太田述正コラム#7645(2015.5.5)
<皆さんとディスカッション(続x2618)>

<太田>(ツイッターより)

「…<某>地元紙…は…、「日本の米の食べ心地は、…世界第1位…<だが、>「美味しい米が食べたい」と言うわがままな消費者に、農業関係者が総力で応えた結果<であり>、「中国米が日本米ほど美味しくないのは事実」と論じた。…」
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e7%b1%b3%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e7%be%8e%e5%91%b3%e3%81%97%e3%81%84%ef%bc%9f%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%83%bb%e6%b6%88%e8%b2%bb%e8%80%85%e3%81%ae%e3%80%8c%e3%82%8f%e3%81%8c%e3%81%be%e3%81%be%e3%81%aa%e8%a6%81%e6%b1%82%e3%80%8d%e3%81%ab%e3%80%81%e8%be%b2%e6%a5%ad%e9%96%a2%e4%bf%82%e8%80%85%e3%81%8c%e5%bf%9c%e3%81%88%e3%81%9f%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%a0%ef%bc%81%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e3%83%a1%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2/ar-BBj8vLa?ocid=iehp#page=2
 とここまではいつもの日本ヨイショ記事。
 だが、「…上記記事は続く部分で、日本が1930年代に旧満州国において果たした米づくりへの貢献も高く評価した。」にはギクッ。
 「毛沢東は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注いだ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD
ことを改めて思い出したよ。
 これが、中共当局の、石原莞爾や日本山妙法寺経由の創価学会とのご縁にまでつながるわけだ。

 「佐藤優が…痛烈皮肉…安倍政権を「無知」「支離滅裂」と厳しく批判…現実的な妥当性も論理的な整合性もまったくなく、非知性的で短絡的なだけ<と>…」
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e4%bd%90%e8%97%a4%e5%84%aa%e3%81%8c%e6%94%b9%e6%86%b2%e3%81%b8%e6%9a%b4%e8%b5%b0%e3%81%99%e3%82%8b%e5%ae%89%e5%80%8d%e3%81%ab%e7%97%9b%e7%83%88%e7%9a%ae%e8%82%89%ef%bc%81%e3%80%8c%e5%ae%89%e5%80%8d%e9%a6%96%e7%9b%b8%e3%81%af%e5%b1%b1%e6%9c%ac%e5%a4%aa%e9%83%8e%e3%81%a8%e5%90%8c%e3%81%98%e3%83%9d%e3%82%a8%e3%83%a0%e4%bd%93%e8%b3%aa%e3%80%8d/ar-BBj9RS4?ocid=iehp#page=2
 それ、自分自身に投げかけるべき言葉だよ。
外務省ってホント人を腐らせるのね。

<MH>

≫「大川は「対ソ抑止」」、の根拠は?≪(コラム#7643。太田)

 これは典拠はなく状況で判断するしかありません。

 そもそも彼は北一輝同様の社会主義者です。
 しかし大川はシベリア出兵は反対だったので「どちらかと言えば」親ソ(ロシア)派だが、北は反ロシアでシベリア割譲要求のために戦争すべし、という強硬論者でした。
 (田原総一郎著『日本近現代史の「裏の主役」たち--北一輝、大川周明、遠山
満、松井石根「アジア主義者」の夢と挫折』 より)

