不満であった。・・・

 (注6)(天津条約にひき続く)北京条約締結(1861年10月)によるアロー戦争(1856〜60年)の完全収束
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E6%88%A6%E4%BA%89
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E6%9D%A1%E7%B4%84
のことを指しているのだろう。

 この翌年の5月、こんどは<英国>公使館が襲撃される。<(注7)>」
https://books.google.co.jp/books?id=1_-nwnlDrgYC&pg=PA192&lpg=PA192&dq=%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%EF%BC%9B%E5%9B%BD%E5%8B%99%E9%95%B7%E5%AE%98&source=bl&ots=2ExAjangGo&sig=oA-Mk0k533eect1uCeMO7QcwwpA&hl=ja&sa=X&ei=mXc3VcKBGMTAmQWxuIGQDw&ved=0CE4Q6AEwBw#v=onepage&q=%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%EF%BC%9B%E5%9B%BD%E5%8B%99%E9%95%B7%E5%AE%98&f=false

 (注7)第二次東禅寺事件。1861年5月にも同様の英国公使館襲撃事件(第一次東禅寺事件)が起こっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%A6%85%E5%AF%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒筆者はハリスに肩入れしているように見受けられるところ、(ずっと後の1927年の第一次南京事件の時に、日本の幣原外相の事なかれ主義的対応によって列強の足並みが揃わなかった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1927%E5%B9%B4)
ことが、支那の泥沼的状況の長期化をもたらしたのと同様、)この時の米国のハリス駐日公使の素人的対応によって列強の足並みが揃わなかったことが、幕府倒壊を遅らせ、その間、日本は数多の有為な人材を混乱の中で失うこととなった、と言えよう。(太田)
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 「日清戦争は東亜政治史全体の偉大なる転回点となったのであります。すなわち日本に敗れた支那が、この時初めて封建支那の無力と解体とを全面的に暴露したのに乗じて、あたかもこの頃に台頭し来れる帝国主義が、孤立無援の支那を掠奪の対象として、激しく殺到しはじめたのであります。そして、これと共にアメリカの東洋政策も俄然面目を改めたのであります。・・・
 この新しき帝国主義の最も勇敢なる実行者は、今日の大統領フランクリン・ルーズヴェルトの伯父セオドア・ルーズヴェルトであり、その最初の断行が、1898年の米西戦争を好機として、フィリピン群島及びグアム島を獲得したことであります。」(48〜49)

⇒自分の思い付き史観と辻褄を合わせるため、大川は、あえて同じ1898年における米国によるハワイ公式併合に触れていません。
 それより4年前の1894年に、米国は、事実上、ハワイを併合していることから、舌を噛んでしまうので触れるわけにはいかなかったのでしょう。
 すなわち、定番的なやり方ですが、ハワイ駐留米公使と在ハワイ米国人や米国系ハワイ人の策謀の下、米海兵隊を上陸させる等の後、彼らは、同年に、米国系ハワイ人を大統領とする政権を樹立し、「東洋人に対し選挙権や市民権をあたえず、公職勤務を禁じるいっぽう、白人団体が多くの点で権力を保持できるよう配慮され・・・た」憲法を制定した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E4%BD%B5%E5%90%88
のです。
 なお、「日本政府は、アメリカによるハワイ併合の動きを牽制するため、1893年11月、邦人保護を理由に東郷平八郎率いる防護巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇<し、>・・・翌年には「浪速」を「高千穂」と交替させ<たが>、1894年3月、・・・<むなしく>撤収」しています。(ウィキペディア上掲)(太田)

 「日露戦争<後、しばらく経つと。>日本をもってアメリカの東洋進出を遮る大いなる障碍であると考えはじめ・・・この時より以来、アメリカは日本の必要止むなき事情を無視し、傍若無人の横車を押しはじめたのであります。」(61〜62)

⇒繰り返しめいて恐縮ですが、大川は、このスタンスを、ペリー来航時から、一貫して堅持すべきでした。
 まさに、ペリー来航こそ、米国が、当時で言えば、鎖国という「日本の必要止むなき事情を無視し、傍若無人の横車を押しはじめた」瞬間だったのです。(太田)

 「加州人は、盛んに排日法制定のために臨時議会を招集すべしと高唱し、加州知事がこれを拒絶すると、直接州民投票によって法案を通過させ、遂に邦人の借地権を奪い、不動産移転を目的とする法人の社員たることを禁じました。そして1924年には、さらに徹底的した排日法が制定され、かつ実施されるに至り、米国の排日派は思う存分にその目的を遂げたのであります。
 ただしこの日本人排斥は、決して心あるアメリカ政治家の意思ではなかったのであります。現に大統領ルーズヴェルトは、その子カーミットに宛てた手紙の中に「予は痛く対日策に悩まされている。加州とくに桑港の馬鹿者どもは、向こう見ずに日本人を侮辱しているが、その結果として惹起さるべき戦争に対して、国民全体が責任を負わねばならぬのだ」と申して居ります。」(80〜81)

⇒これも、「意図」と「能力」に分けてコメントすれば、排日の「意図」において、大統領を含む「心あるアメリカ政治家」も加州民も何ら変わりはなかったものの、「能力」において、(より俯瞰的に物事を見ることができる)大統領らとしては、その「意図」を当時の段階で実行に移す自信がなかった、ということに過ぎないというのに、大川は、曲芸的論理でもって、日本敗戦後の日米関係修復/自分自身の免罪、のための布石を打っていた、と非難されても仕方ないでしょう。
 いや、そうとでも解さないと、大川が、米国における、奴隷制への言及どころか、支那人差別への言及すら控えた理由が説明できない、というものです。
 「1882年・・・に<、当時、>他民族の<米国への>移住が無制限であった<というのに、米国は、時の>・・・大統領が署名した・・・<支那>人労働者の移住を禁ずる・・・<支那>人排斥法<(Chinese Exclusion Act)を制定した>」(注6)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E6%8E%92%E6%96%A5%E6%B3%95
ところ、その延長線上に「1924年移民法(排日移民法)」という「東アジア全体からの移民が禁じられ<た>」ところの、上出の法律が位置づけられる(ウィキペディア上掲)のですからね。

 (注6)「1902年には恒久的な措置として実施されることとなる。」これを受け、「1904年から1906年にかけて<支那>内で<米>国産品のボイコットが高まることとなる。一部推計によると<米>国から<支那>への輸出が半分以下にまで激減したという。」(上掲)

 つまり、有色人種差別/排斥の「意図」は、米国の白人のほぼ全員が共有しているのであり、ルーズベルトももちろんこの「意図」は共有していたであろうし、また、1924年排日法は、米国の対北東アジア戦略の変化を意味するものなどではありえない、ということです。(太田)

(続く)