太田述正コラム#7592(2015.4.8)
<『大川周明--アジア独立の夢』を読む(その3)>(2015.7.24公開)

 「東亜経済調査局<だが>、1929年(昭和4)7月に<大川>の働きかけで満鉄から分離、財団法人として独立させて<、自身、>理事長に就い<てい>た<ものだ>。・・・
 かねて大川は南方を見ていた。豊多摩刑務所<(注2)>では、1936年(昭和11)、「日の本の北の守りをうち堅めみんなみ指して急ぎ下らむ」という一首を詠んでいる。「北守南進」、すなわちソ連と対峙しつつ、資源獲得のために南方に進出しようとする考えにほかならないが、当時、南進は大きな流れだった。同年8月、広田弘毅内閣が決定した「国策の基準」は「南方海洋に進出発展する」と謳っているのである。

 (注2)1932年の「五・一五事件で・・・禁錮5年の有罪判決を受けて服役」していたもの。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E 前掲

 <1938年に設立された、同局附属>研究所・・・<通称>大川塾・・・は一種の学校で、・・・修学年限を2年としていた。卒業すると海外に派遣される。そこで学校の指定する公的機関や企業に10年間は勤務せよという。10年の勤務が開けて現地で独立する場合、1万円が与えられる。・・・
 <これは、>同時期の銀行の初任給が70円、月給だけだと年間840円。単純なかけ算だが、1万円はその約11年分にあたる。・・・
 大川宿の学費は無料、研究生には毎月5円の小遣いが支給された。ノートや文具といった学術用の備品は申請によって与えられた。・・・
 出資は、満鉄、外務省、陸軍から得ていた。この三者が三等分で提出する月額15万円が運営費となった。・・・
 外務省の方では彼らのうち親ドイツ・イタリアの「枢軸派」が南進のための人材を欲していたため、開設に協力的だった。・・・枢軸派の領袖である白鳥敏夫<(コラム#1378、3578、5030、7357)>は道義と精神性を追求する「皇道外交」を唱え、大島浩<(コラム#4372、4546、4550、4616、4994)>・駐ドイツ大使とともにドイツ、イタリアとの連携を主導していた。その持論は「日本はアジアに還れ」で、アジアの植民地解放を念願とする大川と考えは非常に近く、「海の資源、山の資源。帝国の生命線は南方におきかえるべきだね」と語る南進論者だった。・・・
 陸軍の関与は当初、外務省ほど強いものでなかった。一説には満鉄と外務省の出資がまず決まり、陸軍が後から話に乗ってきたとされる。・・・<当時の>陸軍省軍務局・・・の局長<(注3)は>・・・中野学校の開設に関与した・・・岩畔豪雄<(注4)(コラム#5455、5820、5864)>大佐<だ。>・・・

 (注3)「軍務局の局長」は「軍務局の軍事課長」の誤り。(注4参照。)
 (注4)いわくろひでお(1897〜1970年)。
 なかなか熱のこもったウィキペディアなので、たっぷりコピペした。
 「陸軍軍人、最終階級は陸軍少将。後方勤務要員養成所(陸軍中野学校)設立者」(1938年。謀略活動を目的として新設された参謀本部第8課主任時)。幼年学校・陸士・陸大卒。
 「1939年(昭和14年)2月、軍政の中心・軍事課長に着任し同年3月、歩兵大佐に進級。直接の上司である武藤章軍務局長よりも実質的に権勢で上回り、陸軍の機密費3000万円を自由に使える立場となり小大臣と陰で囁かれる。・・・<1939>年4月、三井、三菱、大倉財閥の出資で満州に軍需国策会社・昭和通商を設立。昭和通商は、商社として営業機構と外国からの情報収集を主とする特務任務のための調査部機構の二大機構に分けて組織されていた。・・・同年勃発したノモンハン事件の拡大に反対し、シンガポール奇襲作戦を軍内で唱えるなど南方進出の急先鋒で知られた。「大東亜共栄圏」という言葉は、岩畔と堀場一雄が作ったものといわれる。同年9月総力戦における経済戦の調査研究のための機関設立を秋丸次朗陸軍主計中佐に指令し「秋丸機関」発足。近衛内閣のために各界の人材を集めて「国策研究会」を編成し、そこで総合的に国策を論じた「総合国策十年計画」を策定。これは内閣の基本原案となる。・・・1941年1月・・・に陸軍大臣東條英機が示達した訓令「戦陣訓」は、岩畔が発案したといわれる。
 また1942年(昭和17年)10月に・・・陸軍兵器行政本部を設け、その下に10の技術研究所を設立。その第9研究所が殺人光線などの電波兵器を研究した通称登戸研究所<だ。>・・・この他、その在任中に、辰巳栄一少佐らと総力戦研究所の設置、陸軍機甲本部の新設、日独伊三国同盟工作の締結促進、航空軍備の拡張などを実現させ「謀略の岩畔」との異名をとった。・・・
 1941年(昭和16年)3月、緊迫する日米関係の調整のため・・・、日本大使館付武官補佐官として渡米<し、>・・・駐米大使・野村吉三郎らと日米開戦回避のための日米首脳会談などを柱とする日米諒解案の策定を行う。この諒解案には岩畔の思想がかなり盛られていた。しかし非公式だった諒解案が表に出ると外務大臣・松岡洋右からこれを反古にされ<た。>岩畔、野村(大使)・・・らはコーデル・ハルも認めるほど誠実かつ真剣に日米和平を追求しており、・・・むしろ、アメリカにいた岩畔、野村らの方が、訪独した松岡ら外務省が展開する枢軸外交一辺倒の姿勢に驚かされたほどであった。・・・岩畔はその後の野村と国務長官・コーデル・ハルとの会談にも同席し交渉を続けたが、6月に独ソが開戦してしまい米国にとって諒解案は急ぐ必要の無いものとなった。岩畔は帰国し陸海軍省、参謀本部、軍令部はいうにおよばず、宮内省へも足をのばし折衝を続けた。新庄健吉大佐からの報告書を基に、「・・・物的戦力・・・の日米の比率<は、>・・・鋼鉄は1対20、石炭は1対10、石油1対500、電力は1対6、アルミ1対6、工業労働力1対5、飛行機生産力1対5、自動車生産力1対450・・・」と数字をあげ「もし、日米が戦い、長期化したら勝算は全くありません」と<力説し>た。だが大勢は参謀本部での会合でも「日米開戦は避けがたい」・・・「もはや勝敗は問題ではない」という<有様だっ>た。非戦論の多い海軍もやがて主戦派の抬頭とな・・・り、・・・8月直談判した陸軍大臣東條英機に近衛歩兵第5連隊長に転出を命じられた。
 なお、・・・コーデル・ハルは「今後、(日米関係)がどんなことになっても君たちの真剣な努力は忘れないし、君たちの安全は私が保証する」と述べたという。 事実、戦後、<米>軍に取り調べを受ける岩畔であったが、<英国>は、岩畔らが大戦中に展開したインド独立工作に対する恨みから・・・シンガポールに連行して軍事法廷にかけるというのである。 しかし、<米国>は 「まだ当方の取り調べがすんでいない」と頑として引き渡しを拒否している。・・・当時の<米>国務省に優秀な人材がいないことに悩んでいたコーデル・ハルは、私にもあんな(岩畔のような)優秀な部下がいたらどんなに助かるだろうとよく漏らしていたという。・・・
 シンガポール攻略と同時に印度独立協力機関(通称「岩畔機関」)の長としてインド国民軍(INA)の組織と指導・自由インド仮政府の樹立に関与した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%95%94%E8%B1%AA%E9%9B%84

