太田述正コラム#7422(2015.1.13)
<カール5世の帝国(その7)>(2015.4.30公開)

 「彼ら、コンキスタドール達は、断固たる忠誠心をスペイン王室・・彼らが奪取したいかなる諸富についても、その20%を受け取った・・に対して抱いていた。
 スペインに戻ったガレオン船群(galleons)<(コラム#7138)>は、金と銀を満載しており、カールは、それらを、トルコ、フランス、及び、宗教改革諸勢力に対する諸戦争の資金として用いた。・・・
 ジャレド・ダイアモンド(Jared Diamond)<(コラム#1023、1882Q&A、3769、5637、5643、5966、6917、7218)>は、彼の『銃・病原菌・鉄(Guns, Germs, and Steel)』<(コラム#1023、1882Q&A、5643、5966、6917)>の中で、これらの諸時代における欧州の諸軍の諸勝利は高度な武器に起因する、と主張する。
 ピサロの兵士達は、火縄銃群を携行した。
 重いが携行可能な火縄式の銃群は、我々は、現在でこそ原始的だと考えるけれど、それらはしかし、大部分において弓矢を用いたところの、インディアン戦闘員達に対しては致死的だったのだ。・・・
 1540年末に、フランシスコ・ピサロは、(<現在の>ペルーの中の)キト(Quito)の総督に、自分の弟で可愛くて勇ましいゴンサロ(Gonzalo)<(注15)>を指名した。

 (注15)1502〜48年。「1541年にアマゾン地方の探検に出かけ失敗し翌年、ペルーに帰った。スペイン王室がエンコミエンダの苛政と苛烈な収奪を制限しようとするとそれに反発する現地のスペイン人反乱のリーダーとなって反逆したが捕らえられ処刑された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%B5%E3%83%AD

 彼は、大アンデス山脈の東側でシナモン(cinnamon)を探すのが目的の遠征の準備に没頭した。
 彼の隊は、フランシスコ・デ・オレリャーナ(Francisco de Orellana)<(注16)>の隊と合流した。

 (注16)1511〜46年。「1541年の遠征に参加した・・・。1541年12月に、現在のナポ川でオレリャーナの船は本隊から分離された。その後、オレリャーナの部隊はアマゾン川の全距離を航海し、1542年8月に河口に到達した。・・・アマゾン川にその名が命名されたのはこの航海上であった。オレリャーナは勇敢な女性の戦士に攻撃されたと記録している。しかし、実際には長髪を持った男性の戦士との戦闘を行ったことが考えられる。オレリャーナはアマゾン川を下った後の航海中に死去した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A
 「ナポ川(Napo)は、アマゾン川の支流。<現在の>エクアドル<に源流がある。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E5%B7%9D

 アンデス山脈の只中で、オレリャーナは、一群の男達を連れて、食物探しに出かけたが、ついに戻ってくることはなかったので、ピサロはまことにもって無念の思いをした。
 オレリャーナと彼の男達は、知らないまま、アマゾン川の源流を発見したのであり、彼らがそのことを知る前に、彼らのカヌー群は、下流に向けて速い速度で運ばれて行った。
 その過程で、彼らは、彼らのカヌー群に毒投げ矢群(darts)を投げかけてきたところの、敵対的なインディアン達によって、何度も攻撃された。
 (このくだりは、まるでインディアナ・ジョーンズ(Indiana Jones)<(注17)>みたいだ。)

 (注17)元々はTVシリーズであり、その26のエピソード中、中南米が舞台になるのは、その一部にペルーが登場するエピソード24と、ペルーが主舞台であるエピソード26だけだが、それぞれが、映画化された4エピソード中の、最初のものである『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』と最後のものである『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』にあたっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA_%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA

 最終的に、彼らは、アマゾン川河口と大西洋に到着し、どのコンキスタドール達のよりも悲惨な諸冒険を生き抜いた。
 もう1つの詳しく物語られてきた不運な冒険は、現在のニューメキシコとアリゾナ<等>へ分け入ったコロナード(Coronado)<(注18)>によるものだった。

 (注18)フランシスコ・ヴァスケス・デ・コロナード・イ・ルヤン(Francisco Vasquez de Coronado y Lujan。1510〜54年)。「スペインのサラマンカに生まれる。彼は1540年から1542年の間に・・・現在<米>国領の南西部を旅行した。・・・コロナードはヌエバ・ガリシア(現在メキシコのシナロア、ナヤリット州)の総督であった。・・・コロナドは・・・黄金<の噂を聞き、>遠征することを決定した。1540年に、340人のスペイン人、300人のインディアン同盟者、1,000人の<インディアン達>と黒人奴隷達からなる遠征団を組織した。・・・<また、現地から、>彼は様々な遠征隊を派遣した。・・・<しかし、結局、目的を達成しないまま、>・・・1542年に彼は・・・メキシコに戻った。部下の内100人だけが一緒に帰還できた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%89

 <コロナード自身は同道していないが、彼が遠征させたうちの一隊の>男達が、それを見た最初の白人達となったところの、グランドキャニオンを覗き込んだ時の驚愕を想像して欲しい。
 それは、1541年のことだった。・・・
 「1551年から1555年の間に、西インドからのスペイン王室の輸入額は50万ペソ(peso)で、私人の輸入額は600万ペソを超えた。
 騎士道を忠実に写し出すとともに、偉大なるブルゴーニュの諸伝統の継承者でもあるところの、カールは、これらの諸数字と諸合計に首を傾げつつ何時間も過ごしたものだ。」(F)

(続く)