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太田述正コラム#7470(2015.2.6)
<日本の中東専門家かく語りき(その2)>(2015.5.24公開)

⇒私の3年8か月のエジプト在住中、父親は、母親と私を、地中海旅行や欧州旅行には送り出しても、カイロより南の古代遺跡に、ルクソールを始め、一切私を連れて行ってくれなかっただけでなく、カイロ市内にある、アル=アズハル・モスク/大学(注3)にも、また、ムハンマド=アリー・モスク(Muḥammad ʿAlī Mosque)(注4)・・住んでいたところからミナレットは見えていたが・・にすら、連れて行ってくれませんでした。

 (注3)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%83%8F%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%AD%A6#mediaviewer/File:Al-Azhar_2006.jpg (←写真) 
 (注4)「エジプトの首都カイロの旧市街、イスラム地区のシタデル内にある・・・。19世紀半ば、・・・ムハンマド=アリーにより建造。オスマン建築様式の巨大なドームと2本の尖塔(ミナレット)をもつ。また、内部と外壁に・・・アラバスター(雪花石膏)を使っているため、アラバスターモスクという通称をもつ。」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/259747/m0u/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC#mediaviewer/File:Mosquee_mehemet_ali_le_caire.jpg (←写真)

 結構、インテリであった父親であったことからすると、恐らくは、彼、古代エジプト文明もイスラム文明も、全く評価していなかった、ということなのでしょう。

 ところで、本件の関連で、次のようなことを言っている日本人の中東専門家もいます。
 「イスラム教では『最後の審判』の日に肉体が必要とされるため土葬が基本だ。灰にすることで肉体がなくなることは最大限の侮辱にあたる」とし、「イスラム教徒であるヨルダン国民や空爆参加国に、自分たちに危害を加えることへの怖さを思い知らせる狙いがあるのでないか」と話す。・・・」
http://www.sankei.com/west/news/150204/wst1502040033-n1.html

 しかし、これについても、以下のような考え方の方が説得力があります。

 「このような信条は、亡くなった者の肉体の骨を壊すのは、その生命を壊すのに等しい、という預言者ムハンマドの声明に由来する。
 火葬のために死者を焼くのは、死者の諸骨を壊すその他の切り刻みに等しいので禁じられる。
 このような措置を受け入れたり促したりすることもまた同じ<、というわけだ>。・・・
 しかし、アラーは、火葬された肉体を復元することができるとも信じられており、よって、火葬は死者が天国ないし地獄に到着することを妨げるものではないと信じれてきた。」
http://people.opposingviews.com/happens-body-cremated-according-islam-3426.html

 さて、焼殺ですが、理屈はともかく、イスラム創世記における社会規範に照らすとどういうことになるのでしょうか。
 焼殺(Death by burning)に関する英語ウィキペディアには、次のくだりが出てきます。
 「アラブの酋長<の一人>・・・が、630年に、ムハンマドの競争相手たる預言者であると言い出していたけれど、632年にムハンマドが亡くなると、<彼>の強力な追従者達は、リッダ戦争<(注5)>でもってすぐに粉砕された。

 (注5)異端戦争(Wars of Apostasy)とも呼ばれる。632〜633年。なお、預言者を僭称して、この叛乱の指導者となった者は、他に何人もいた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ridda_wars

 彼自身は逃亡し、後にイスラム教に再改宗し<て許され>たけれど、彼の叛乱時の追従者達の多くは焼殺された。彼自身の母親も、自ら同じ運命を抱懐<して焼殺される>ことを選んだ。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Death_by_burning
 この箇所については、典拠が付けられているものの、その典拠の信憑性までチェックすることはできませんでしたが、大いにありうる話だと私は思います。
 これが史実だとすると、言うまでもなく、この一連の焼殺は、4代の正統カリフ中の最正統たる、初代カリフのアブー・バクル(Abu Bakr。573〜634年)・・ムハンマドよりも年下だが、ムハンマドの妻のアイシャの父親なので義父にあたり、イスラム教の最初の信徒となった人物であり、リッダ戦争の遂行、収束後、ムハンマドの遺志に則り、ペルシャと東ローマ征服に着手した。・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%AB
が認めた(命じた?)ものであったはずであり、Isisによる、「カリフ」ないし「イスラム国」に敵対した「叛乱」の一員であった、カサスベ大尉の焼殺を非難する者は、アブー・バクル、ひいては、預言者ムハンマドを非難しているに等しい、と言うべきでしょう。
 何度も申し上げているように、いかなるイスラム教の権威が論争を挑んだとしても、Isisを論破することは不可能なのです。(太田)

(続く)

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