 それが後の二:二六事件の説得工作を見れば分かるように
統制派=大川周明
皇道派=北一輝
とそのまま分離するわけであります。

 大川と陸軍軍人の交流関係は東条英機陸相(日中戦争の件で喧嘩別れしてしまうのだが)、参謀本部から現地軍司令官までトップクラスと深く始終付き合っていたわけですから、当然、共通の価値観(含む対ソ抑止論)を有していたし、それにより支持、支援と信頼を受けていたと考えるのが合理的ではないでしょうか。
 でなければ、張作霖爆殺事件直後に張学良の説得工作を頼まれるとか、五:十五事件で服役中に二:二六事件発生した際に特例措置で釈放され説得工作を行ったり、刑期満了し出所直後、支那事変の真っ最中に南京の陸軍参謀と会うことは不可能でしょう。
 普通に考えれば単なる学者がイデオローグ形成のみならず、対外工作活動を実行出来るわけがなく、そこには日本政府、即ち陸軍省及び外務省の理解と強力な支援・支持があってこそ出来ることです。
 大川自身が対外工作活動を行っていたので、それが出来る若手・後継者を育てるのが「大川塾」設立の目標だったとも言えますね。
 逆に大川が政府及び陸軍省、外務省に良い様に利用されたという見方も出来るのかも知れませんが、どちらかなのかまでは分かりません。

<太田>

>大川はシベリア出兵は反対だった

 なーるほど。
 そこで、取りあえずの私の大川解釈をまとめてみました。

 「大川<は、>・・・大学時代は宗教学を学ぶ中で「マルクスを仰いで吾師とした<ところ、>・・・インド独立運動に関わり、・・・イスラム教に関心を示すなど、亜細亜主義の立場に立<ち、>・・・北守南進を主張して<し、>・・・「日中連携」を不可欠のものとし<、>・・・日米戦回避のため開戦前夜まで奔走した」わけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E

 これを、私の言葉でもって、推測を交えつつ、膨らませて言い変えると、次のようになります。
 大川は、生涯を、共産主義者として貫き、世界の主要宗教を精神的アヘンの諸形態として学び、アジア等の植民地の人々をこれらの精神的アヘンから解放し、それが無理でもこれらの精神的アヘンを利用して操縦することによって、反帝国主義闘争に立ち上がらせ、もって、共産主義の総本山の赤露を防衛するとともに、赤露以外の帝国主義的資本主義列強を赤化しようとした。
 彼は、その語学力(注)やアジア諸国についての知識を買われ、帝国陸軍の俊秀達と交友を取り結び、後にはその自由人たる立場が重宝され、帝国陸軍の交友相手から民間人や他省庁等との走り使いに利用されるようになり、彼も、それを奇貨として、上述の自分自身の目的を達成しようとした。
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(注)「大川<は、>・・・学生時代に参謀本部でドイツ語の翻訳をしており、宇垣一成、荒木貞夫、杉山元、建川美次、東条英機、永田鉄山、岡村寧次らと知己があった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E 前掲
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 だから、大川は、ロシアの赤露化を妨害しようとしたシベリア出兵に反対し、対赤露抑止を主張する統制派を支持し、対赤露早期開戦を主張する皇道派に反対し、概ね彼の希望は達成される。
 そして、統制派を、対赤露抑止から北守南進へ、更に、アジア解放へと転換させようと試み、それには、帝国海軍の「協力」もあり、結果的に、彼は、それにも概ね成功する。
 当然、彼は、中国共産党はもとより、容共の蒋介石政権もつぶさないよう、日中和平を模索することになる。
 しかし、これらのために彼が一貫して追求したのは対英のみ開戦であって、対米英開戦ではなかった。
 というのは、米国とまで開戦すれば、中長期的には勝ち目がないため、英国の打倒はもとより、アジア解放も完遂できないと考えられたし、そもそも、大川は、容共的であった当時の米国に、親近感すら抱いていたからだ。
 結局、大川の意向に反して、日本は対米英開戦をしてしまったところ、大川の真意を知らない日本政府(外務省)は、皮肉にも、大川に、アジア解放という偽大義をラジオで宣明させることなった。
 そこで、大川は、この宣明をするにあたって、自分自身の、英国悪者論、米国善人論、を積極的に盛り込んだ。
 その際、大川は、レーニンの『帝国主義論』(注)を活用して、さんざん英帝国主義に対して悪態をついた。
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(注)1917年に執筆され、1921年には独・仏訳が入手可能となった、レーニンの『帝国主義論』を読んでいたと思われる。レーニンのこの著作は、イギリス人たるホブソンの『帝国主義論』(1902年)・・英帝国主義への激しい批判で知られる・・に負うところ大である。
 (事実関係は以下に拠った。
http://en.wikipedia.org/wiki/Imperialism,_the_Highest_Stage_of_Capitalism
http://en.wikipedia.org/wiki/Imperialism_(Hobson)
http://en.wikipedia.org/wiki/John_A._Hobson )
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<5wyCgvLo>(「たった一人の反乱(避難所)」より)

