太田述正コラム#7641(2015.5.3)
<皆さんとディスカッション(続x2616)>

<檸檬歌曲>

  --安倍演説、内容面でどのように評価されますか--

 安倍総理の米議会演説
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/e_souri.html)について、その内容に関する太田さんの評価が気になります。

 個人的には、次の一節など「うまいなー」と思ったのですが。「日本人に民主主義を教えてやった」的なアメリカ人の素朴な思い込みを否定することなく、先の戦争は民主主義国家同士の衝突だったということをさりげなく示唆しているように思います。

 『私の苗字ですが、「エイブ」ではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません。民主政治の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきたからです。
 農民大工の息子が大統領になれる――、そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させました。
 日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。出会いは150年以上前にさかのぼり、年季を経ています。』

<太田>

 で、仕方なく全文を(但し、英語版が上のに載っていることに気付かず、邦訳で)こちら↓で読みました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150430/k10010065271000.html
 原稿執筆者達の意図が奈辺にあろうと、お示しの箇所、行間を読むなんてことはしないアメちゃん、誰もそうは受け取らないでしょうね。
 開眼しただけで、ついに自分では実践はできず、米国が占領してやって初めて実践できるようになったってなもんでしょう。
 全体として、米国事大主義史観=戦後外務省史観=戦後「右」史観、に貫かれた演説ですから、スタンディングオベーションを何度も受けたのは当然でしょうね。

 面白かったのは、演説中で言及された下掲の曲↓

 Carole King, You've got a friend(1971年)
https://www.youtube.com/watch?v=qde5NMy7WTU
 「「君の友だち」(You've Got a Friend)は1971年に<米>国のシンガーソングライターであるキャロル・キングが制作した曲である。この曲は、1972年のグラミー賞で最優秀楽曲賞を獲得し<た>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%AE%E5%8F%8B%E3%81%A0%E3%81%A1

も、その前日のホワイトハウスでの晩餐会席上で安倍首相挨拶中で言及された下掲の曲↓

 Ain't No Mountain High Enough(1967年)
https://www.youtube.com/watch?v=5_pmKPWLBrE
 「28日には公式晩餐会が開かれ、そこで披露した安倍首相の歌がふるっています。[1970年以降に]ダイアナ・ロスが歌<った>R&Bの《Ain't No Mountain High Enough》の歌詞を引用して、日米の親密さを強調したんです。」
http://wakakomataiko.blog.fc2.com/blog-entry-384.html
 グラミー賞にノミネート。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ain't_No_Mountain_High_Enough ([]内も)

も、どちらも私が初めて耳にする曲だったことです。
 いくらなんでも、安倍首相、どちらのアメ曲も自分自身が好きだった曲なんでしょうから、そこから推して、恐らく、彼、上述の史観を心から信じ込んでる人なんでしょうね。
 私の音楽環境が、(私は世代的には安倍首相よりもちょっと上ですが、)日本人として「異常」だったことを、今となっては感謝しなければなりますまい。

<檸檬歌曲>

≫日本のマンガは、戦後、ディズニーや米国のコミックの影響を受けて出現したと・・・いう理解で正しいのかねえ。誰か教えて。≪(コラム#7629。太田)

 戦後、という部分に違和感を感じました。

「田河水泡]

 落語作家として売れっ子となる中で、美術学校卒業という経歴が面白がられ、新作落語に挿絵も描いてほしいという依頼を受けるようになる。1年後には、編集者から依頼を受け、新作落語執筆の合間に漫画の執筆に取り掛かる。初連載は1929年(昭和4年)の『人造人間』。ロボットを主人公としたSF作品であり、日本のロボット漫画のパイオニアとも言える。
 1929年(昭和4年)、『目玉のチビちゃん』連載開始と前後して結婚。同作の連載終了後、『のらくろ』の執筆に取り掛かる。〜(中略)〜 設定を軍隊にすることにより、自らの徴兵時代を反映させる事が可能になり、独特の世界観を作り上げていった。同作は主人公の階級が上がるたびにタイトルが変わっていくという実験的な作品でもあったが、爆発的な人気を獲得。戦前としては異例の長期連載となった。また、いわゆるのらくろグッズが市場に溢れることになり、日本で初めて漫画のキャラクターが商業的に確立した作品とも言える。1941年に打ち切られるものの、その影響力は凄まじく、幼い頃の手塚治虫はのらくろを模写し、技術を磨いていたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%B3%E6%B0%B4%E6%B3%A1

[手塚治虫]

