太田述正コラム#7604(2015.4.14)
<『大川周明--アジア独立の夢』を読む(その9)>(2015.7.30公開)

 「西川が海路から入った北部仏印進駐の裏側では、<あ>の印度支那産業が介在し、謀略が実行に移されていた。それは陸路、中国の南寧から仏印に入る第5師団・・・と軌を一にして、安南人の反仏武装組織、越南復国同盟軍(復国同盟軍)が蜂起するというものである。組織の代表は日本にいるクォン・デ<(注21)>であり、前年に上海で結成されていた。

 (注21)彊柢(Cuong De)(1882〜1951年)。ベトナムの「フエ(順化)にて、阮朝の始祖嘉隆帝(阮福暎)の長子・英睿皇太子阮福景・・・の直系4代目として生まれた。・・・クォン・デはベトナム独立を志し、革命家ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)の抗仏組織ベトナム維新会(・・・Vietnam Modernization Association)の党首の座に就く。チャウは1905年、独立への助力を請うため、日本へ密航する。翌年クォン・デもチャウを追って、日本へ上陸した。1951年(昭和26年)4月・・・亡命先である日本(日本医大病院)で客死。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87
 「太平洋戦争末期の・・・1945年・・・3月には、前年のヴィシー政権崩壊に伴い、日本軍が明号作戦を実行してフランス軍を制圧したことを受け、フランスからの独立を宣言してベトナム帝国を樹立し、その皇帝となった。
 当時の日本軍人の中には、日本へ亡命中の畿外侯彊柢をベトナム帝国皇帝に推す者も少なくなかったが、南方総軍や第38軍はベトナム新政権に不干渉の方針で、軍政を敷かないことや親日政権への改編をしないことを既に決定していたため、保大帝<(阮朝大南国の第13代にして最後の皇帝である、バオ・ダイ=Bao Dai)が、>独立したベトナムの最初の元首の地位を手にした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4

 復国同盟軍を率いるチャン・チュン・ラップという将軍は、以前から監獄を破壊するなどして反仏闘争を展開し・・・中国に逃れ<ていた>。・・・
 復国同盟軍は<日本軍>進駐の局面で陸路越境して・・・約3000人の兵力をもって蜂起、日本軍の先導役を務めた。事前に仏印軍兵営に潜入、戦力を殺ぐべく安南兵(仏印軍内にいる安南人の兵隊)らの帰順を図る工作も展開した。
 だが進駐が概ね平和裏に終わると、日本軍の支援は終わった。「日仏印共同防衛協定」にもとづき、日本は印度支那におけるフランスの主権をあくまで尊重しなければならなかった。越境した第5師団は漸次、ハイフォンから上海に海路、向かうことになった。日本の支援が終わっても諦めないラップは、軍を率いてハノイに進撃、最後は仏印軍の前に敗北して銃殺された。」(176〜177)

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<参考:チャン・チュン・ラップと英国より更に非人間主義的な仏・蘭の植民地統治>

