太田述正コラム#7338(2014.12.2)
<米国人の人間主義論>(2015.3.19公開)

1 始めに

 珍しくも、私の言うところの人間主義論を展開する米国人、ジョン・テレル(John Terrell)のコラム
http://opinionator.blogs.nytimes.com/2014/11/30/evolution-and-the-american-myth-of-the-individual/?ref=opinion&_r=0
(12月1日アクセス)に出会ったので、そのさわりをご紹介したいと思います。
 なお、テレルは、フィールド自然史博物館の太平洋人類学の学芸員であり、かつ、イリノイ大学シカゴ校(University of Illinois at Chicago)
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Illinois_at_Chicago
の人類学教授です。
 (イリノイ大学シカゴ校は、一流校の一つである、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校(University of Illinois at Urbana--Champaign。いわゆるイリノイ大学)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%8E%E3%82%A4%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%A0%A1
とは違うので注意。)

2 米国人の人間主義論

 「アリストテレス(Aristotle)<(注1)>からヘーゲル(Hegel)<注2)>に至る哲学者達は、人間達は本来的に社会的諸動物なのであって、孤立した個人という観念は<人を>誤解させる抽象化であること、を強調してきた。

 (注1)BC384〜322年。「「人間は政治的動物である」とかれは定義する。自足して、共同の必要のないものは神であり、共同できないものは野獣である。両者とは異なって、人間はあくまでも社会的存在である<、と>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9
 (注2)Georg Wilhelm Friedrich Hegel(1770〜1831年)「倫理的に生きるには倫理的な法を持つ国の国民になればよいというヘーゲルの言葉<がある。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB

⇒揚げ足を取るようですが、後で登場する、ホッブスやロックやルソーだって哲学者なのであり、(私に言わせればアリストテレスは欧米哲学者ではありませんが、)欧米哲学者の全体ないし主流が人間社会的動物説に立脚していたかのような叙述はいかがなものかと思います。(太田)