 父・粲は住友金属に勤める会社員であり、カメラを愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回し映写機(パティベイビー)を所有しており、治虫は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにしてチャップリンの喜劇映画、マックス・フライシャーやディズニーのアニメ映画を観ることができた。
     〜(中略)〜 
 なお、父はカメラにはまる前は漫画にも凝っていて、漫画への理解があり、手塚の家には田河水泡の『のらくろ』シリーズや、中村書店の「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」、「ナカムラ・繪叢書」など、200冊を超える漫画本があったという。また、後に治虫が父が母に向けて書いたラブレターを発見した際、ラブレターに漫画が描かれてあるのを発見し、「やっぱり自分は父の息子だ」と思ったという。
 母・文子は陸軍中将服部英男の娘で厳しいしつけのもとに育ち、〜(中略)〜幼少期の治虫に子守唄代わりに絵本や漫画を登場人物ごとに声音を使い分けて読み聞かせていた。母もまた漫画好きであり、後に治虫の長男・手塚眞が治虫の書斎で『のらくろ』を読んでいたところ、ページの隅にパラパラ漫画を発見し、てっきり治虫によるものだと思っていたが、後になって治虫の母・文子が描いたものだったと判明したというエピソードもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E6%B2%BB%E8%99%AB

[横山隆一]

 太平洋戦争中、『フクちゃん』は日本のプロパガンダ映画になった他、敵国である米軍の宣伝ビラ『落下傘ニュース』にも(当然)無断で使用されたりした。戦後50年となり、横山が米軍の『フクちゃん』無断使用に対する原稿料をアメリカ大使館に請求したところ、大使館側もアメリカ合衆国として原稿料180円(請求金額180円)を快く支払ったエピソードがある。この原稿料180円は当時の横山に支払われていた原稿料の相場である為、旧円180円であり、現在の通貨価値とは当然異なるが隆一自身一流のシャレとして額面180円としていた。
 アメリカ大使館は現在流通する日本円180円で支払った。この際、大使館側は隆一に領収書を書いてもらった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E9%9A%86%E4%B8%80

 なお、戦前期の「のらくろ」は、親戚の家に全集があったので幼少期に殆ど全て読みました。その時の印象では、やや古めかしさは感じたものの、その頃読んでいた戦後期の他の漫画と比べて「系譜的に断絶している」とは全く感じませんでした。その時の記憶が、冒頭に述べた私自身の違和感につながっています。

[のらくろ]

 ノラ(野良犬・孤児)の黒犬・のらくろ(野良犬黒吉)が、猛犬聯隊(猛犬連隊)という犬の軍隊へ入営して活躍するという話(舞台モデルは帝国陸軍)。最初は二等卒(二等兵)だったが徐々に階級を上げ、最終的に大尉まで昇進する(当初、のらくろを少佐に昇進させるつもりだったが軍から苦情があり、やむを得ず大尉で除隊させた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%82%89%E3%81%8F%E3%82%8D

<太田>
 
 全く同感です。

<MH>

≫1936年の「二・二六事件<は、>・・・大川は全く関与していません。≪(コラム#7637。太田)

 wikiには全く出てきませんし、私も知りませんでしたが,大川は二:二六事件に関与してます。

 田原総一郎著『日本近現代史の「裏の主役」たち--北一輝、大川周明、遠山満、松井石根「アジア主義者」の夢と挫折』 より No.3297/5444〜

 「ここでいったん時代を逆行させて二・二六事件に戻そう。じつは二・二六事件の日、大 川は保釈出所中で築地の聖路加病院に入院していたのである。
 原田幸吉の書によれば、時の法相、小原直に交渉して大川の釈放を取り付けたのは彼を贔屓にしていた最後の殿様、徳川義親だったということだ。
 自伝の『最後の殿様』から、当時の状況を引用させてもらう。

「さすが急所をしっていた」

 「さて、大川くんは病気名目で釈放され、聖路加病院に入院した。すぐ狩野敏くん(大川周明の思想に共感し、行地社の専任事務、神武会の創立に参加した)を使者にして、大阪ビルを占領中の佐倉第五十七連隊長山口直人大佐の説得にあたらせた。さすが大川くんは急所を知っていた。狩野くんが、東洋ビルのななめ向かいにある大阪ビルに行き、歩哨線を突破して山口大佐に会うと、大佐はまっさきに、『西田税は馬鹿なことをしましたなあ』といった。この一言で、狩野くんは山口直人大佐の胸中がわかったという。あとは何もいわず、何もきかずに、狩野くんは大川くんに報告したが、これで佐倉連隊の向背がきまり、決起叛乱側の勝負はついた。二月二十七日の午後であった。
 二十八日に事態は急転回し、奉勅命令が出て、決起側は叛乱軍となり、叛乱討伐となった。日本人はいかなる理由があろうとも、天皇にそむいて国賊となるのをきらう習性がある。それまで決起側につくか、当局側につくか、いずれが優勢かで形勢を観望していた者、あるいは決起叛乱側に同情をよせていた者も、動向を明らかにした。 山王ホテルに設けていたぼくらの情報本部は、二十八日の午後になると、そこで情報収集をしていた所三男くん(島崎藤村の『夜明け前』の史料探訪に同行したのがきっかけで、木曽山林史の研究に従事。一九二九年に徳川義親が主宰する徳川林政史研究所に入所。主任研究員となった)が叛乱軍の追い出し交渉にひっかかってしまった。
 所くんは何度も立退き交渉をうけたががんばっていた。ついに叛乱軍の栗原安秀中尉が四、五名の部下をひきつれてきて、退去を命じた。
そのどたん場で所くんが栗原中尉とかわした問答がある。所くんがきいた。『きみたちは、こういう事態を起こして、だれを内閣総理大臣にするのか』『真崎甚三郎大将(荒木貞夫陸相とともに皇道派を形成したが、反皇道派の巻き返しで左遷。二・二六事件では蹶起将校たちから盟主とみなされた)である』 栗原が軍刀の柄に手をかけて答えた。そのひと言をきくと、所くんはさっと退去した。〈中略〉

