太田述正コラム#7396(2014.12.31)
<河野仁『<玉砕>の軍隊、<生還>の軍隊』を読む(その8)>(2015.4.17公開)

 「<米>陸軍の軍人に関しては、完全に白人部隊とは分離されて「黒人部隊」が編制されており、その数は70万人にのぼっていた、しかしながら、黒人将校不足のため、多くの部隊は白人の将校によって統率されていた・・・。
 もちろん、日系人「二世部隊」も別組織であった。」(129)

⇒河野は、米海軍と米海兵隊に言及しないことで、あたかも米陸軍以外では「分離」がなされていなかったかのような印象を与えてしまっています。
 実際には、先の大戦においては、米海軍では、最後まで、黒人の大部分は艦艇内における給仕役にとどめ置かれましたし、米海兵隊では、1942年6月まで、一切黒人を受け入れておらず、それ以降も、黒人と白人の統合は遅々として進みませんでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_segregation_in_the_United_States_Armed_Forces
 なお、当時、まだ、米空軍は存在していませんでしたが、(海軍とは違って)陸軍は黒人パイロットの養成はしたものの、彼らは、やはり、黒人だけの部隊での勤務に終始しました。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_segregation_in_the_United_States_Armed_Forces (太田)

 「満州事変当時の・・・<日本の>陸軍省調査班作成の一覧表によると、米陸軍の師団は日本と比べて約3倍の小銃・軽機関銃、約4倍の重機関銃(高射砲を含むと8倍)、4倍の平射歩兵砲、2倍の曲射砲兵砲を持っていた。
 他の列強諸国軍の装備と比べても<、米陸軍の>火器の多さ、とくに機関銃と小銃(自動小銃を含む)の数の多さは群を抜いている。」(151)

⇒「21世紀初頭現代の各国陸軍の師団は、2〜4個連隊または旅団を基幹として、歩兵、砲兵、工兵等の戦闘兵科及び輜重兵等の後方支援部隊などの諸兵科を連合した6千人から2万人程度の兵員規模の作戦基本部隊である」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AB%E5%9B%A3
というわけですから、厳密に言えば、満州事変当時〜第二次世界大戦頃、の日米の典型的な師団の兵員規模がそれぞれどれくらいだったのかを踏まえなければ、師団の火器の質や量を比較しても余り意味がないわけですが、このくだりを読むだけでも、私が、「米軍が日本軍に勝利できたのは、もっぱら、日本をはるかに凌駕していた当時の米国の経済力と科学技術力のおかげ」と記したことに、皆さんも、直観的にご納得いただけるのではないでしょうか。(太田)

 「<しかも、>制空権、制海権を次第に失い、輸送や補給の度重なる失敗のため、火力を重視した作戦の実行が現実問題として非常に困難だったこと<から、日本陸軍は、>夜襲による白兵突撃に頼らざるを得な<か・・・>った。
 もっとも、装備・兵力の劣勢な部隊が戦勝を得るには「夜間奇襲攻撃」という戦術は合理的な選択でもあった。・・・
 <そして、>白兵主義のパラダイムを自明とし、その考え方の枠内で兵士の戦闘行動を効果的なものにしようとすれば、「攻撃精神」を強調し、恐怖心を否認し、生きた人間を刺し殺す訓練をすることで銃剣刺殺にともなう「殺人」の罪悪感を麻痺させることは・・・「戦闘意欲を阻害する要因」の軽減につながる。
 その意味で、これら一見非合理的な訓練や思考法も「白兵主義」を信奉する限り「合理的」な選択であったといえる。」(156)

⇒このくだりについては、河野を褒めたいと思います。
 事実上の国際法違反であるところの捕虜の日本軍による虐殺に理解を示しているのですから・・。
 縄文的意識を拭い去るように、新兵訓練において基礎的イニシエーションを施された新兵が、戦場に送られた後、イニシエーションの総仕上げとして行われるのが、捕虜刺殺訓練であった、と言えそうですね。(太田)

 「「上官と部下との間の強い絆」こそが、日本軍兵士の戦闘意欲を促進する主要な要因のひとつであり、「第一次集団の絆」形成の特徴でもある。・・・
 戦闘への根本的な動機づけ<としては、>「欧米に対する反発」<を挙げ、>「忠君愛国とか天皇陛下のためじゃなく、郷土のため、同胞をこういう目にあわせたらいかんという連帯感と民族心ですよ」と断言する<者もいる。>・・・
 「天皇陛下のために」戦ったという兵士もいたことは確かである<が、>・・・<かれ>は、大学時代から天皇機関説により「天皇は神様じゃない」と考えており、「天皇陛下イコール国」だととらえていたのだという。つまり、かれにとっては「天皇陛下のため」という表現に込められた真意は、「天皇陛下個人のため」ではなく「国や国民のため」であったというのである。」(161〜162)

⇒ここも、期せずして(?)、河野は重要なことに触れています。
 つまり、当時の日本の兵士達は、(縄文的意識を拭い去れた度合いこそ様々であれ、)その多くが、まことにしっかりとした動機(意識)を抱いて戦ったらしい、ということです。
 河野は「欧米に対する反発」を掘り下げようとしていませんが、これこそ、私がかねてから指摘しているところの、正戦意識の表れなのです。
 私見では、この正戦意識を、日本の兵士の多くは共有していたところ、このことこそ、太平洋戦域において、米国の兵士・・正戦意識が不十分で、しかも、戦いが続くにつれて、その意識が一層薄れて行った・・と、日本の兵士とを分かつ、最大の点だったのです。(太田)
 
(続く)