 だから、現代の進化研究、人類学、認知心理学、及び、神経科学が、人間の社会生活の基本的単位が、利己的で私利追求的な(self-serving)個人であったことは一度もないと主張してきたところの、哲学者達の側に立つに至ったことは、単に皮肉であるのみならず、啓蒙的でさえある。
 <これは、米国の>リバタリアンや茶会の修辞とは相反する<わけだ。>・・・
 多くの人々がキリスト教原理主義と密接に関連付けている(link closely with)ところの、今日の米国の個人主義が、17世紀と18世紀における、人間が本来的に自利志向的(self-interested)で自己中心的(self-centered)な諸個人である、との諸観念に・・ホッブス、ロック、そして、ルソーといった論文家達が<自分達の>書いたことが、当時、歴史の始期における人類の「自然状態」は恐らく間違いなく福音的真実と受け止められることを意図していたわけでは決してなかったにもかかわらず、・・意識過剰なほどに(self-consciously)立脚していることには、皮肉以上のものを私は見出す。・・・
 「個人の力(strength)によってのみ羈束される自然的自由」と「一般意思にによって限界を画される市民的自由」との間に線引きをしようと試みたところの区別(distintion)は、<あくまでも、>事実(factual)ではなく、想像上のもの(fanciful)なのだ。
 <ただし、>このことは、間違いなく、啓蒙主義の哲学者達が聞きたかったことではない。
 ルソー等によれば、社会の成員達としての我々の相互の諸責任や諸義務は、自然からではなく、我々の社会的諸約束事(conventions)から来ている、というのだ。
 後者の諸起源についての彼らの諸憶測(speculations)においては、全ての諸社会中、最も古いものは家族である、と一般に主張されたところだ。
 にもかかわらず、彼らの諸眼には、一つの社会的単位たる家族でさえ束の間のもの(ephemeral)、と映じていた。
 <実に、>ルソーはこう書いた。
 「子供達は、自分達の生存(preservation)に必要な限りにおいてのみ父親に懐いている(be attached to)だけなのだ。この必要性が終わるや否や、自然的な絆は解消される」、と。
 自分達の父親への忠順(obedience)から解放されると、その次の世代<の諸個人>は、<それぞれが、>たった一つの(singular)自由と独立の生活を送る自由を得る。
 子供のうちの誰かが自分が生まれた家族と統合され続けることを選んだとすれば、彼は、「もはや自然にではなく、自発的に」そうしたのであり、「その家族自身が、爾後、約束事によってのみ維持されていくのだ」、と。
 ルソーに公正を帰するならば、私が前に述べた所見のように、彼はこのような諸主張を文字通り受け止めてもらうつもりはなかったのかもしれない。
 彼が彼の論考(discourse)である『不平等起源論(On the Origin of Inequality)』の中で言明したように、「社会の諸基盤を探求した哲学者達は、全員、自然状態へ回帰する必要性を感じたけれど、彼らのうちの一人もそこに到達した者はいなかった」というのだ。
 では、どうして、それらについて本当に信じていなかったのなら、人間の歴史について、<彼らは、>諸物語をでっちあげたのだろうか。
 単純な答えは、少なくとも、啓蒙主義期の間には、彼らは、人々が、文明化された生活は、社会諸約束事、或いは、少なくとも、譬えて言えば、自由で正気で平等な人間達によって作成されたところの、諸契約(contracts)・・統治者達と被統治者達の間に係る(pertain to)べき道徳的かつ有効な(working)諸関係を規律すべく拡大されることが可能かつ拡大されるべき諸契約・・に立脚している、という彼らの主張を受容することを欲した、ということなのだ。
 要するに、彼らの諸狙いは、歴史的、科学的、ないしは宗教的ではなく、政治的なのだ。
 彼らの諸動機や諸標的がいかに実際的(pragmatic)なものであろうと、ルソーその他の人々が、自分達の諸観念に資するために諸主張として手塩にかけて作った(crafted)ものは、全て、原始的な神話の諸特徴(earmarks)を有していた。・・・
 ・・・<当然ながら、>全ての諸神話が信条と智慧のための良き諸憲章(charters)にはなりえない。

⇒個人主義はイギリス文明の核心ではあっても、人間主義的なものによって補完されていたわけですが、ホッブス、ロック、ルソー、或いはアダム・スミスらは、意識的ないし無意識的に、人間社会を科学的に描写する方便として、方法論的個人主義を措定した、というのが私の考えです。
 更に言えば、ホッブス、ロック、ルソーらは無意識的にこれを行ったのに対し、アダム・スミスは(経済を論ずる場合に限って)意識的に行った、と思うのです。(太田)

 今日における、<米国の>リバタリアン達や茶会保守派による、諸個人の諸権利及び彼らの諸自由の神聖化は、社会的諸動物として進化した人間の本性(nature)に相反する。
 市民社会<期、すなわち啓蒙主義期以降>より前においては、歴史の中で、我々一人一人が自分達が行うべく選んだことを行うことが何でも完全に自由であったような時は一度もない。
 <いや、市民社会期においてもまた、>我々は、常に社会的であってかつ思いやりを持った(caring)生き物群であり続けてきた。
 我々一人一人が、自分達自身、我々自身の生存、そして、我々自身の諸成就(achievements)、だけを気に掛けることが合理的で自然であるという思想は、危険な(treacherous)でっち上げ(fabrication)なのだ。」

⇒以上については、同意です。(太田)

3 終わりに

 全体としては、テレルは、極めてまっとうなことを言っているわけですが、申し上げるまでもなく、このような、人間主義に立脚した指摘を行う知識人は米国に殆んどいませんし、テレルが、必ずしも一流とは言えない大学で教鞭を執っていることは、そのことを裏付けている、と言うべきでしょう。
 それはともかく、このような内容のコラムをNYタイムスが掲載したことは、画期的だと思います。