太田述正コラム#7472(2015.2.7)
<日本の中東専門家かく語りき(その3)>(2015.5.25公開)

3 Isisの「魅力」を巡って

 もう一つは、「若者はなぜイスラム国を目指すのか…池内恵<(注6)>氏インタビュー」というタイトルの、イスラム政治思想の研究者である東京大学先端科学技術研究センター准教授の池内恵(コラム#87)のインタビュー記事です。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/yokoku/20150203-OYT8T50221.html?cx_text=07&from=ytop_os_txt2

 (注6)1973年〜。東大文卒、同大博士課程単位取得退学。「<コーラン>の中の暴力的な文言やイスラーム法の異教徒差別の文言や現実に展開されたズィンミー制度をついてイスラーム批判を行<ってきた。また、>・・・日本のイスラーム研究は「イスラーム思想やイスラーム世界を過度に理想化」しており、「イスラーム的共存や寛容の存在とその優越性は、具体的事例が示されないまま、ほとんど自明のものとされている」として批判を行っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E5%86%85%E6%81%B5
 「ズィンミー・・・とは、イスラーム政権下における庇護民のこと。具体的には、ムスリム支配者の統治下に一定の保護を与えられたキリスト教徒やユダヤ教徒をはじめとする非ムスリムを指す。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%9F%E3%83%BC

 そのさわりをご紹介し、私のコメントを付しましょう。

 「・・・パレスチナ出身のアブドゥッラー・アッザーム<(注7)(コラム#7007、7198、7204)>という法学者が、コーランやハディース(預言者とその周辺で布教に従った教友と呼ばれる先駆者たちの言行録)に基づいて、ジハードの理論を世界からアフガニスタンに集まってきた義勇兵に教え込んだ。

 (注7)Abdullah Yusuf Azzam。1941〜89年。「アッザームは・・・イギリスの委任統治領であったパレス<ティ>ナに生まれた。・・・大学で農業を学んだ後で教師となったが、ダマスカス大学でシャリーアを学び直した。第三次中東戦争でヨルダン川西岸地区がイスラエルに占領されると・・・ヨルダンに脱出、そこでムスリム同胞団に参加した。ヨルダンでは・・・パレスチナ解放機構(PLO)の世俗性やローカル性に幻滅、<欧米>の植民地として引かれた国境に関係のない汎イスラムの思想に傾倒するようになる。この思想は後にハマース創設に繋がっていく。
 アッザームはエジプトに移りアル=アズハル大学の大学院でシャリーアの研究を深めた。その後、ヨルダンに戻りアンマンのヨルダン大学で教鞭をとるが、黒い九月事件で反イスラエルのパレスチナ人であるアッザームは追放され、再びアル=アズハル大学に戻り博士号を取得<する>。・・・
 エジプトからヨルダンに戻ったアッザームはすぐにサウ<ディ>アラビアに移り、ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学で教鞭をとった。ここで学生の<オサマ>・ビン=ラーディンを指導した。
 1979年<には、>・・・イラン革命・・・<や>ソ連軍・・・のアフガニスタンへの侵攻<が起こった>。<また、同年の>アル=ハラム・モスク占拠事件でサウ<ディ>アラビアはイスラム原理主義者を国外追放にし、アッザームはパキスタンに移った。イスラマバードの国際イスラム大学で教鞭をとりながら、「ムスリムの地を異教徒の侵略者から守れ」というファトワーを発し、ペシャ<ワール>に移った。パキスタンの北西辺境州・・・に軍事訓練キャンプを設立、そこへ大学を卒業したビン=ラーディンが、彼の資金力を必要としていたアッザームの呼びかけに応じ1981年に合流してきた。アッザームやビン=ラーディン<が>・・・軍事訓練を行った<者達からは>、・・・ソ連軍を相手に戦死者が続出し、サウ<ディ>アラビア政府や<米CIA>はムジャーヒディーンに対する財政的支援を、パキスタン<軍>統合情報局(ISI)は軍事的支援を、強化していった。・・・アッザームはまた中東・<欧州>・北米を回り、ムジャーヒディーンの・・・宣伝<と>リクルート<を行っ>た。・・・
 アッザームは対ソ連の戦いの終わったあとには、・・・ムジャーヒディーンが各地で革命戦士となることを夢想した。一方、・・・アイマン・ザワーヒリーなど・・・ムジャーヒディーンの中には、敵は異教徒でなく・・・腐敗した世俗のイスラム教徒であるという思いが当時あった。1989年になると、・・・路線対立が表面化<し>、・・・その年の11月に、・・・ペシャ<ワー>ル<で>・・・<乗っていた>車<が>地雷で噴き飛ばされ・・・死亡した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%A0