 「日本軍との間で戦闘が始まる。最初のうちこそ数倍の兵力を持つ仏軍の勢いはよかったが、やがて突撃を繰り返す日本軍の前に戦意を失い、ドンダン要塞は数時間で陥落した。日本側十五人、仏側四十人が戦死した。
 この攻防を一人のベトナム人が間近で見ていた。道案内をした反仏活動家、陳中立(チャン・チュンラップ)である。
 彼の知る故郷は仏植民地政府の下で百年悲惨のどん底にあった。人々は高額の人頭税に泣き、そのために十歳の子供が炭坑でトロッコを押さねばならなかった。人頭税だけでなく葬式にも結婚式にも課税された。阿片も政府が売りつけ、国中に中毒患者があふれていた。「ニョクマムのビン法」というのもあった。ふたのない容器は非衛生的という口実で「仏製のビンを強制的に買わせて」(A・ビオリス著「インドシナSOS」)金を巻き上げていた。
 人々は当然、反発するが、そうすれば植民地軍が徹底的に殺しまくり、首謀者はギロチンにかけ、生首を街中にさらした。
 白人にはかなわない、というのが百年の歴史の教訓だった。その白人が今、自分たちと同じ肌の色の日本軍の前に逃げまどい、両手を挙げているのである。
 陳はその場で同胞に決起を呼びかけた。あっという間に二千人が集まり、彼らはハノイの仏軍をやっつけに山を下りだした。
 しかし、その数日間のうちに事情は変わっていた。<ヴィ>シー政権は日本の進駐を認め、友好関係が樹立された。つまり日本軍は陳を支援できなくなっていた。「勝てる相手ではないと何度も忠告した。でも、白人には勝てないというのが迷信だと分かっただけでも大きな力になると笑って出ていった」とベトナム協会の西川捨三郎氏は当時を思いだしていう。
 日仏の小競り合いと日本軍の勝利のニュースはすぐにタイにも伝わった。そして驚いたことに、英仏に領土を好き放題奪われてきた“おとなしい国”が突如、領土回復を図って仏印に攻め込んだのである。講和条約は東京で開かれ、タイは希望を一部かなえた。
 オランダ領インドネシアにも同じ現象が起きた。この国の人々もまた百年、ご主人様の「ビンタにおびえながら働かされ・・スマトラのたばこ農場の様子を記録した「レムレフ報告書」には現地人を米国の黒人奴隷と同じように取り扱い、「鞭打ち、平手打ちは当たり前だった」と記録する。・・、食事がきちんと与えられる刑務所の方がましとさえ考えていた」とR・カウスブルックは「西欧の植民地喪失と日本」の中で書いている。
 その地で日本軍はあっという間にご主人様をやっつけてみせた。八万二千人の<仏印>軍がこもるバンドン要塞はたった三千人の日本軍の前に降参した。人々は陳のいう「迷信」から覚めていった。
 日本が敗れて消えたあと、戻ってきたオランダと人々は戦った。四年間戦って約八十万人が殺されながら、戦いを放棄しなかった。そして独立を得た。」
http://hogetest.exblog.jp/6770043/
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⇒インド人達やビルマ人達に比べれば、ベトナム人達の方が、はるかに「まとも」であったと言わなければなりますまい。
 これは、フランスの植民地統治が英国のそれよりもはるかに過酷(非人間主義的)であった一方で、英国よりも反抗的な原住民/団体の抑圧や国境管理においてぬかりがあった、ということでしょう。(太田)

 「年が変わって1942年、7月28日に日本軍は大船団で南部仏印に押し寄せ、上陸していった。・・・
 <これは、>援蒋ルート遮断の名目<での>・・・北部<仏印進駐と>は異な<り、>アメリカの盟邦イギリスが持つアジアの権益を<直接>脅かすものと受け止められ・・・8月1日にはアメリカが石油の対日禁輸措置に踏み切った。・・・
 この進駐にも・・・西川捨三郎は加わっていた。一度、海南島に移り、ここから輸送船に乗り込んで南部仏印に向かった。・・・
 一団は7月30日には・・・サイゴンに到着した。・・・
 <そして、>再びハノイに向かった。ハノイに設置され得た特務機関、山根機関(機関長・山根道一<(注22)>)に勤務することになったのである。

 (注22)「印度支那産業」重役。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-138.html

 ・・・山根機関は主に援蒋物資の確保や鉱山資源の調達に動いていた。獲得した物資は日本に送った。軍側で機関を直轄したのは・・・かつて大川周明、橋本欣五郎、徳川義親らと語らってクーデターを企図した・・・仏印派遣軍参謀長・長勇<(注23)>大佐である。」(178〜179)

 (注23)1895〜1945年6月23日。幼年学校、陸士、陸大。「1930年(昭和5年)に橋本欣五郎らと桜会を結成。同年12月、参謀本部員に異動。1931年(昭和6年)の三月事件・十月事件を計画。橋本らと同様に処分を受けるが軽い処分で済んでいる。・・・
 沖縄戦を戦うが・・・摩文仁丘の洞窟内にあった司令部で司令官の牛島満とともに割腹自決。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%8B%87
 印度支那派遣軍参謀長時代のことはこのウィキペディアには全く記載されていない。
 ちなみに、上掲には、「1937年(昭和12年)8月、上海派遣軍参謀として出征。中支那方面軍が編成された時には、方面軍の参謀を兼務する。同年12月・・・南京攻略戦に参加。捕らえた捕虜を「ヤッチマエ」と処刑するように命じ、それを知った松井石根中支派遣軍司令官に窘められたとの逸話がある。・・・松井石根の専属副官だった角良晴少佐の証言より。・・・<しかし、>一方で、上海派遣軍参謀であった大西一(当時大尉、長の直属の部下)の証言によると、「長参謀がそのような(「ヤッチマエ」)命令を出したと言うことを見たことも聞いたこともありません」と証言し、長による捕虜処刑命令発言の信憑性について疑問を述べている。」とある。
 職掌上、参謀が部隊に対して「命令」を出せるわけがない、という点一つとっても、角良証言の方に信憑性がある。参謀の意向を知った部隊が安んじて(?)捕虜大量殺害を行った、と見るのが自然だろう。

(続く)