太田述正コラム#7576(2015.3.31)
<『チャイナ・セブン』を読む(その6)/私の現在の事情(続x58)(その1)>(2015.7.16公開)

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 「毛沢東が後事を託したのは華国鋒<だった>。・・・
 しかし・・・<トウ>小平から見れば、華国鋒は改革開放を実行するための阻害要因であったのだ。
 それに比べて習仲勲は<トウ>小平が信頼を置いている改革派で、・・・<トウ>小平の希望を受けて・・・広東省・・・<で>改革開放を進めるべく走り回っていた。・・・
 習仲勲は、30年代の・・・区切られた地域でのみ革命根拠地をつくる「革命特区」のアナロジーから、「経済特区」を思いつき、範囲を限った小さな地域で海外投資を促す<こと>を<トウ>小平に提案した。・・・経営モデルは香港をお手本とするという企画だ。
・・・<トウ>小平は<この提案を採用した。>・・・
 習仲勲は<トウ>小平が何を考えているかを知り、中国の新しい息吹と方向性を感じ取っていた。」(58〜59)

⇒改革開放の開始は1978年末でした
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3 前掲
が、日本との関係については、(1972年9月に日中国交正常化が形の上ではなされていたものの、)日中間の国交がようやく軌道に乗ったのはその年8月の日中平和友好条約締結によってであり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%8F%8B%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84
日本や日本の企業を活用する形で改革開放を開始するわけにはいきませんでした。
 また、米国との関係についても、国交樹立はそれよりも遅い1979年1月であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E4%B8%AD%E9%96%A2%E4%BF%82
日本よりも、更に、米国や米国の企業は対象外でした。
 他方、香港との関係については、「 中華人民共和国<が>香港の主権回復を求めず、むしろ英国との国交回復を求めた<こともあり、>英国は早くも1950年に中華人民共和国を承認した<が、>これは西側諸国としては最も早い新中国承認であった。 間もなく朝鮮戦争に中国が介入して、世界から孤立すると、香港が新中国にとって西側世界との唯一の窓口となった。・・・<そして、>、繊維産業を中心とする輸出型の軽工業が発達し、・・・中国貿易の中継貿易港としても発展し、香港はやがてシンガポール、台湾、韓国とともにアジア四龍と呼ばれる経済発展を遂げる」
http://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%A6%99%E6%B8%AF%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
、というわけで、トウ小平が、まず、その繁栄のお裾分けに与かるべく、中共内の香港の隣接地帯に目を付けたのは当然であった、と言うべきでしょう。
 従って、香港との隣接地帯の経済特区化は、遠藤や習仲勲に関する英語ウィキペディア(前掲)が主張するような、習仲勲による提案などではなく、トウ小平自身が、基本的方針をまず決め、その方針の具体化の適任者と彼が見込んだ習仲勲を広東省に派遣し、具体化にあたらせたものである、と私は見ているのです。
 (遠藤自身、そのことを示唆しているようにも読めるところです。)
 なお、「経営モデルは香港をお手本とする」提案を習がトウに対して行った、というのも、恐らくは遠藤の推量に過ぎないのであって、前述したような理由から、トウも習も、日本、より正確には日本型経済体制、をモデルとすることを最初から決意していた、と私は見ているわけです。(太田)

(続く)
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           --私の現在の事情(続x58)--

 まず眼医者へ行け、との友人達や読者の皆さんのご忠告に従わず、私は、小田急新宿店(西口)のメガネ・ニキョーに、昨日の午後、出かけたのです。
 その際、来歴が下記のような、私の三つの眼鏡を持参しました。