 1920年代後半における大川周明の中国認識−その「満蒙問題」対策との関連も兼ねて↓
http://www.google.co.jp/gwt/x?gl=JP&hl=ja-JP&u=http://ijs.cass.cn/japanese/uploadfile/2010/0119/20100119035009374.pdf&client=ms-docomo_link-jp&source=s&q=%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E+%E3%82%BD%E9%80%A3&sa=X&ei=LW5HVcTGOaOsmAWP1oD4Aw&ved=0CBwQFjAIOBQ

注釈(1)『大川周明集』(筑摩書房、1975年)403頁の竹内好解説及び 430頁の橋川文三解説を参照。なおこの問題は数十年経った今も、関連研究の欠乏によって依然残っている。
 確かに大川の政治思想におけるアジア主義・アジア認識は、例えば大塚健洋、鈴木正節、 松本健一らによってなかりの程度研究されているが、しかしその中で中国との関わりの部分は殆ど追究されていない。
 それを専門的に扱った論文は、鈴木正節の「右翼思想家の中国観」(『歴史公論』41号、1979年 4月)、柴田伸一の「大川周明と支那事変」(『史(現代史懇談会)』91、1996年 7月)ぐらいであるが、何れも短い論に止まっている。

 当時の支那人と深い関わりがあったからか学者だったからか(「赤露について脅威」とは認識してても)考えが甘い?↓

 「吾等は決して 支那の赤化即ち共産主義化を怖れるものでなく、また之を信ずるものでもない。……
 た ゞ吾等は露西亜勢力の支那支配が、単に其事だけで日本の脅威であるのみならず、仮令 一時的にもせよ共産主義が支那に勝利を唱ふることの、日本に及ぼす深刻な影響を憂ふるものである。
 日本は今や疑ふべくもなく動乱を育んで居る。
 その勃発は恐らく時間の問題であらう、内外を問はず、異常なる事変は、動乱の導火線たるに足る。
 支那の赤化は此の意味に於て、若し吾等の想像する如く進展するものとすれば、意外非常の事変を日本に誘発するかも知れぬ」(大川「支那問題」355頁)。

<太田>

 甘いなんてもんじゃないよ。
 公称ベースでそんな調子じゃ、大川が共産主義者として、赤露によるアジア全域の赤化を追求する生涯を全うした、という私の上述の取り敢えずの大川解釈は正しそうだな。
 それこそ、行間から、支那の赤化、ひいては日本の赤化を希っている気持ちが滲み出てるで。
 なお、彼は脛に傷を持つ人間として、憲兵に狙われていたはずだから、下手な動きはできず、従って、赤露のスパイではなかったんだとは思うが・・。

<MH>

>これを、私の言葉でもって、推測を交えつつ、膨らませて言い変えると、次の ようになります。大川は、生涯を、共産主義者として貫き、世界の主要宗教を精神的アヘンの諸 形態として学び、アジア等の植民地の人々をこれらの精神的アヘンから解放し、それが無理でもこれらの精神的アヘンを利用して操縦することによって、反帝国主義闘争に立ち上がらせ、もって、共産主義の総本山の赤露を防衛するとともに、赤露以外の帝国主義的資本主義列強を赤化しようとした。<(太田)

