太田述正コラム#7412(2015.1.8)
<カール5世の帝国(その2)>(2015.4.25公開)

2 カール5世の帝国

 (1)序

 「トーマスは、<2011年>10月には80歳になるが、1961年に、・・・スペイン内戦史で舞台に初登場した。
 爾来、彼の諸関心は時間を逆戻りする形で遷移した。
 現在進行形の<彼の>事業は、間違いなく、そのキャリアの頂点として企図されたものであり、概ね、フェルナンド(Ferdinand)<(注1)>国王とイサベル(Isabella)<(注2)>女王がイベリア半島におけるイスラム居留地(outpost)を席巻した1491年、から、彼らの曽孫であるフィリップ2世がしぶしぶ支那侵攻を行わない決定を下した1580年に至る、スペインの興隆に集中している。

 (注1)1452〜1516年。アラゴン王:1479〜1516年。「父からシチリア王位を継承し<た年の翌年の>1469年・・・にカスティーリャ王女イサベルと結婚<したが、>・・・1479年、フェルナンドは父の死去に伴いアラゴン王位を継承し、アラゴン王フェルナンド2世となる。<その後、1474年にイサベルがカスティーリャ女王となったことに伴い、フェルナンドは>カスティーリャの共同統治者<となったが、更に、父の死去に伴い、1479年に>フェルナンドがアラゴンの王位をも得たことにより、両国は内政面ではそれぞれ独立しているものの対外的には一体化し、カスティーリャ=アラゴン連合王国、すなわちスペイン王国(イスパニア王国)が誕生した。1492年・・・グラナダ王国を滅亡させて、約800年にわたるレコンキスタに終止符を打つ。1496年にはローマ教皇・・・により、この偉業が讃えられ、フェルナンドとイサベルは「カトリック両王」の称号を授けられることになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%892%E4%B8%96_(%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3%E7%8E%8B)
 (注2)1451〜1504年。カスティーリャ女王:1474〜1504年。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%99%E3%83%AB1%E4%B8%96_(%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%A3%E5%A5%B3%E7%8E%8B)

 <ところで、この本の>『黄金の帝国』という命名はいかがなものか。
 というのも、その領域(realm)は、ボリヴィアとメキシコでの巨大な銀鉱床群の発見によって相互に結び付けられていたからだ。
 <とまれ、>この本は、1521年の、エルナン・コルテス(Hernando Cortes)<(注3)(コラム#147、5728、7136、7138)>によるメヒカ(Mexica)・・三つの土着諸国家の同盟に付けられ、よく知られている名前であるアステカ(Aztec)は、19世紀になってからの創作(invention)だ・・から、1556年の、フィリップの<スペイン>国王即位までの期間をカバーしている。」(A)

 (注3)1485〜1547年。「はじめ法律家を目指しサラマンカ大学に通ったがかなえられなかった。・・・1504年に・・・イスパニョーラ島に渡り植民者となった。・・・<そして、>キューバ征服に参加・・・<し、更に、アステカ征服に着手するとともに、>1524年、ホンジュラスのスペイン併合を宣言<し、>・・・1521年<には、アステカの国王を捕え、>・・・1525年<には>・・・アステカ<を>滅亡<させ>、メキシコ<を>スペインに併合<し>た。・・・1540年、スペインに帰国<し、>・・・1541年にはカール5世のアルジェ遠征に参加した。1547年・・・、セビーリャ近く・・・にて、62歳で死去。遺体は遺言により、メキシコシティと改称したテノチティトランに自身が建てた・・・病院内の礼拝堂に埋葬された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%B9

 <2003年の>『黄金の川々』の中で、トーマスは、スペインの統治者たる、へント(Ghent)<(注4)>のカール(Charles)の神聖ローマ皇帝選出の直後の、メキシコの征服において頂点に達するところの、アメリカにおけるスペインの海外帝国の起源についての叙事詩的物語を我々に与えてくれた。

 (注4)「<現在、>南東に位置するブリュッセル、北東に位置するアントウェルペンに次ぐベルギー第3の都市。・・・日本では、英語(Ghent)あるいはドイツ語(Gent)由来のゲント、フランス語(Gand)由来のガンの名で呼ばれることも多い。・・・9世紀から18世紀にかけてフランドル伯が支配し、その居城が存在する。中世後期において織布業の中心として繁栄し、その人口はパリにも匹敵するほどであったが、16世紀後半の八十年戦争(オランダ独立戦争)以降は停滞した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%88

 その本は、いわば突然、1520年代において、セビリア(Seville)が、西インド(Indies)におけるスペインの帝国の事実上の首都として振る舞う(stood poised)形で出現(evocation)した頃に終わった。
 <その頃には、その本で、>スペイン帝国の興隆を図示した後に、この著者が将来いつの日にかその更なる拡大と強化をカバーすべくこの話を展開して行くことを計画しているような気配はなかった。
 カール5世の君臨(reign)をカバーする、この新しい巻の出現は、従って、その前の巻を堪能した多くの読者達にとって殊の外うれしいことだ。
 その序文は、この本・・500頁を超える文章からなる・・が、明確に<トーマスの>主要事業となったところのものの、続きであることを我々に教えてくれる。
 <次の>第3の巻についての作業は既に始まっており、それは、話を1580年・・スペインがその諸責任を拡大することを止め、カールの息子で後継者たるフィリップ2世が支那を征服しようとはしないことを決定した年・・まで進めることとなろう。」(B)

 「<第1の巻の>タイトルは、バルボア(Balboa)<(注5)>のダリエン(Darien)・・今日のコロンビア・・に「黄金の川々」がある、との主張の暗示だった。

 (注5)バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(Vasco Nunez de Balboa。1475〜1519年)。「スペインの探検家・植民地政治家。<地理的意味での欧州>人として初めて太平洋に到達した功績で知られる。・・・スペイン南部・・・出身。実家は貴族身分ながら貧困にあえいでいた。1500年にイスパニョーラ島へ開拓者として移住・・・<後に、>先住民の案内でパナマ地峡を横断し、<1513年>9月25日に<彼が率いる>隊は海に到達した。・・・彼の探検によってアメリカ大陸が2つの大海に接する大陸であることが明らかとなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%82%A2

 <今度の、>『黄金の帝国』の中では、トーマス氏は、話を、ペルーとチリの征服を含め、16世紀央におけるカール5世の死に至るまで展開させる。
 この著者は、・・・この帝国を更に西方へと拡大し、自分の名前をフィリピンに与え、支那を征服しようとしないことを決定したところの、フィリップ2世に、揶揄的な(teasing)言及を行う。」(D)

(続く)