太田述正コラム#7346(2014.12.6)
<ギリシャとチャーチル(その3)>(2015.3.23公開)

-------------------------------------------------------------------------------
<ギリシャと英国の因縁:>

一、バイロン

 第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron。1788〜1824年)(コラム#3371、3373、3394、3431、7263)は、余りにも有名なイギリスの詩人・・ちなみに、彼の一人娘が、世界最初のプログラマーとされているエイダ・ラブレス(Augusta Ada King, Countess of Lovelace。1815〜52年)・・だ。
 「1823年ギリシャ暫定政府代表の訪問を受けた彼は2年前から始まっ<てい>たギリシャ独立戦争へ身を投じることを決意、1824年1月にメソロンギに上陸し、コリンティアコス湾の要衝、レパントの要塞を攻撃する計画をたてたが、熱病にかかって同地で死んだ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%B9

二、エルギン

 「パルテノン(Parthenon)<(注8)>は、部分的に初期のキリスト教徒達によって破壊され、モスクに変えられ、そしてのちにはオスマントルコによって武器庫として使用されたため、その2250年経つ彫刻群は、エルギン(Elgin)<(注9)>がコンスタンティノープルにおける外交的職責に就くまでに、約40%が破壊されてしまっていた。

 (注7)「古代ギリシア時代にアテ<ネ>のアクロポリスの上に建設された、アテ<ネ>の守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%8E%E3%83%B3%E7%A5%9E%E6%AE%BF
 私は、1957の地中海クルーズの時、及び、1988年のイギリス留学の夏休みの時、の都合2回、訪れている。
 (注9)Thomas Bruce, 7th Earl of Elgin and 11th Earl of Kincardine(1766〜1841年)。スコットランド貴族にして外交官。駐オスマントルコ大使:1799〜1803年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Bruce,_7th_Earl_of_Elgin

⇒「1687年9月26日、オスマン帝国によって火薬庫として使われていた神殿はヴェネツィア共和国の攻撃によって爆発炎上し、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%8E%E3%83%B3%E7%A5%9E%E6%AE%BF 前掲
にもかかわらず、この記事の筆者は、彫刻群の破壊の最大の原因をぼかして書いており、オスマントルコを含むイスラム教徒に、主としてその罪をなすりつけようとしている、と言われても致し方あるまい。(太田)

 エルギンは、芸術愛好家であり、この彫刻群は、彼が見出したところの、危い環境ではなく英国にあった方が好適である、と主張した。
 1801年に、パンテオンから彫像等を移動させるべく、当時アテネを支配していたところの、トルコ当局から許可を得るためと彼が称したことについて、この当局と交渉を行った。・・・
 この彫刻群は、1801年から1805年にかけて英国に運ばれた。
 そして、1807年には、ロンドンで展示された。
 彼がイギリスに戻った時、エルギンは、議会の査問の場で、宝物のうち残されたものを守ろうと欲したことが、それらを持ち去った彼の動機の一つだと述べた。
 トルコ人達は、モルタルを作るために、この彫像群を磨り潰すことさえやってきた、と彼は主張した。・・・
 エルギンの、この大理石群<・・後世、エルギン大理石群(Elgin Marbles)と呼ばれることになる・・>は、その新しい場所(location)で世界中からやってくる人々によって憧憬されるようになりうる、との主張は、自分の個人的な家で収蔵するという、彼のもともとの意図からして、必ずしも説得力がなかった(stymied)。・・・
 いずれにせよ、エルギンにとって、その勝利(triumph)は短期間のものだった。
 この獲得によって破産し、自分の金持ちの妻との屈辱的な離婚のどさくさの中で、エルギンはカネが必要だった。・・・
 1816年に、英議会は、このパルテノンの大理石群のために350,000ポンドを支払ったが、その大部分はエルギンの大勢の債権者達の手に渡り、その新しい収容先は大英博物館に定められた。・・・
 1832年以来、戦争の被害を避けるために地下鉄のオルドウィッチ(Aldwych)駅<(注10)>に避難した10年間を除き、この大理石群は、大英博物館にとどまり続けている。」
http://www.bbc.com/news/entertainment-arts-30342462

 (注10)ロンドンの地下鉄ピカデリー線の支線の唯一の駅(終点)であり、194〜46年の間、この都心の支線は閉鎖され、市民の避難所とされた。1994年に永久閉鎖。
http://en.wikipedia.org/wiki/Aldwych_tube_station

(続く)