太田述正コラム#7316(2014.11.21)
<同じ声で吠え続けることしかできないフクヤマ(その5)>(2015.3.8公開)

 (3)各国

 「<フクヤマは、>実際の場所として、或いは隠喩として、デンマークこそ、集団的完全性に我々が最も近づいている<とする。>・・・

⇒デンマークに限りませんが、人口が1,000万人にも達しない・・デンマークの場合はわずか560万人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF
・・、一都市なみのミニ国家を理念型視、ないし、理想視するのは、何度も申し上げているように、噴飯ものです。(太田)

 日本とドイツという、近代的な官僚的諸国家を諸専制国家(tyrannies)へと転じさせるのは容易であることが明らかになった。
 <この両国では、>反対勢力を動員することができる市民社会が存在しなかったのだ。」(F)

⇒(人間主義云々を度外視しても、)自由民主主義が定着していなかったドイツで少数派であった特定の政党のナチスが事実上のクーデタで政権を乗っ取り、戦争をしかけて行ったのとは違って、自由民主主義が定着していた日本では国民が支持した歴代政権が国民の声に押される形で防御的戦争を次第に拡大する形で行ったのであり、戦間期のドイツと日本を一括りにして論じるのは、ナンセンスの限りである、としか言いようがありません。(太田)

 「フクヤマの分析は、興隆しつつある世界の諸大国の政治的健康を評価するための出来の良い(neat)チェックリストを提供している。
 例えば、インドは、その植民地としての歴史のおかげで、(官僚的にして非効率的ではあるが)法の支配と(混沌的で扱いにくい(cumbersome)が)民主主義的答責性を有するけれど、その中央政府(central state)の権威(authority)は(ナレンドラ・モディ(Narendra Modi)<(コラム#6956、6962、7000、7024、7149、7159、7229、7262)>が変えようと試みているが)相対的に弱い。
 3つのうち2つというのは悪くないが、<この2つが>確定された事項であるとはとても言えない。
 対照的に、支那は、自身の帝国的大国としての歴史の賜物で、(何千年も前からの)強力な中央政府を持っているけれど、相対的に弱い、法的及び民主主義的答責性しか持っていない。
 その点数は3つのうち1つ半くらいだが、民主主義化することを<今後>選択するのであるとすれば、その順序は<インドよりも>正しい、ということになろう。・・・
 <とにかく、>順序が正しいことが何よりも大事なのだ。
 民主主義が最初に来るのではないのだ。
 強力な国家こそ<最初に>来るべきなのだ。
 効果的に統治する能力を獲得するより前に民主主義化した諸国家は、例外なく失敗する<からだ>。
 これこそ、アフリカの多くの箇所において、道を間違った事柄なのだ。
 民主主義は、<政府を>余りに多くの互いに相反する諸要求に対処させたことによって、政府がその権威を行使(exert)する能力を徐々に破壊してきたのであり、その結果、民主主義は、既存の諸欠陥を是正するどころか、より悪化させてきたのだ。
対照的に、東アジアでは、日本や韓国のような場所群において、伝統的に、強力な中央政府(central government)が民主主義に先行したが、それは、<おかげで、>国家が人々への権力付与(empowerment)下で生き延びられることを意味した。」(I)

⇒この書評子がたまたま言及しなかったということなのかもしれませんが、フクヤマが、日本と韓国の過去における法の支配についてどう考えているのか、知りたいところです。
 法の支配と人権概念はほぼコインの表裏の関係にある、と私は考えているところ、日本のような人間主義社会においては、統治者と被統治者の関係は、法の支配/人権よりも、次元が高く、より精緻であるところの人間主義によって規律されている、というのが私の見解であることはご承知の通りです。
 言うまでもなく、日本と韓国(朝鮮半島)の決定的な違いは、人間主義の有無にあります。(太田)

 「資本主義は1989年に勝利を収め、まともな(crredible)諸代替物はいまだに出現していないけれど、それは自由民主主義へとは導かなかった。
 <そもそも、資本主義≒>市場諸システムは、政治的に乱交的(promiscuous)であることが判明した。
 すなわち、市場諸システムは、北欧的(Nordic)諸民主主義からシンガポール的諸メリトクラシーに至る、いかなる政治的諸体制ともベッドを共にすることができるのだ。
 習近平の支那とプーチンのロシアにおいて、欧米の自由民主主義は、今や、フクシマが予期しなかった競争相手に直面している。
 すなわち、それは、経済においては資本主義なのだが、政治においては専制的であり、イデオロギーにおいてはナショナリズムなのだ。
 これらの新しい専制主義諸国は、私的自由を認める諸体制が自分達の市民達に公共的自由を与えなくても持ちこたえることができるか否か<を確認する>、という画期的な歴史的実験を実施している。」(H)

⇒マクロ的かつ長期的に考察すれば、プーチンのロシアはポスト農業社会であることを念頭に置きつつ、プロト欧州文明回帰を目指しており、その方向性を共有するところの、独仏伊等の欧州諸国と収斂しつつあるのに対し、習近平の支那は、日本文明継受を目指しており、日本に収斂しつつあるのであって、両者が似て非なるものであることは、太田コラム読者はご承知の通りです。(太田)

 「数年前、私はイタリアのナポリの近くで家を借りた。
 私に鍵束を渡す際、家主は水道水を飲まないように注意した。
 この地域のゴミ収集を統制しているマフィアは、明らかに、ゴミを違法に埋めてきたのであり、その結果、諸貯水池に有毒なゴミが浸出している、というわけだ。・・・
 有毒な水を、イタリア的な諸ステレオタイプに訴えることで説明することは容易いことだが、それは余り啓発的であるとは言えない。
 <いずれにせよ、>政府の無能さ(incompetence)は、実のところ、普遍的にみられる。
 フランスの駅はどれも汚い。
 スペインの諸幹線道路では追剥がお咎めなく活動している。
 ギリシャの税収の3分の1は徴収されることがない。
 米国では、銃を携えた精神異常者達が公共の安全を脅かしている。
 にもかかわらず、フランス、スペイン、ギリシャ、及び、米国は、全て、「発展した」諸国なのだ。」(B)

⇒あたかも、デンマークを始めとする北欧諸国、ドイツ、そして、拡大英国はまともだといわんばかりですが、北欧諸国は、皆、都市国家に毛が生えた程度の存在に過ぎず、ドイツの異常性は、表見的には見えないけれど、深く蔵されていていつまた爆発的に顕現するかもしれませんし、拡大英国についても、少なくとも「本国」のイギリスにおいては、個人主義が、人間主義的原理によって次第に掣肘されなくなりつつあるように見えるのであって、「欧米」全般が、もはやそれ以外の世界のモデルたりえなくなっている、と言うべきでしょう。(太田)

(続く)