 その教えを継いだ弟子の一人が、アルカイダのビンラーディンだ。・・・
 エジプトのイスラム主義団体である「ジハード団」は、まずは「近い敵」を倒そうとして1981年にサダト大統領を暗殺した。90年代にもムバラク大統領の殺害を図った。しかし、最終的に政権を倒すことはできなかった。アイマン・ザワーヒリーをはじめとした、こうした「近い敵」との闘争に敗れた人たちを糾合する形で、ビンラーディンは、「遠い敵」、具体的にいえば世界の中枢にあって「近い敵」を支えているアメリカへのグローバル・ジハードを展開した。これが2001年の9・11テロにつながっていった。・・・
 人的なつながりを広げるのではなく、グローバル・ジハードのイデオロギーを文書にしてインターネット上にアップするなどして、共鳴した人間が一匹狼(ローン・ウルフ)型のテロを各地で起こしていくことを後押しする、いわばネットワーク型の運動へとかじを切ったのだ。近年でいえば、2013年の米ボストンマラソンでのテロや、2014年10月のカナダ・オタワでの国会銃乱射事件などは、このような流れの中で起きた。
 こうしたアルカイダの新たな戦略を作り上げたのはシリア出身のアブー・ムスアブ・アッ=スーリー<(注8)>という人物だ。彼自身は、かつてのアフガニスタンのように、世界から集まった戦士が武装化して組織的なジハードを行うことのできる聖域、すなわち彼の言葉でいう「開放された戦線」を作ることを目標としていたのだが、当面そのような状況は来そうもないので、それまでは一匹狼型の活動を続けていくしかない、といった主張を2004年にインターネット上で発表している。・・・

 (注8)Abu Mus'ab al-Suri(本来の名前:Mustafa bin Abd al-Qadir Setmariam Nasar)。1958年〜。シリアのアレッポ生まれ。アレッポ大学機械工学科で4年間学ぶ。1980年にムスリム同胞団系団体に入団し、ハーフェズ・アサド政権への蜂起に参加し、国外逃走、イラクやヨルダンを経てフランス、更にはスペインに移り、1987年か88年にスペイン女性と結婚しスペイン国籍を取得、1987年にペシャワールでムジャヒディーンになり、アフガニスタンでソ連軍や同軍撤退後の共産党政権と戦う。その後、ビンーラーディンの下でムスリム同胞団を批判、アルカーイダの理論的主柱となるも、タリバン政権下のアフガニスタン滞在中の1998年に、アルカーイダの対米テロ路線に自殺行為であると反対し、アルカーイダと決別。スペインでのテロに関わった廉で国際手配されていたところ、2005年11月にパキスタンで拘束され、その後、やはりお尋ね者となっていたシリアに移されたが、2011年に釈放されたとの情報がある。
 (池内の言及しているのは、彼の最も有名な、2004年末ないし2005年初にインターネットに上梓された論文の内容。なお、その中で、アッ=スーリーは、2003年の米国のイラク侵攻は、ほぼ閉ざされていた、領域国家を樹立してジハードを遂行するための絶好の機会を提供した、と論じた。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Mustafa_Setmariam_Nasar

 スーリーの言う「開放された戦線」を作り出せるかどうかが、グローバル・ジハードの課題として設定されるようになったのだが、これは思わぬところから実現することになる。きっかけは「アラブの春」だった。
 2010年暮れから始まった「アラブの春」によって、チュニジア、リビア、エジプトなどアラブ諸国では民主化運動が盛んになった。その結果、自由で公正な選挙が行われ、一般には「穏健派」と呼ばれているイスラム教の制度内改革派が各地で台頭した。しかし、それまで政治活動を公式に許されてこなかった制度内改革派は、統治能力を身につけていなかったうえ、、軍や司法や欧米化したリベラル派など反対勢力が徹底的に抵抗し、官僚機構の妨害や軍事クーデタなどで穏健派の統治を頓挫させた。結果として、穏健派は能力不足と実効性の欠如を露呈し、信頼性と期待は失墜していった。逆に、グローバル・ジハード主義など過激派への信頼や期待は相対的に上昇した。・・・
 イラクとシリアに出現した「開放された戦線」が、インターネットを駆使したネットワーク型のリクルート(人材の勧誘)と結びつくことで、世界中からジハード戦士が集まってくる条件が整った。

⇒池内の事実認識の一つをずっと以前に(コラム#87で)批判したことこそありますが、この対談での彼の事実認識に関しては、ここまでは問題はなさそうです。
 私自身にとっても、良い復習と勉強になりました。(太田)

(続く)