 成程!腹の底にストンと納得しました。相変わらず慧眼ですね。

 太田さん理論を補足すると、大川は中学時代から英語の先生であった牧師からクリスチャンに傾倒し、更にマルキシズムに傾倒(当時は未だソ連が無い)

 (田原総一郎著『日本近現代史の「裏の主役」たち--北一輝、大川周明、遠山満、松井石根「アジア主義者」の夢と挫折』 より)

 キリスト教と横井小楠
 「大川は進学志望をめぐっての父親(代々続く医者になれと言った)との対立ゆえに、キリスト教により深くはまったということなのだろう。そして、大学では宗教の研究に進むことを固く心に決めて、熊本の第五高等学校に進んだのであった。 それにしても、大川はなぜわざわざ山形県の酒田から遠く離れた九州の熊本を選んだのであろうか。原田幸吉は「東では横浜が、そして西ではキリスト教と最も因縁深い土地が熊本であった」と記している。げんに、五高時代に大川は、少なからぬクリスチャンと深く交わっているのである。
 原田幸吉は、大川が熊本を選んだ第二の理由として横井小楠の名前を挙げている。横井小楠は熊本藩士の次男に生まれ、福井藩の松平慶永のブレーンとして公武合体運動や雄藩連合などを策定した人物である。明治維新後、保守派に暗殺された。
 大川は西郷隆盛、勝海舟と並んで横井小楠を崇拝していたのである」
 ↑
 大川のスポンサーであった徳川義親
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E8%A6%AA
は松平慶永の縁戚ですから、松平→横井を徳川(松平)→大川に置き換えたとも考えられます。
 クリスチャン研究は行ったが信者にはならず、研究の対象であり、それが後年のイスラム教研究に繋がった。
 また(中央アジア諸国の)イスラム教徒達を赤露革命に利用したレーニンのやり方も念頭にあったのは間違いないでしょう。

 キリスト教・マルキシズムから日本主義(国家主義者)への変化
 「そして一九一二(大正元)年に、親しいキリスト教関係者に頼まれて『歴代天皇の伝記』を書くことになった。これはたまたま頼まれた仕事であって、大川はそれまで日本の歴史にも皇室問題にも特別の興味は有していなかった。それどころか、当時の日本の多くの知識人と同様に「日本に思想なし」と捉えていて、だからこそ西欧のキリスト教やマルキシズムに傾倒したのだろう。
 大川は、キリスト教やマルキシズムなど「西欧」の文明のなかに解を求めようと努力したのだが、解には行き着かなかった。解ではなく矛盾ばかりにぶつかった。
 そんな闇の模索のなかで、西欧=近代に欠如していた日本主義、端的には「天皇」を発見したということなのだろう。
 私(田原総一郎)は大川周明に直接会うという機会がなかったので、いささか自信のなさもあるが、キリスト教という奇跡とひたすらの信仰、そしてマルキシズムという論理だけを重ねて構築された思想ではなく、「天皇」という渾然たるなかに統一された実体を見つけて、大川にしてみれば、骨、血、肉のある、これこそ自分が求めていたものだと強く感じた、それが日本精神だと納得したのではないか。 私(田原)は、かつて伊藤博文が憲法を構築するために欧米の国々を直接調査した経緯を点検した。伊藤は欧米の国々のありようを知って困惑した。
 どの国にもキリスト教が深く浸透していて、国民の心の奥の倫理、機軸の規範となっている。ところが日本には人心を統一させる宗教がない。
 もちろん憲法は国民の心にまで入り込むことはできない。そこで伊藤は思い悩んだ末に「天皇」にたどり着いたのであった。」

