太田述正コラム#7426(2015.1.15)
<カール5世の帝国(その9)>(2015.5.2公開)

 (4)新世界を巡る論争

 「トーマスは、聖職者にして活動家のバルトロメ・デ・ラス・カサス(Bartolome de Las Casas)<(コラム#52921)>と法学者にして論争家のホアン・ヒネス・デ・セプルベダ(Juan Gines de Sepulveda)<(注21)>との間での、インディアン達が諸魂を持っているかどうか、よって、キリスト教徒達として扱われるべきかどうか・・換言すれば、征服され、奴隷化されてはならないのか・・闘いでもこの本を力強く終える。

 (注21)1489〜1573年。「スペインの神学者・哲学者。[Alcala de Henares大学卒(神学)]・・・アリストテレスの「先天的奴隷人説」をインディ<アン>・・・に適用、劣等で野蛮な異教徒のインディ<アン>から土地・自由・財産を奪うことは正当であると主張した著書・・・を刊行しようと<カール>5世に出版許可を求めたが、・・・妨害され<、>・・・ラス・カサスの訴えにより・・・審議会が1550年から翌1551年にかけてバリャドリッド[(Valladolid)]で開かれる(バリャドリッド論争)と、セプルベダはこの審議会で、・・・ラス・カサスと対決することになったが、論争自体はおおむねセプルベダの劣勢に終わり、出版許可は与えられなかった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%80
http://es.wikipedia.org/wiki/Juan_Gin%C3%A9s_de_Sep%C3%BAlveda ([]内)

 ラス・カサスは、スペインは、南北アメリカ大陸を奪取する権利などないのであって、宣教師達だけがそこに送られなければならない、と信じていた。
 他方、セプルベダは、原住民の諸社会は、極めて未開でひどい(awful)ので、彼ら自身のために<彼らは>従えられる必要がある、と信じていた。
 この闘いは、1550年の宮廷(court)での議論において最高潮に達したが、それは、諸人権の歴史における決定的な中間駅となった。
 教会と宮廷において、今日の読者達が「適切(correct)」として推すであろう立場であるところの、インディアン達は、欧州人達と全く同様にそれぞれ魂を有している、が優勢だった。
 しかし、トーマスが記すように、「西インド、つまりは、現地では(on the ground)、入植者達が勝利を収め」、南北アメリカ大陸一帯に広がり続けたのだ。」(A)

 「メキシコのチアパス(Chiapas)州<(注22)>の司祭のバルトロメ・デ・ラス・カサスは、「メヒコ人達とインカ人達はギリシャ人達とローマ人達と同じ知的能力を持っている」と執拗に主張した。
 そして、彼は、土着民達の諸権利について流暢にかつしばしば訴えたのだが、それは多勢・・彼らは、土着民達を奴隷労働に使用し、土着民達に基本中の基本の諸権利を否定していた・・に対する無勢の声だった。

 (注22)「メキシコ南東に位置する州。北はタバスコ州、北西はベラクルス州に接し、西はオアハカ州、東は一部ウスマシンタ川が境界となってグアテマラに接する。南部は太平洋に面する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A2%E3%83%91%E3%82%B9%E5%B7%9E

 コンキスタドール達は、土着民達は、当然の権利として彼ら自身のものである諸土地を治めることに関し、何の役割も与えなかったし、エンコミエンダ制(system of encomiendas)<(注23)>・・個々のコンキスタドール達に対する「特定の場所に住んでいる…一定の人数の土着民達による労働と貢納(tribute)」の供与・・を永続させた。
 それは、負債懲役制度(peonage)<(注24)>の文化を確立することにつながったのであり、今日に至るまでこの地域を悩ませることになった。

