太田述正コラム#7610(2015.4.17)
<『大川周明--アジア独立の夢』を読む(その12)>(2015.8.2公開)

 「一期生・大屋敷久男は岩畔機関ビルマ支部上本はんを経て1943年には、イギリス軍が迫るビルマ南西部、インド国境に近いアキャブ(現シットウェー)の町の出張所に転出した。ここで彼は・・・情報関係の任務に就いた。・・・
 アキャブ出張所には中野学校出身者の将校のほか、機関長に乞われて岩畔機関に入った丸山行雄、今井行順といった日本山妙法寺の僧侶、イスラム教徒でメッカ巡礼者に与えられるハジの称号を持ち、カイロのアズハル大学にまなんだ萱葺信正<(注31)>など、多彩な軍属がいた。

 (注31)「昭和29年に三菱商事の再起が叶<ったが、>・・・光機関アキャブ支部で塚本中尉と苦労をともにした萱葺信正氏(神戸針金社員)・・・を三菱商事に迎え入れることが出来たのも大きなプラスになった。氏は参謀本部の委託学生としてカイロ大学に留学し、英語、アラビア語、インド語に長じた有能の仁。三菱商事取締役、中近東監督として活躍中に不慮の事故で亡くなられたのが惜しまれる。」
http://www.yorozubp.com/netaji/academy/301negishi-j.htm
 カイロ時代に、息子さんを含め家族ぐるみでお付き合いのあった、あの萱葺さんではなかろうか。
 彼がイスラム教徒であったかどうか、勤め先がどこだったか、定かな記憶がないが、どなたか、ご存知の方は教えていただきたい。

 僧侶を置いたのは、インド人工作員をインド領内に送り込む際、仏教徒のビルマ人に殺される危険があるためで、同じ仏教徒として対ビルマ人工作を担わせる意図だったという。・・・

⇒終戦に至る昭和初期に大きな足跡を残した、宮沢賢治にせよ、石原莞爾にせよ、この日本山妙法寺にしても、また、戦後日本で大きな存在感を発揮し続けた創価学会にせよ、全て、日蓮宗関係です。
 どうして、日本の仏教各派の中で、日蓮宗だけが「生きている」のかについても、4月25日の東京オフ会の「講演」の中で「解説」する予定です。(太田)

 ビルマ・インド国境が早くも動揺しつつある一方、マレー半島の景勝地、ペナン島では工作員養成の特務班が訓練の日を送っていた。ペナンには海軍基地があり、潜水艦で工作員をインドに投入するに格好の場所として選ばれていた。特務班の別名は岩畔機関ペナン出張所で、中野学校出身者の金子昇大尉が取り仕切った。
 ここに三期生<3人>・・・が配属された。3人はインド班に所属した5人のうちの3人<だった。>・・・
 1943年2月、<チャンドラ・ボース(コラム#14、264、922、1249、1455、2021、3486、3496、3503、3698、3818、4553、4554、4576、4952、5382、5864、5868、7233)>を乗せたUボートがブレスト軍港を発った。ボースは荒れるインド洋上で日本海軍の伊号第29潜水艦に移乗、日本の保護下に入った。・・・
 ボース来着後の5月、岩畔機関は名称を光機関<(注32)>と改め、駐独の陸軍武官だった山本敏<(注33)>大佐が公認の機関長となった。この名称はヒンドゥー語で縁起のよい「ピカリ」という言葉と、「光は東方より」とのインドの伝説に由来していた。・・・

 (注32)光機関が「支援していたインド国民軍は自由インド仮政府軍に発展、一部はビルマの作戦に従事した。またインパール作戦の途中、大本営の遊撃戦重視への作戦方針変更に伴い、機関は南方軍遊撃隊司令部と改称し同時に、前述の各班の外参謀部・副官部・マライ支部・タイ支部・サイゴン出張所が設けられた。途中機関長が磯田三郎中将に交代するも、機関自体は終戦まで軍事顧問団として活動した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2
 (注33)「山本敏は・・・いつでも相手の煙草に火をつけてやれるように、ライターを3個、3つのポケットに分けて携帯しているようなタイプの人物であった。ドイツ語に<も>堪能<だった。>・・・開戦後、日本軍がマレー作戦を開始したというニュースが伝わると、ボースは、この山本敏に対し、・・・アジアへ帰って、日本軍とともに直接イギリス軍と戦いたい・・・と、その熱意を披瀝した。山本は、ボースの希望を大本営に伝えたが、東京からは、よろしいという返事がなかなかこない。それも道理で、欧州と違ってマレーシアでは、投稿インド兵による「インド国民軍」の編成がきわめて順調に進んでいたからである。・・・<ところが、>インド国民軍<内で、>・・・日本居住、日本化したインド人<達と、>・・・<彼らが>ひっきょう「俘虜」の分際と見がちで<あった者達との間で>対立<が生じたため、チャンドラ・ボースを>迎える<ことになった。>」
https://books.google.co.jp/books?id=VxMpC3kDbfcC&pg=PT88&lpg=PT88&dq=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%95%8F%EF%BC%9B%E5%A4%A7%E4%BD%90&source=bl&ots=T0kmwyl0Xa&sig=qymlADFshlFomFgl-6FItje4mH8&hl=ja&sa=X&ei=G-IwVcGTGOjHmAWloIGABw&ved=0CDAQ6AEwAw#v=onepage&q=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%95%8F%EF%BC%9B%E5%A4%A7%E4%BD%90&f=false

 11月5日、日本が"大東亜共栄圏"の国々の指導者を招いて「大東亜会議」を開催すると、ボースはオブザーバーとして参加した。・・・
 ボースの持つ戦局観は冷静そのもので、枢軸側の敗北まで予見していたようだ。彼は大川周明と会談した際、ドイツが敗北してもインドはイギリスと戦い続ける、そのためにはソ連と手を組んでもよいと断言した。・・・
 イギリスをインドから駆逐するためならわれわれは悪魔とでも手を握る<、と。>」(222〜224、227〜231)

(続く)