 太田さんの仰るように大川は<考え方は>共産主義で、終生変わらないのだが、大衆世論誘導する理論付け、そこには帝国陸軍を大衆革命に利用することも含むのだが、それだけでは不十分(要は西欧の借り物だったからだろう)だと考えて、天皇を崇拝する日本主義を考えた。
 しかし日本主義から革命を実現化するアイディアが無かった大川に、それを授けたのが北一輝の出会いであり、彼の作成した「日本改造法案大綱」であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%B9%E9%80%A0%E6%B3%95%E6%A1%88%E5%A4%A7%E7%B6%B1
もう一つは人類共存を妨げるような大領土の独占に対する戦争である。国内における無産階級
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%94%A3%E9%9A%8E%E7%B4%9A>(労働者階級
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%80%85%E9%9A%8E%E7%B4%9A>
)が階級闘争 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8E%E7%B4%9A%E9%97%98%E4%BA%89>
を行うことが正当化されるのであれば、世界の資本家階級
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%87%E6%9C%AC%E5%AE%B6>であるイギリス
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9>や世界の地主
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%BB>であるロシア
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2>
に対して日本が国際的無産階級として争い、オーストラリアやシベリアを取得するためにイギリス、ロシアに向かって開戦するようなことは国家の権利であると北は主張する。

 上記の反英国を突き進めたのが、大川=陸軍統制派。反赤露を突き進めたのが、北=皇道派ということになります。
 大川の日本主義は、源、北条、足利、徳川は天皇と民衆の君民一体を分断する存在ということですから、例の「北から来たれば北条、東から来たれば東條」はゴマすりでなく、語呂合わせで大川の意に反する対米戦争を開始した東條英樹は北条同様に君民一体を阻む愚か者だが、そんな事はラジオで表立って言えないので(これを機会に過去の大川の本を読んで)行間を読んでくださいね。ということなのでしょうね。

<太田>

大川は、こんなに長々と論じるに値する人物ではなさそうですが、彼が、「日本精神復興を唱えて佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠らの評伝をまとめ『日本精神研究』(1924年)を執筆。日本史を概観する書物として『日本二千六百年史』(1939年)を著す。同書は大ベストセラーとなるが、当時賊徒とみなされていた北条義時、北条泰時、足利尊氏・直義兄弟を称賛するなどの内容があったため批判され、改訂を余儀なくされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E5%91%A8%E6%98%8E
というのが、正しいとすれば、「佐藤信淵<は、彼>・・・の描いた国家像は明治維新を望見しており、時代を先取りした思想家として評価される<一方、>・・・<彼は、>満州、朝鮮、台湾、フィリピンや南洋諸島の領有等を提唱した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%B7%B5
人物であるところ、そんな「佐藤信淵<と>、源頼朝、上杉謙信、<とりわけ、>横井小楠」に共通するものを見出すのが困難であるところから、大川の頭脳が余り明晰でなかった感が否めません。
 いずれにせよ、大川が、「当時賊徒とみなされていた北条義時、北条泰時、足利尊氏・直義兄弟を称賛」したこと、また、源頼朝も高く評価していたらしいことからすると、大川は、天皇機関説的であった、というか、より冷徹に、天皇は象徴として利用すべき存在に過ぎない、と見ていたように私には思われます。
 そこは、「自由人」たる「共産主義者」であった大川の面目躍如という感じです。
 (教条主義的共産主義者なら天皇制廃止ですからねえ。)

<MH>

 --オマケ--

 「不倫ビジネス」が成功。世界最大のサイトの謎
http://toyokeizai.net/articles/-/67804

 日本の例を見ていこう。まず、年齢で見ると、女性の場合、もっとも利用が多いのが25〜34歳で42%を占める。一方、男性は45〜54歳の比率が最も多く21%。55歳以上も5%を占める。メンバーの教育レベルは世界平均より高く、男性の35%、女性の32%が大学院卒。これは世界平均の2倍の水準だ。
 可処分所得を見ても、日本人男性は世界平均よりも少し高く、男性会員の8%が25万〜100万ドル、そして11%が10万〜25万ドル稼いでいる。女性会員の場合、48%が2万5000ドル〜4万9000ドルとこれも世界平均よりは高いが、男性の水準から見るとかなり差がある。つまり、日本の女性は男性と同じくらい教育水準が高いのに、収入は男性に比べるととても低い。
 日本を見ていて非常に興味深いのが、女性利用者がとても多いことだ。私たちの分析では、おそらく女性が置かれた社会的地位への反発が背景にあるのではないか。
 公式サイト(日本語版)
https://www.ashleymadison.com/app/public/index-jp2.p
 