 その時間にぼくは屋敷にいた。石原(広一郎)くんから電話があって、山王ホテルを追い出されて行き場がない。
 さしあたり番町の石原くんの家に集まってほしいという。その家に、ぼくのほか大川周明、石原広一郎、清水行之助、藤田勇、浅岡信夫、狩野敏、所三男、渋谷三らが集まった。
 そこで、いろいろの意見が出たが、結論はこういうことである。奉勅命令が出た以上は、叛乱軍は進退きわまった。叛乱軍の将校たちは国家の前途を憂え、純粋な気持ちで決起したのであるが、このまま叛乱の名目で処刑されたのでは、死んでも死にきれないだろう。その純真な精神だけは陛下のお耳に達したにちがいない。
 叛乱将校は北一輝、西田税の流れで、ぼくたちとは反対側に立った人びとだが、国家を憂える精神に変わりはことここにいたってはいかんともしかたがない。彼らを説得して、一刻も早く兵をまとめて原隊に復帰させるようにして、おわびとして切腹すればよいのではなかろうか。そして、一応事態が平静になったところで、徳川と大川が彼らの真意を陛下に達するようにする。
 以上の相談がまとまったので、ぼくと大川くんの二人が叛乱軍の陣地内にはいり、あるいは二人とも殺されるかもしれないが、誠意をもって彼らを説得しようということに決まった。
 説得に出かけるにしても、歩哨線を通過しなければならない。難問題であったが、さいわい叛乱側に同情していた斎藤瀏少将がぼくと親しい。
 斎藤少将は栗原安秀中尉の保証人であったし、栗原をかわいがっていた。そこで斎藤少将に栗原を説得してもらい、ぼくと大川くんを歩哨線を通過させるよう処置をたのむことにした。ぼくが斎藤少将に電話をし、以上の話をだいたいしたところを、憲兵が電話を盗聴していて切断してしまった。これで処置なしとなった。ところが、反乱軍を沈静させようとしたことが反乱幇助の嫌疑ありとして、大川をはじめ石原広一郎、清水行之助、狩野敏たちは逮捕された。徳川だけは貴族院議員ということで自宅に軟禁で済んだ。

※石原産業(現在も操業中 東証一部上場企業)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E7%94%A3%E6%A5%AD
 創業者:石原広一郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E5%BA%83%E4%B8%80%E9%83%8E

 二:二六事件を起こした北一輝は大川の盟友で(事件時は喧嘩別れ)、西田悦は行知社で大川と一緒。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9C%B0%E7%A4%BE

 大川は3月事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
の首謀者であり、陸軍が降りた後でも一人でやるといきまいて、徳川義親に説得され慰留された経緯があり、その後、石原がスポンサーとなり合法的活動をせよとの指示で神武会を結成。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E4%BC%9A
 従って昭和時代の陸軍クーデターは全て何らかの形で大川が関わっているわけです。
 ことの重大さから鑑みれば、3月事件時で大川は逮捕・拘留されてもおかしくなく、五:一五事件は拳銃を提供しただけで(当時は今と違い民間人の拳銃所持は合法)罪は軽い気がしますが、そこには何らかの政府・司法の考えがあったのかもしれません。
 普通ならばクーデター事件で逮捕服役中の人間を、新たな軍事クーデター事件当日に釈放するなど考えられないですね。

<太田>

 五・一五事件の際は「支援」したのに、二・二六事件の際は説得工作に関与した・・ご教示感謝します・・だけなのですから、大川が天皇機関説(天皇無答責説)の立場に近かったはず、との私の指摘通りであり、心強い限りです。
 それにしても、戦前の憲兵、いい仕事をしてましたね。

<BdETbReX>

 ボルチモアでの暴動の構造的原因として、社会福祉制度の充実がシングルマザーの黒人家庭を増加させたからだ、という説が出てきている。

 父親の居ない家庭の子は不良に成り易い傾向にあるが、米国でもそうなのだろうか?

