太田述正コラム#7420(2015.1.12)
<カール5世の帝国(その6)>(2015.4.29公開)

 (3)新世界の征服

 「コルテスの方がピサロよりも偉大であると主張する方が容易だと私は思う。
 前者によるアステカ・・トーマスはそれをメヒカなる、「彼らのより正確な名前(designation)」、で呼ぶことに固執する・・の敗北は、はるかに優れた武器のおかげで土着民達を圧倒したところの、小規模な兵力による莫大な(immense)巧みさ(skill)でもって実行された。
 首都のテノチティトラン(Tenochtitlan=<現在の>メキシコ・シティ)の素晴らしい再建の責務を果たし、ノバイスパニアを断固たる、しかし、柔軟な手でもって統治した。・・・
 トーマスの彼についての判断は公正だ。・・・
 コルテスの、モクテスマ(Montezuma)<(注13)(コラム#7136)>を誘拐した戦術は、単にペルーにおいてのみならず、百回も真似をされた。

 (注13)モクテスマ2世(Moctezuma II。1466〜1520年)またはモンテスマ(Montezuma)、モテクソマ(Motecuhzomaa)は、メ<ヒ>カ族の、アステカの第9代の君主(在位1502〜1520年)。・・・メ<ヒ>カ族は1428年以来、同言語群で異民族の国である<他の2国>と三国同盟を結んでいた。・・・コルテスは・・・モクテスマ2世を幽閉し<たが、その後>・・・暴徒と化したメシカ族を抑えるためコルテスは・・・<彼に>説得するよう要求した。しかし、国民を説得するため居室を出て防壁に登ったモクテスマ2世には雨のような石が投げられ、彼の頭部を直撃した。最初は致命傷には見えなかったが、翌日には傷が元で息を引き取った。コルテスとの出会いから約半年後の出来事であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%9E2%E4%B8%96

 兵士達の小規模な部隊(company)を用いて南北アメリカ大陸を変容させた巧みさは、小数の騎兵達でもって、彼らもまた、一つの王国を我が物にする(capture)ことができるはずだと考える、他の征服者達に霊感を与えた。・・・
 <これらの>コンキスタドール達(conquistadors)は、新世界に入植したり新世界を改善したりではなく、新世界を略奪するためにやってきたのだ。」(C)

 「弾力性があって頑健で勇敢な部類であった彼らは、熱烈に敬虔な男達でもあった。
 彼らは、征服するのと同じくらい、インディアン達に福音を伝え、彼らをキリスト教へと改宗させることにご執心だった。」(F)

 「第1巻の終わりで、トーマスは、「[コンキスタドール達]は、諸征服を明確な良心を抱いて行った。
 自分達が、<新世界の>これらの新しい人々をして、最終的に、彼らの遅れた諸条件から脱せしめることを可能にすると信じるところの、文明を携えてきていることを確信していたのだ。
 人身御供ないし太陽または雨についての単純な崇拝に立脚した宗教の観念を排斥したことは正しかったことに、今、疑問を呈することができる者がいるだろうか。」と記した。

⇒アステカ文明及びインカ文明では、太陽神信仰に基づく人身御供が行われ、マヤ文明で、雨神信仰に基づく(日照りの際の)人身御供が行われたことは事実です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E5%BE%A1%E4%BE%9B
 まず、太陽神や雨神よりも一神教、とりわけ、キリスト教は文明的優位にある、というトーマスの考えには、私は、全く同意できません。
 「皇室の祖神で、日本民族の総氏神」である天照大神は太陽神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E
ですからね。
 また、人身御供それ自体については、私も、嫌悪感は覚えるものの、冷静かつ客観的に見れば、16世紀から17世紀にかけて、巨大な人命喪失を伴ったところの、宗教戦争が吹き荒れた欧州の文明、ないし、それを引き起こす大きな原因の一つとなったキリスト教、の野蛮さ、と、頻繁に人身御供を行ったところの、南北アメリカ大陸の原住民の諸文明、ないし、その背景にあった太陽神信仰や雨神信仰の野蛮さ、とは、いい勝負ではないでしょうか。(太田)

 トーマス<のこの見解>は、一定のゼミ諸会場では人気を博さないだろうが、彼をスペイン帝国主義の弁明者と呼ぶのは失礼というもの(crude)だろう。
 彼はコンキスタドール達の暴虐性から目を逸らそうとはしていないからだ。
 彼は、単にそれを冷静に(unsentimentally)に見ているだけなのだ。・・・
 トーマスは、<彼の>典型的な力でもって、1516年以降、コンキスタドール達が、ユカタン半島、グアテマラを探検するとともに、南下を始めた、という諸偉業を描写する。
 これらの年々こそ、スペインのシグロ・デ・オロ(Siglo de Oro)、すなわち、「黄金の世紀」なのだろう。・・・
 コンキスタドール達の中には、自分達自身が、土着民の諸報復の矛先を向けられる羽目に陥った者達もいた。
 国王任命のチリ総督にしてサンティアゴ市(Santiago)の創設者であるペドロ・デ・バルディビア(Pedro de Valdivia)<(注14)>は、彼の手のもとで、甚だしく苦しめられたところの、アラウカニアン(Araucanian)・インディアン達の手によって慄然たる死を迎えさせられた。

 (注14)1500〜54年。「<イベリア半島の>エストレマドゥーラ地方<出身。>・・・ピサロの腹心<となる。>・・・1540年、少数の兵を率いてペルー南の土地を占拠する為に新たな遠征を敢行すべくクスコを出発した。アタカマ砂漠などを乗り越え陸路で1年進行した後に1541年2月・・・、マポチョ川辺、現在のサンタ・ルシアの丘付近に現在のチリの首都であるサンティアゴ市を建設した。その7ヵ月後、原住民インディ<アン>により襲撃を受けた。それでも征服を目指す遠征を南へと続け、その影響はビオビオ川の先(南緯37度)にまで及んだ。1547年に援軍を求めてペルーへ帰還。王党軍に加わりゴンサロの反乱鎮圧に功績を上げたあとチリ総督に任ぜられた。しかし、マプーチェ族の指導者ラウタロとの戦闘で敗走中に捕らえられ、拷問の上処刑された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%93%E3%82%A2
 「16世紀以降南アメリカに進出したスペイン人の報告では、彼らはアラウカノ族(Araucanos)またはアラウコ(アラウカーノ)語族(Araukanians)と呼ばれていたが、現在では軽蔑的な言葉としてこれは忌避され、チリやアルゼンチンではもっぱら「マプチェ族」の表現が用いられており、彼ら自身もこれを歓迎している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%97%E3%83%81%E3%82%A7%E6%97%8F

 彼は、1553年のクリスマスの日の戦闘において捕虜となった。
 トーマスは、彼の運命を淡々と(coolly)描写する。
 ある目撃者によれば、「バルディビアは、インディアン達によって、武器を取り上げられ、裸にされ、次いで、縛り上げられた。
 彼らは、火を起こし、ムール貝群(mussel shells)でもって、彼の両腕から肉を削ぎ落として<焼いて>食べた。
 他の拷問が続き、最終的に、彼らは、彼の首を切り離した。」(G)

(続く)