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太田述正コラム#7424(2015.1.14)
<カール5世の帝国(その8)>(2015.5.1公開)

 「この物語には、(インディアン達に人道的な扱いをして欲しいと懇請した托鉢修道士達を除き、)英雄が殆んどいないのみならず、徹底的な悪漢達もまた殆んどいない。
 コンキスタドール達が貪欲で暴虐的であったことは確かだが、彼らの狂気じみた勇敢さは否定しようもない。
 彼らは、貪欲だけに突き動かされていただけでもない。
 栄光を求める、及び、カトリック信仰を普及したいという、身を焦がすような欲望もまた、重要な役割を演じた。

⇒これは、とんだ転倒した論理です。
 カトリシズムが、欧州の世界侵略のためのイデオロギーを提供していた、ということでしょう。(太田)

 植民者達の若干は、殆んどドン・キホーテ的な寛大さを示すことが可能だった。
 他の者達は、殺人者達を何度も赦免しつつも、自分に逆らった200人のインディアン達の諸手や諸鼻を切り落とすのを躊躇することはなかったところの、チリの征服者たるバルディビアのように、慈悲と残酷さを兼ね備えていた。・・・
 <とはいえ、>インディアン達も、それよりはマシというわけではなかった。
 いや、どうしてマシでありえようか。
 彼らは、スペイン人たる自分達の諸敵を殺し、内臓を取り出し、食べることさえした。
 <スペイン人たる>男達、女達、及び、子供達は、間欠的に生起した土着民の諸蜂起の際、自分達の諸心臓が引きちぎられることを予期しなければならなかった。
 現在のアルゼンティンで、ラプラタ(Plate)川<(注19)>に置き去りにされた偵察隊の成員達は、遠征隊の残りが彼らの諸船から眺めている前で、クェランディ部族(Querandi)<(注20)>の男達によって、その「肉片を一片ずつ」食べ尽された。

 (注19)Rio de la Plata。「<現在の>アルゼンチンとウルグアイの間を流れる川・・・。河口部が全幅約270kmの三角江(エスチュアリー)となっている。<この>川は・・・無数の支流を含む巨大な水系としての意味も持ち、その流域面積はおよそ310万km2でパラグアイ全土、ボリビア南東部、ウルグアイの大部分、ブラジルおよびアルゼンチンのかなりの部分を含んでいる。河口部には、<現在、>ウルグアイの首都モンテビデオ、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスがある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BF%E5%B7%9D
 (注20)パンパ生息の原住民。背が高く極めて戦闘的。弓矢等のほか、先が二つに分かれた縄の先にそれぞれ錘が付いている、ボラス(Bolas)という武器を用いて狩りを行うとともに、これらを戦闘にも用いた。
 1536年に行われた戦いで、スペイン人達はクェランディに敗北。その後、乗馬することを覚えたクェランディは抵抗を続け、1583年にも、ペルー副王の下の(現在はパラグアイの)アスンション(Asuncion )の総督が、ラプラタ河畔で待ち伏せ攻撃を受け、殺されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Querand%C3%AD
http://en.wikipedia.org/wiki/Bolas
http://en.wikipedia.org/wiki/Juan_de_Garay
 なお、パンパ (Pampa) は、「<現在の>アルゼンチン中部のラプラタ川流域に広がる草原地帯。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスを中心に、半径約600kmの半円形を描く地域である。・・・関東平野の約60倍の大きさで、肥沃な土壌が広がっており、世界有数の牧畜地域でもある。アルゼンチンの人口の3分の1がここに集中している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%91

 恐らく、最悪の目に遭ったのは、捉えられた黒人奴隷達だったろう。
 彼らは、インディアン達によって、「洗えば白くなるかどうか見極めるために」、ごしごしこすって死に至らしめられた。
 トーマス氏の本の良い諸点の一つは、インディアン達を理想視していないことだ。
 スペイン人達が突入(erupt)した社会は、既に暴力的で残酷だった。
 奴隷制と人身御供が付き物(endemic)だったのだ。
 インディアンの諸制度のうちの若干の甚だしい暴虐性が、結局のところ、かくも多くの土着民達をコンキスタドール達の側に立つように動かし、<彼らに対する>分割統治を促進したわけであり、このことなくしては、かくも少数の旧世界の冒険者達が、はるかに多数の地域住民の主人となることなど絶対にありえなかった、といえよう。
 トーマス氏はこんな風には書いてはいないけれど、コロンブス到来より前の中央及び南アメリカ大陸において、何らかの種類の体制変革が長く待ち望まれていた、という画然たる印象を、読者は抱かされるのだ。」(D)

⇒インカの社会制度は社会主義的であったけれど、奴隷がいたわけではなさそうですし、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD
マヤの社会制度についてはよく分かっていないようですし、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A4%E6%96%87%E6%98%8E
アステカには、「最下級に戦争捕虜や負債などのために身売りした奴隷・・・が存在し<たところ、>奴隷は自由身分に解放されることもあったが個人の所有物として相続の対象とされ」たことは確か
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%AB
ですが、その後の南北アメリカ大陸における、欧米人を所有主とする、黒人奴隷制に比べれば、奴隷になる原因も、また、奴隷になってからの扱いも、より人道的であった、と言えるのかもしれません。
 また、人身御供については、宗教がもたらした人命の損失、と捉えつつ、前述したことを踏まえれば、少なくとも同時期ないしその1世紀くらい後までの欧州と、醜悪さにおいて甲乙付け難い、というべきでしょう。
 結局、この書評子は、イギリス>欧州>コロンブス渡来前南北アメリカ、という文明的序列意識に立脚した、偏見を吐露しているに他ならない、と批判されるべきではないでしょうか。(太田)

(続く)

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