太田述正コラム#7380(2014.12.23)
<河野仁『<玉砕>の軍隊、<生還>の軍隊』を読む(その2)>(2015.5.9公開)

 「<この>ような「質的な研究方法」とは対照的に、質問紙調査による数量的データの収集と分析によって戦闘意欲の問題に取り組んだのは米国の社会心理学者サミュエル・A・ストウファー<(注3)>を中心とする陸軍嘱託の研究者たちであった。

 (注3)Samuel Andrew Stouffer(1900〜60年)。米モーニングサイド単科大学卒。ハーヴァード大修士(英語。1923年)。父の新聞の編集長を経て、シカゴ大博士(社会学。1930年)。シカゴ大、ロンドン大、ウィスコンシン州立大マディソン校で教鞭を執った後、ハーヴァード大教授。
http://en.wikipedia.org/wiki/Samuel_A._Stouffer

 第二次世界大戦中、欧州戦線や太平洋戦線で従軍したのべ数万人にのぼる米軍兵士を対象としたアンケート調査のデータを戦後まとめた大著『アメリカの兵士(The American Soldier)』(全4巻、1949年刊行)<(注4)>は「戦闘の社会学」研究における数量的アプローチの古典であり、同時に、現代社会学研究における数量的データ分析方法発展の礎石を築いたという点でも特筆すべき重要な業績である。」(19〜20)

 (注4)日本では、一般に『アメリカ兵』というタイトルで言及されているようだ。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B5%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%A5+%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A6%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC-1624683
 なお、ストウファーの主著には、もう一つ、'Communism, Conformity & Civil Liberties: A Cross Section of the Nation Speaks its Mind’(1955年)がある。(ウィキペディア前掲)

⇒重箱の隅をほじくる、と言われそうですが、「米国」という言葉を河野が使っていることを褒めようと思っていたところ、彼が、ここで、(邦訳が出ていないと見てよさそうな)「大著」のタイトルについて、「兵」は「の兵士」へと訳を変えつつ「アメリカ」についてはそのままにしたのはいただけません。
 どうやら、河野は科学者としてのイロハであるはずの用語の一貫性に無頓着なのではないか、という疑念を抱かざるをえません。(太田)

 「<それによれば、>1943年にオレゴン州で訓練をうけた米陸軍の新兵は、「ドイツ兵を殺してやりたい」と思っている者は309名中の7%程度に過ぎないのに対し、「日本兵を殺してやりたい」と思っている兵士は43%にも達していた。・・・
 <戦場の地理的条件だけに係る元米兵士の証言を紹介した後、>人種的偏見も、戦場の地理的条件も、人間としての兵士が闘う際には看過できない重要な要素なのである。
 しかしながら、興味深いのは、当初の偏見も、戦闘体験を通じて変容してゆくことも示唆されている点である。
 「戦後、日本人(もしくはドイツ人)をどうするのがよいか」という質問に対し、「日本人を一掃すべき」だと答えた米軍将校は、欧州戦線従軍者では44%、太平洋戦線従軍者で35%であるのに対し、「ドイツ人を一掃せよ」と答えた者は、それぞれ13%、15%であった。^^
 一方、米国内にいる米軍の下士官兵は、同じ質問に「日本人を一掃すべき」だと答えたものは67%、欧州戦線では61%だが、太平洋戦線で日本軍と戦った兵士では42%となり、「指導者は罰しても、一般庶民は罰すべきではない」と答えた者が47%となっている。
 この数字は、欧州戦線26%、米国本土23%とくらべてほぼ2倍である。ドイツ人の場合には29%から22%が「一掃せよ」と答えているのと比較すれば、米軍の将兵が、実際に日本軍と対戦を重ねながら敵である日本人についての理解を深め、人種的偏見を改めていったことがわかる。」(20〜21)

⇒「新兵」というのは一般「兵士」ということになるはずであり、河野は、「兵士」、「下士官兵」、「将校」の三つに分けて話を進めているように思われるところ、「上掲の最後から2番目のセンテンスの中で、「下士官兵は」と言いだしておいて、終わりの方で「兵士では」と言っていて、何が言いたいのか訳が分からなくなってしまっています。
 河野の用語の一貫性への無頓着性が彼の文章の理解を妨げている、というわけです。
 より深刻な問題だと私が思うのは、第二次世界大戦当時の米国人の人種的偏見についての元米兵士の証言を省いたのみならず、「米軍の将兵が・・日本人に<対する>・・・人種的偏見を改めていった」などと、当時の米軍将兵を持ち上げるような記述を行い、当時の米国人達の、対ドイツ人と比較した対日本人の人種的偏見の甚だしさ・・だからこそ、開戦劈頭、日系米国人を収容所送りにした・・の実態と原因について、自身の研究・・少なくとも彼の「主な論文・著書」の中には見当たらない
http://www.nda.ac.jp/cc/koukyou/kawano.html 前掲
・・なり分析の一端を披露するどころか、一言の言及すらないことです。
 先の大戦当時の日米の将兵の「戦闘意欲」等を文化的観点から解明しようというのであれば、米国の将兵の「敵」たる日本人達に対する人種的等の偏見について、それが甚だしいものであればなおさら、正視すべきなのではないか、と私は思うのですが・・。
 まさに、そのような甚だしい偏見があったからこそ、米国の指導層は、米軍の上層部を含め、日本に対しては良心の呵責なしに原爆の投下をやってのけるだけの「戦闘意欲」ならぬ「戦争意欲」があった、という疑いが濃厚である、というのに・・。(太田)

(続く)