太田述正コラム#7560(2015.3.23)
<「個人」の起源(続)(その3)>(2015.7.8公開)

 戦争が「文明化的プロセス」とともに戦争が消滅しつつあるとの示唆は新しくもなんともない。・・・
 オーギュスト・コント(Auguste Comte)<(コラム#3216、3676、5240)>・・・は「利他主義(altruism)」という言葉を造り出した。
 ピンカーやシンガー同様、彼は、人類・・或いは、いずれにせよ、その最も高度に発展した諸部分(portions)・・は、どんどん非利己的で慈悲深くなりつつある、と信じていた。
 このプロセスがついには「有機的な」生活様式・・伝統的宗教への彼の敵意にもかかわらず彼が大変憧憬の念を抱いていたところの、中世的社会秩序の「科学的」ヴァージョン・・に至らしめるであろうと信じていた彼は、同時に、リベラリズムの鋭い批判者でもあった。
 ジョン・スチュアート・ミルを心配させたのは、コントの辛辣な反リベラリズムだった。
 ミルは、啓蒙主義思想家の一人ではあるもの、<啓蒙主義>以外の様々な点でコントの弟子だ。
 ミルは、利己的愉楽ではなく、諸生物(sepecies)の繁殖が人類にとって将来義務になるだろうと示唆するところまで行き着いた。
 しかし、彼は、この世界が、自由や個人的人格(individuality)なき世界となることを恐れていた。
 <しかし、>ミルは心配する必要などなかったのだ。
 人間は、引き続き共感することは可能であったであろうけれど、彼らがより利他的でより平和的になると考える理由はなかったからだ。・・・
 <さて、>とりわけ、ジョン・アルクィラ(John Arquilla)<(注5)>が指摘したように、戦場における死者数の減少に過度に焦点を合わせるのは間違いだ。

 (注5)1954年〜。ロザリー単科大学(Rosary College)卒、スタンフォード大学修士、同大博士課程(中退?)。RANDに就職・・後に退職・・するとともに米海軍大学院(US Naval Postgraduate School)で安全保障と防衛分析の教鞭を執る。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Arquilla

 <戦場における>死者数が少なくなってきているとすれば、その一つの理由は、恐怖の均衡なのだ。
 すなわち、諸大国間の工業型戦争を諸核兵器が防止してきたのだ。
 ピンカーは、過去において、毒ガスのような諸大量破壊兵器が使用されても戦争は防止されなかったことを根拠に、諸核兵器の役割<が大きいとの説>を退ける(dismiss)。
 しかし、諸核爆弾は、<毒ガス等とは>比較にならないくらい、より破壊的だ。
 <現に、>まともな軍事史家で諸核爆弾の使用の恐れが諸大国間の紛争防止の主要な要素であり続けてきたことに疑いを差し挟む者はいない。
 しかも、<戦場における戦闘員の死者数こそ減少してきたものの、>非戦闘員達の死者数は着実に増大し続けてきているのだ。・・・
 <なお、ピンカーらが指摘しているように、>近代国家が暴力を独占したことが、若干の文脈内で、暴力的死の生起率の減少に導いたことは確かかもしれない。
 しかし、近代国家の力が<、戦争だけではなく、ジェノサイドといった形で>大量殺害の目的で使用されてきたこともまた確かなのだ。・・・
 <それに、冷戦当時、>破滅的な危機のエスカレーションが防止されたのは、ただ単に、ソ連の潜水艦員のヴァシーリー・アルキポフ(Vasili Arkhipov)<(注6)>が核魚雷を発射せよとの艦長の諸命令を拒否したことによる。