 定かに記憶にないくらい前・・20年くらい前?・・役所の身体検査でひっかかったのか、目が疲れるようになったためかも忘れてしまいましたが、当時乃木坂にあった役所近くの眼科で診察を受け、乱視の診断を受け、処方箋をオグラ眼鏡店
http://www.ogura-megane.co.jp/
に持参して眼鏡を作ってもらえ、と言われ、当時住んでいた代々木の官舎に近い、新宿駅東口の駅ビル(ルミネ)内の店で作ったのが、私の眼鏡とのお付き合いの始まりです。
 眼鏡って高いものだな、という印象でした。
 数年経った時に、その眼鏡のフレームが壊れ、同店でフレームを替えてもらう時に、緊急代替用に、全く同じ度数の眼鏡をもう一つ作りました。
 ところが、旧い方のレンズのフレームに問題があり、最初から、顔を少し動かすと、ほんの少しですが眼鏡がズリ落ちてしまうことから、いちいち手でズリ上げるのが面倒で、結局、二番目に作った眼鏡ばかりを使って現在に至っています。
 そして、また、しばらくして、同店で、今度は、そのための検眼をした上で、(私にとって三つめの眼鏡である)老眼鏡を作りました。
 役所を飛び出し、やがて、パソコンばかりで紙の活字は殆んど読まなくなり、老眼鏡はたまに利用するだけで現在に至っています。

 で、今度、オグラから他の店に乗り換えることにした理由は次の通りです。
一、今度作る眼鏡は、ひょっとしたら自分にとって最後のになるかもしれない。眼鏡店をもう一つ経験してみるのも悪くない。
二、短年月で、フレームが壊れたのはいかがなものか、と思っていた。
三、フレームを替えた際に、ズリ落ちない眼鏡にしてくれなかった。(ズリ落ちるのでしばらく経ってから同店にその眼鏡を持参して調整してもらったが、結局直らなかった。)四、その後も、たまに、点検と洗浄のために、同店に眼鏡一式を持参していたが、眼の度数が変わってきているので、とか、二番目に作った眼鏡のフレームが細くなってきているので、とかの理由を挙げて、買い替え時期ですよ、と言われるようになったものの、(老眼鏡は小さいレンズだったが、)一番目と二番目の眼鏡のレンズは大きいタイプあって私は気に入っていたところ、もはや、そんなレンズに合うフレームは存在しなくなったと言われたので、眼鏡の買い替えは行わないまま推移したが、本当に存在しないのか、疑いの念を持っていた。
五、やがて、ルミネ内での同店の売り場の場所が変わり、売り場面積が狭くなったことから、同店の売り上げが減ってきているためではないか、と想像していた。

 では、どうして、今回、ニキョーにしたのでしょうか。
 インターネットで調べたところ、(ウン10年も使うものなので、)「高級眼鏡店」で検索をかけて一番最初に出てきたのが、999.9
http://www.fournines.co.jp/
であり、そのチェーン店の一つであるメガネ・ニキヨー 新宿店
http://www.fournines.co.jp/shoplist/detail300.html
が小田急百貨店にあったからです。
 どうして、小田急百貨店かと言えば、(3年以上使っていなかったところの、)1割引きになる小田急Royalカード
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1126200286
を私が持っていたからです。

 それでは、どうして、この時期に眼鏡を買い替えようと思ったのでしょうか。
 最近私が超音波洗浄機を買った話はご存知ですよね。
 しかし、それをもってしても、二番目の眼鏡では、(そして最初の眼鏡でも心持、)曇りが十分に取れないので、近くのスギ薬局で事情を話して眼鏡洗浄液はないか聞いたところ、超音波洗浄機で落ちないのなら、レンズの被膜が取れてしまっている可能性が高いので眼鏡屋さんに行った方がよい、大森駅近くのダイシン百貨店
http://www.daishin-jp.com/
の眼鏡売り場なら曇りを取ってくれるかもしれない、それでもダメなら眼鏡を買い替えるしかない、と言われてしまいました。
 そこで、大森駅近くでの所用のついでに同百貨店を訪れ、メガネ売り場に赴いたところ、担当店員が昼休み休憩中で誰もいなかったため、眼鏡洗浄液らしきものを自分で手に取って、眼鏡売り場をも所管していると聞いて知った時計店に赴き、店員に事情を話したところ、洗浄液など買わず、眼鏡を買い替えなさいと言われ、ではそうしよう、と決意を固めた次第なのです。
 (もともと、ダイシン百貨店で眼鏡を買い替えるつもりはありませんでした。)

 ところが、ニキョーに出かけたところ、事態は思いもかけない展開を見せることになったのです。

(続く)