 (注23)「スペインによるアメリカ大陸の植民地支配時代、及び、スペインによるフィリピンの植民地支配時代に採用されていた、植民地住民支配のための制度・・・。・・・スペイン王室がスペイン人入植者に、その功績に対する王室からの下賜として、一定地域の先住民を「委託する(エンコメンダール)」という制度であり、エンコミエンダの信託を受けた個人をエンコメンデーロ(encomendero)と呼んだ。征服者や入植者にその功績や身分に応じて一定数のインディオを割り当て、一定期間その労働力を利用し、貢納物を受け取る権利を与えるとともに、彼らを保護しキリスト教徒に改宗させることを義務付けた。エンコミエンダと呼ばれる仕組みは、レコンキスタ時代のイベリア半島にもすでに存在し、やがてカナリア諸島に導入されたのち、コロンブスによってカリブ海のイスパニョーラ島で実施されている。しかし、コロンブス時代に実施されたエンコミエンダは、土地を配分する仕組みであり、上述した制度とは内容が異なっている。土地ではなく、先住民の信託を主軸においたエンコミエンダ制度は1502年、イスパニョーラ(ハイチ・ドミニカ)総督として赴任したニコラス・デ・オバンドが、イサベル女王に提案して、その許可を受けたことで始まった。・・・住民の身分はスペイン国王の臣民であった。この点でエンコミエンダ制は奴隷制と異なった。・・・エンコミエンダの信託には土地所有権は含まれず、エンコメンデーロ自らが農園を営んだ例はこの時代少なかった。先住民は、兵役や人夫、建築作業や砂金採取、糸紡ぎ、機織りなどの非農牧生産の賦役に用いるのが実態であった。・・・1542年、インディアス新法が公布された。この法律によりエンコミエンダ制は公式に<は>撤廃された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%80%E5%88%B6
 (注24)一方的な条件の下での非自発的な奴隷的労役制度。メキシコ(メヒコ)を征服したコンキスタドール達が土着民をスペイン人のプランテーションや鉱山で強制的に労働させたことに始まり、それがスペイン領アメリカ、とりわけ、メキシコ、グアテマラ、エクアドル、ペルーで行われた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Peon
 「征服当初、<土着>民の人口は稠密で、スペイン人が土地を買おうとしても売ってもらえず、またエンコミエンダ制で物納される農産物で都市市場は飽和していたため、スペイン人が市場向け農業を行なっても儲けは見込めなかった。ところが16世紀半ばには<土着>民の人口が激減し、貢納が減り農産品は値上がりした。先住民の村落に増えた空き地をスペイン人が買い入れ、都市や鉱山向けの農業、牧畜経営を始めた。この時期にスペイン当局が植民者に土地を恩貸地として贈与したのがアシエンダ<制>の始まりで、16世紀末には土地所有権が確立した。アシエンダは本来は「財産」を意味する言葉であったが、地価の上昇とともに不動産として「土地」の意味に代わった。・・・アシエンダの所有者は、アセンダード(hacendado)やパトロン(patron)と呼ばれた。・・・土地が極端に値崩れしていたため、アシエンダの面積は総じて広く、最低でも数百ヘクタール、過疎地のエスタンシア(牧畜アシエンダ)は数万ヘクタール規模であった。
 18世紀になると<土着>民人口は回復傾向に至るが、<土着>民を労働力として確保したいアセンダードらは、土地を<土着>民に売り戻すことはなかった。こうしてアシエンダの広大な土地のすぐ隣に、先住民の土地は細分化され、経営は零細化する。この大土地経営と零細経営の併存した構造は今日のラテン・アメリカ農業まで恒常化した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%80%E5%88%B6

 これは、到底自慢できる話ではない。」(C)

⇒中南米においては、土着民人口の一時期の激減は、基本的にスペイン人らが持ち込んだ病気という不可抗力によるものであった上、その後、スペイン人らと共存しつつ土着民人口が回復するわけであり、イギリス人等による虐殺・追い立てによって土着民が激減し続け、ついにほぼ全滅するに至ったところの、北アメリカの状況とは大違いです。
 この書評子の言葉を拝借すれば、欧州文明がアングロサクソン文明よりも「自慢できる」部分だって例外的にはある、ということになりそうです。(太田)

(続く)