太田述正コラム#7602(2015.4.13)
<『大川周明--アジア独立の夢』を読む(その8)>(2015.7.29公開)

 「青年聯盟<に対して、元BIAの日本人達は資金を提供しており、>・・・青年聯盟はこれを政界の実力者、バーモウからの寄付として五万ルピーを受け取った。・・・
 <彼らは、>独立をめぐって鈴木大佐と対立した<日本のビルマ>軍政部・・・<からは、>「日本人がビルマ人の運動に関与することを控えよ」といい渡された。
 これに対して「ビルマ人が主体的に運動をするのなら問題はないのか」と友田は応じ、「それなら一向に構わない」との返事を取り付けた。さらに「青年運動の調査費」という名目で300ルピーの資金を与えられた。」(158)

⇒まるで漫才みたいな、と言って語弊があれば、禅問答めいたやりとりですね。
 とにかく、ビルマ人達は、日本の公私にわたる資金提供を受けて、かろうじて青年聯盟の運営を行っていたようであり、一事が万事、戦争中であろうとなかろうと、いまだ完全独立できるような態勢にはなかった、と言うべきでしょう。(太田)

 「<その後、>1944年<に、>「ビルマ国防軍の中にくすぶっている反日感情並びにビルマ人の中にある反<(対日協力者たる)バーモウ首相(注17)>・・・感情を考えた時、<彼>を暗殺した後、<アウンサン>将軍を中心とする軍事政権を確立することが結果としてよいのではないか」<と、友田は>2月<にバーモウ暗殺計画に関与することにした。>・・・

 (注17)「バー・モウはビルマ国内に向けては大統領・・・を名乗っていたが、共和制を忌避する日本に配慮し、対外的には首相を名乗った。1943年11月には東京で開かれた大東亜会議にバー・モウが参加しているが、大東亜共同宣言にはビルマ国内閣総理大臣として署名している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E5%9B%BD

 <ところがそれが露見し、>逮捕された友田は、・・・3月・・・民間人として軍律会議の法廷に連れ出された。・・・
 「殺人予備罪」に問われた彼には監禁3年・・・の刑が下った。・・・
 <彼は、>11月<に>釈放<される。>・・・
 ビルマは戦中、完全な独立を得られなかった<(注18)>。

 (注18)「現在<の>ミャンマー政府は、ミャンマー独立をビルマ連邦が成立した1948年としており、ビルマ国との連続性を認めていない。しかし一方で、ミャンマー国軍は1942年のビルマ独立義勇軍創設をもってその建軍とし<ている。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E5%9B%BD 前掲(太田)

 年が明けて1945年3月27日、アウンサンの指揮下、ビルマ国軍、農民義勇兵らが抗日蜂起を決行した。日本軍がラングーンを放棄するのはそれから約1か月のことだ。・・・
 日本<の>・・・独立を餌にするかのような振る舞いは報いを受けた。」(160、162、164〜166)

⇒玉居子の主張は誤りであり、抗日蜂起自体は、完全独立をさせなかった日本のせいではなく、アウンサンらが、日本の敗戦後に英国に対する立場を有利にするためである、と見るべきでしょう。↓
 「1944年のインパール作戦の失敗など日本の敗色が濃厚とみるや、1944年8月に秘密会議で反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、1945年-1962年)が結成され、Thakin Soe率いるビルマ共産党、アウンサン率いるビルマ国民軍、ウー・ヌ率いるthe People's Revolutionary Party (PRP)が三派合同した。1945年3月、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、<英国>側に寝返った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC 前掲

 「1940年・・・9月、・・・日本は・・・北部仏印進駐<を行った>。・・・
 <これに伴い、>仏領インドシナに渡った大川塾生は・・・合計18人である。
 その最初の1人が一期生・西川捨三郎である。・・・
 西川はほどなく台湾拓殖のインドシナにおける子会社、印度支那産業に移った。印度支那産業は、大川塾でも講演した海軍・中堂観恵<(注19)>中佐(終戦時少将)が仏印の鉱山開発を目的に設立に動いた会社<(注20)>である。」(172)

 (注19)海兵44期、海大27期。
http://hush.gooside.com/Order/GF/Office.html
 (注20)「中堂さんは、昭和10年<(1935年)>にタイ国日本大使館付海軍武官としてバンコクに赴任された。所管地域は、タイ・インドシナ三国(ベトナム・カンボジア・ラオス)・ビルマ・インドネシア・マラヤ連邦・シンガポールであった。当時の仏印では、日本軍人の入国が許されなかった。・・・<彼は、懇意にしていた、バンコクのフランス大使館の陸軍武官(海軍武官を兼任)に頼んで、ビザを出してもらい、>昭和11年<に、日本の>海軍士官が初めて正式に仏印に入った・・・。・・・サイゴン<経由で、>ハノイに入<った時に、フランスが、鉄鉱開発を試みたが中止しているとの話を聞き込み、海軍省に連絡したところ、>台湾の台湾拓殖に調査させようと言ってきたので、フランス当局と決め・・・印度支那産業がやることになった。」
https://books.google.co.jp/books?id=fq9mKlnuG4QC&pg=PA134&lpg=PA134&dq=%E4%B8%AD%E5%A0%82%E8%A6%B3%E6%81%B5&source=bl&ots=lPC5VhwmGn&sig=TvxXJazppxZTC0HHKnnbna2bSK0&hl=ja&sa=X&ei=zcsrVejmPMnf8AW_8ICIDg&ved=0CDwQ6AEwBg#v=onepage&q=%E4%B8%AD%E5%A0%82%E8%A6%B3%E6%81%B5&f=false

⇒今度は、仏領インドシナにおける、大川塾生の活躍が紹介されるわけですが、ここでは、民間企業と帝国海軍と陸軍との連携が効果的に行われていることが分かります。(太田)

(続く)