 (注6)1926〜98年。海軍中将で退役。キューバ危機の時に、米空母艦隊は、国際水域で、浮上させる目的でアルキポフが乗り組んでいたソ連の核搭載在来型潜水艦目がけて訓練用爆雷を投下し始め、米ソ戦が始まった可能性があると判断した艦長が核魚雷発射を決意した、手続きに則り、政治将校と、艦内では指揮系統ナンバー2だが、一帯の全ソ連潜水艦隊の司令官であったところの、従って艦長と同格のアルキポフと協議した際、アルキポフだけが反対したため、魚雷を発射できなかったもの。
http://en.wikipedia.org/wiki/Vasili_Arkhipov

⇒同じキューバ危機中に、在沖米軍も誤った核攻撃を命令を受けてこれを実行しなかったことが最近明らかにされた(コラム#7543)わけですが、改めて、背筋が凍る思いを禁じ得ません。
 それにつけても、印パの核、中共の核、いわんや北朝鮮の核に関しては、いつ核「事故」が起こってもおかしくない、と思わなければいけませんね。(太田)

 <つまり、戦闘員の死者数の減少は僥倖がもたらしたものに過ぎず、また、戦闘員の死者数だって、桁違いに増大したはずだったのだ。>・・・
 <話は変わるが、>もしも、毅然とした戦争指導者が予期に反して1940年5月に英国で権力の座に就かなかったとすれば、同国は敗北したか、(より悪いことに、)当時の英国の選良の多くが望んでいたようにドイツと講和し、恐らく爾後何世代も欧州はナチの支配下に留まった可能性が高い。
 そうなっていたとすれば、<ナチスドイツによる>人種的純化とジェノサイドは、より完全に実施されていたことだろう。・・・」

⇒現在のイギリスにおける最高の知識人の一人と私が高く評価しているグレイですら、欧州フェチシズムから逃れられない矮小さを持ち合わせているとは、まことにもってイギリスも落ちぶれたものです。
 チャーチルが英首相に就任した1940年5月の時点で、ヒットラーの反ユダヤ主義は周知のことであったとはいえ、彼がホロコーストという形でユダヤ人問題の「最終的解決」を図るなどということを予想できた人物は、ドイツ人以外には、いや、それどころか、恐らく大部分のナチス党員の中にも、殆んどいなかったはずです。(典拠省略)
 他方、ヒットラーの、対ソ開戦意思は半ば公然たるものでした。
 彼は、その前年の1939年8月11日に、国際連盟の高官に対して、「私が行っている全てのことはロシアを狙いとするものだ。もしも欧米が余りにも阿保で盲でこのことが分からないのであれば、私はロシアと協定を結ばざる得ず、その上で、欧米を叩き、敗北させた後に、私の全兵力でもってソ連を攻撃するだろう。私は連中が、先の大戦の時のように我々を兵糧攻めにしないようにウクライナを必要とする」、と宣言しています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Eastern_Front_(World_War_II)
 チャーチルは、大英帝国の維持を至上命題とし、次いで共産主義抑止を重視していたのですから、1940年9月に事実上バトルオブブリテンでドイツに勝利した後は、ヒットラーの対ソ開戦を待ち、独ソ戦が始まったら米国を唆して対ソ軍事援助をさせつつ、ドイツとは実質的に休戦して、独ソ双方が疲弊するのを高みの見物を決め込めばよかったのです。
 ところが、あろうことか、チャーチルは、米国を対独戦に引きずり込む目的で、米国をけしかけ、日本に対米開戦をさせるよう画策し、僥倖にもその目的を達成はしたものの、結果として、日本の東南アジア席巻を許して大英帝国を戦後に過早に瓦解させざるを得なくなり、アジア/中東における旧大英帝国領のほぼ全域で紛争を族生させる種を蒔いただけでなく、以下の責任は一義的には米国が負うべきではあるものの、ドイツを過早に敗北させ、ソ連の東欧支配と中共やインドシナにおける共産主義政権の樹立と東南アジア一帯への共産主義浸透をを許してホロコーストの少なくとも数等倍の人命の喪失を東アジアにもたらすこととなったのです。(太田)

(続く)