・・・in the late ’60s, partly in response to the riots of the Long Hot Summers, welfare was transformed from a time-limited program intended for widows to an open-ended program that didn’t care whether recipients ever got jobs.
 This had the unintended consequence of discouraging marriage, and made it easier for women to raise kids without the father around. This, a story too little told (read it here), decisively impacted the black experience nationwide.・・・
http://www.thedailybeast.com/articles/2015/05/01/progressives-miss-the-point-of-baltimore.html

 Progressive liberals have laid the foundation for the scene in Baltimore, in a thousand different ways. Their relentless expansion of the “social safety net”has undermined family and community structures, spawning a whole generation of undisciplined, angry, fatherless young men. The Democratic alliance with public-sector unions has left America’s cities with corrupt, ineffective, and massively expensive public services, while cementing ethnic rivalries that might otherwise have dissipated naturally over time.
http://thefederalist.com/2015/04/30/democrats-broke-baltimore-conservatives-can-help-fix-it/

<太田>

 典型的に共和党的な傲慢極まりない意見ですねえ。
 そもそも、米国は、奴隷制について、その子孫達に謝罪をし、無条件で全面的補償を、未来永劫続けるべきです。
 社会福祉の一環としてそれをやるんじゃなくってね。


 それでは、その他の記事の紹介です。

 刷り込まれたままのゾンビ日本人がまだこんだけいちゃ、ゾンビ達の語り部の村上春樹がもてはやされるワケだ。↓

 「・・・「優しい日本人」のイメージはおそらく、現行憲法によってもたらされたに違いない。それを「平和ぼけ」と自嘲する人は改憲してでも「世界の警察」の片棒を担ぎたくてしょうがないようだが、そうすれば戦後日本が積み上げてきた信用は全て失われる。彼らはその損失を計算したことがあるだろうか?・・・島田雅彦・・・」
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11734728.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11734728
 「危機迫る憲法 自作反戦歌今こそ 美輪明宏さん(79)・・・」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2015050390070007.html
 <それにしても、吉田ドクトリン・バネは強靭アルね。↓>
 「・・・憲法学者で慶応大名誉教授の小林節(せつ)さん<は>1993年から4年間、非常勤講師として防衛大で行政法を教えた。「思えば、あのころはタカ派改憲論者だった」。・・・
  あれから20年。小林さんの考えは変わった。「憲法違反の『海外派兵』を一政権が閣議決定で決め、平然と数で押し切ろうとしている」。今や、憲法を守り、必要なら改めよという「護憲的改憲論」の立場から安倍政権を厳しく批判する。
 「変節した」と批判もされたが、意に介さない。「多数決の民主主義を信じ、『選良』である政治家の倫理に期待していたが、権力者の傲慢に接し続け、日本国憲法の真価を強く意識するようになった。戦争ができない国を、憲法を変えずに戦争ができる国にするのは絶対におかしい」・・・」
http://mainichi.jp/select/news/20150503k0000m040080000c.html

 歯切れ悪いけどまあよしとしようか。↓

 「・・・依然として日本の漫画の無断複製が韓国で売れているというニュースは、日本と競い合う韓国の大衆文化の姿を過去に逆戻りさせかねない悪材料だ。文化体育観光部の関係者「無断複製した日本の漫画の関連グッズはまだまだあるという情報がある」と耳打ちした。これは当惑を通り越し、恥ずかしさを覚える。韓日国交正常化から50年を迎えるに当たり「日本は歴史を直視せよ」という要求が韓国であふれている今、私たちは果たして日本に対し潔い姿勢を示しているといえるのだろうか。・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/05/02/2015050200567.html

 門主世襲制も、門主制そのものも、廃止しろって。
 世界のもの笑いだぜ。↓

 「ひと:大谷暢裕さん=真宗大谷派の門首後継者に決まった・・・」
http://mainichi.jp/shimen/news/20150502ddm008070028000c.html

 (1905年に日露戦争が終わったところ)1907年の第一次日露協約からロシア革命の1917年(翌年シベリア出兵)までの10年間中の日本の対外戦略を、日本の一貫した対露抑止戦略の中にどう位置付けるか、は私の日本の近現代史観の残された課題。↓

 「<1915年の>対華二十一カ条要求とは何だったのか--第一次世界大戦と日中対立の原点・・・」
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015042700004.html?iref=comtop_fbox_d2_05
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太田述正コラム#7642(2015.5.3)
<『日米開戦の真実』を読む(その12)>

→非公開