 大川塾は時代の流れに乗った存在だったといえるが、教育機関として南方を指向した点で早く、異色だった。上海には中国で活躍する人材を育てる東亜同文書院<(注5)(コラム#4946、6260)>、満州には官吏養成の大同学院<(注6)>があったことが知られるものの、南方向けというと珍しかった。」(16、20〜21、28)

 (注5)「「東亜同文書院」は1901年(明治34年)5月26日、東亜同文会(近衛篤麿会長)により、<支那>(清朝)上海に設立された日本人のための高等教育機関である。日本人が海外に設立した学校の中でも古いものに属する。当初、東亜同文書院には政治科と商務科がおかれ、一時は農工科、<支那>人対象の中華学生部も設置されていた。1921年(大正10年)には専門学校令による外務省の指定学校となり、1939年(昭和14年)12月には大学令によって東亜同文書院大学に昇格し、予科、続いて学部が設置された。1943年(昭和18年)には専門部が付設された。1945年(昭和20年)8月、日本の敗戦に伴い、閉学となった。・・・
 儒教の経学を道徳教育の基礎にすえるとともに、簿記などの実用的な学問を重視した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E6%9B%B8%E9%99%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6_(%E6%97%A7%E5%88%B6)
 (注6)「満州国の官吏養成機関として、1932年(大同元年)7月に・・・設置された。校舎は新京に置かれた。
 国務総理大臣<(支那人)>が毎月2回、満州国国務院総務庁長官・・・と総務庁次長<(どちらも日本人)>らが毎週1回〜3回ほど講義していた。入学資格は当初、満州国の官吏に限られたが、後に協和会の職員など特殊団体職員も対象となった。満州国の滅亡までに4000人の卒業生を輩出した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8C%E5%AD%A6%E9%99%A2

⇒ここまでだけでも、当時の陸軍に比べて外務省がいかに志が低くかつ無能であったかを改めて痛感させられますね。
 玉居子は、「「北守南進」、すなわちソ連と対峙しつつ、資源獲得のために南方に進出しようとする考え」、と無造作に書いていますが、陸軍は、「ソ連と対峙」することを最優先にしており、そのためには、米国との協調をぎりぎりまで追求し、英米が対日経済制裁に乗り出して、初めて、「資源獲得のために南方に進出しようと」したのであり、そのために、岩畔のような人物に縦横無尽の活躍をさせたわけであり、その岩畔、ひいては陸軍が、大川塾への資金提供に躊躇したのはもっともです。
 それに対して、外務省にせよ・・「枢軸派」の仕業だと言っても、(少なくとも)外務次官まで話が上がっている(31)のですから、大川塾への資金提供は省の方針でしょうし、そもそも、南進論は既に広田弘毅内閣が打ち出していたところ、言うまでもなく、広田は外務官僚上がりです・・、大川にせよ・・満鉄は元社員の大川に引きずられただけでしょう・・、「ソ連と対峙」することなどは二の次で、資源獲得や植民地解放のための「南方」への「進出」そのものにのめり込んでいた、という趣があります。(太田)

(続く)