 「そもそも一婦一夫制度が人間の本質ではないのではないか」と太田さんみたいなことを言ってますねえ。

<太田>
 
 日本で、妻問婚への回帰現象がみられることが反映されたデータですね。
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 連休の臨時一人題名のない音楽会の2日目です。
 各回8曲ずつにすることにしたのですが、この回、早くも、8曲を選ぶのに苦労しまくりました。
 (既に、これまで、私の好みの曲を殆んど紹介し終わっているってことです。)
 とりわけ、最終段階で、つまさき坂→老人と子供のポルカ→およげたいやきくん、と曲を入れ替えたことが印象に残っています。
 結果として、私の「レパートリー」が若干なりとも広がりました。

越後獅子の唄(1951年)(注) 作詞:西条八十 作曲:万城目正 歌唱:田川寿美
https://www.youtube.com/watch?v=iGVMQh_V42M&list=PLf4JuzeZS8x-Pz_3pQj2qhJBLeUfeIIFf&index=27

(注)「越後獅子とか蒲原獅子などは江戸時代の「角兵衛獅子」の別称で越後の蒲原郡月潟村を発祥とすることから、そうも呼ばれます。飢饉や貧農故の口減らしを兼ねた道中行脚でもあったわけですが、その悲しみが「越後獅子の唄」にはよく歌い込まれています。」
http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-echigojishinouta.html

東京(1974年) 作詞作曲:森田貢 歌唱:マイ・ペース イマイチの曲だが、東京(都か23区なのかは知らないが)は日本人の人気観光地トップなのに、東京自体を歌った曲は少なく、珍しいので・・。
https://www.youtube.com/watch?v=01QTqWYrQDc

小さなスナック(1968年) 作詞:牧ミエコ 作曲:今井久 歌唱:パープル・シャドウズ
https://www.youtube.com/watch?v=lQvF_LQAe8Q

めぐり逢い紡いで(1978年) 作詞:るい(小坂洋二) 作曲・歌唱:大塚博堂
https://www.youtube.com/watch?v=yfBtZ_CX5eg

およげたいやきくん(1975年)(注) 作詞:高田ひろお 作曲:佐瀬寿一 歌唱:子門真人
https://www.youtube.com/watch?v=kmPCD4bwa2w

(注)「日本で売り上げ枚数が最も多いシングル盤(フィジカル・シングル)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%92!%E3%81%9F%E3%81%84%E3%82%84%E3%81%8D%E3%81%8F%E3%82%93

春雷(1979年) 作詞・曲:山木康世 歌唱:ふきのとう
https://www.youtube.com/watch?v=UvB4BiYYH8k

八月の濡れた砂(1971年)(注) 作詞:吉岡治(オサム) 作曲:むつひろし 歌唱:石川セリ
https://www.youtube.com/watch?v=nQMa-Zs605I

(注)映画『八月の濡れた砂』の主題曲。この映画は、「湘南を舞台に学園紛争敗退後の70年代のしらけ世代の気だるく無軌道な若者達の退廃を描く。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%88%E3%81%AE%E6%BF%A1%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%A0%82

じょんから女節(2003年) 歌唱:長山洋子 曲そのものはともかく、こういう人をアーチストと言う。
https://www.youtube.com/watch?v=fa94QLbS1v4

(続く)
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太田述正コラム#7646(2015.5.5)
<『日米開戦の真実』を読む(その14)>

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